西川周作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:サッカー選手 西川 周作(にしかわ しゅうさく、1986年6月18日 - )は、大分県宇佐市出身のプロサッカー選手Jリーグ浦和レッズ所属。ポジションゴールキーパー日本代表

来歴

U-15から大分トリニータの下部組織で育ち、頭角を現す。2003年にはU-18日本代表に初選出され、松井謙弥山本海人らとのポジション争いを制して年代別代表の正GKに定着。2005年6月にオランダで開催されたワールドユースでは、全4試合に先発出場した。

大分U-18在籍時の2004年にはトップチームに2種登録選手として選手登録され、リーグ戦1試合でベンチ入りした。翌2005年からは大分のトップに正式昇格。当初は江角浩司の控えだったが、ワールドユースから帰国直後の7月12日、対横浜F・マリノス戦で初先発を果たすと、以降1試合を除いて全試合に出場。高卒1年目から正GKの座を奪取した。

2006年8月31日アジアカップ最終予選サウジアラビア戦(9月3日)、イエメン戦(9月6日)のメンバーとしてA代表に初選出。初出場は叶わなかったものの、川口能活楢崎正剛の後継者として注目度は高まった。しかし、同年11月18日の対ヴァンフォーレ甲府戦で、左ひざ靭帯損傷で全治3ヶ月の重傷を負い、残りのシーズンを棒に振る。翌2007年3月10日の対ジュビロ磐田戦で復帰したが、その後も細かい負傷での離脱が目立ち、この時期はベテランの下川誠吾と激しいポジション争いを繰り広げていた。

2008年、7月20日のジュビロ磐田戦の後半44分にボールをグラウンドに叩きつけて審判の判定に異議を示したことでイエローカードを受けたが、同日、自身のブログにて「わざとイエローカードをもらいました」と、累積警告を消化する意図で故意に反則を犯したことを示唆し、物議を醸した。この年は北京オリンピック代表に選出されたが、精彩を欠いてしまい3戦全敗でグループリーグ敗退に終わった。また、五輪後の9月13日に行われた対浦和レッズ戦で負傷。残りのシーズンを棒に振り、またしても長期離脱となった。

2009年10月8日アジアカップ最終予選・香港戦にフル出場し、初選出から3年越しの代表デビューを果たした[1]。またこの年は、レギュラー定着後初めて怪我なくシーズンを過ごし、自身初のリーグ全試合フル出場も達成した。しかし、この年の大分は14連敗を喫するなど大不振に陥り、西川の奮戦も実らずJ2降格が決定。更にシーズン終盤には、巨額の債務超過をはじめとする深刻な経営危機が発覚し、西川をはじめとする主力選手を引き留めることは財政面で不可能となった。同年オフ、いくつかのオファーの中から、サンフレッチェ広島へ移籍金7000万円[2]で完全移籍。背番号はルーキー時代以来となる「21」に決まった。

2010年は広島でレギュラーとして自身2年連続となるリーグ戦全試合に出場。2010 FIFAワールドカップではドイツ大会以降招集歴の無かった川口能活が本大会メンバーに選出された煽りを受ける形で本大会メンバーから落選、予備登録選手として選出された[3]。W杯後に岡田武史が退任し、アルベルト・ザッケローニの就任後は再びコンスタントに代表に招集され、10月8日アルゼンチン戦では川島永嗣の負傷により85分から途中出場し、勝利に貢献した。

AFCアジアカップ2011ではグループリーグ第2戦のシリア戦で、川島永嗣が退場処分を受けたため途中出場。最初のプレーとなったPKで代表4試合目にして初失点を喫したが、その後は無失点に抑え勝利に貢献した[4]

下田崇の引退により、2011年から再び背番号「1」をつけることになった。2012年は4年連続となるリーグ戦全試合出場を果たし広島のリーグ優勝に大きく貢献した。同年、自身初のJリーグベストイレブンに選出された。

2013年はリーグ戦33試合に出場し、リーグ最少の29失点とクラブの連覇に大きく貢献した。天皇杯準決勝のFC東京とのPK戦では両チーム3人蹴り終わり1-3と絶体絶命の中、連続で相手のPKをセーブし、自身もPKを決めて大逆転でチームを決勝へと導いた[5]

2014年浦和レッズへ完全移籍した[6]。背番号は2010年以来となる「21」に決まった。入団後はすぐに正GKの座を確保すると、7月にはJリーグ記録を塗り替える7試合連続無失点を達成し、前年まで不安定だったレッズの守備を立て直す原動力となった。 同年5月12日には、2014 FIFAワールドカップの本大会メンバーに選出された。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。

人物・エピソード

  • 大分県生まれの大分県育ちで、中学年代から大分トリニータの下部組織に在籍していたことから、大分への愛着は非常に強く、サポーターからも象徴的な選手の一人として愛されていた。大分の経営危機により移籍せざるを得なくなった際も最後まで残留と移籍で迷い、移籍を決断した際も「いつか必ず大分に戻ってきたい」とコメントを残している。
  • 父親は、globeメンバーのKEIKOの実家である料亭「山田屋」の料理長であることが、小室哲哉Twitterでの発言により明らかになっている。
  • 元々の効き足は右足であり、サンフレッチェ広島の公式サイトに掲載されている。
  • 広島時代の西川の応援歌は、大分時代のものと同一である。
  • 既婚。

所属クラブ

ユース経歴

プロ経歴

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2005||rowspan="5"|大分||21||rowspan="10"|J1||21||0||1||0||2||0||24||0 |- |2006||rowspan="4"|1||30||0||5||0||1||0||36||0 |- |2007||11||0||2||0||2||0||15||0 |- |2008||22||0||5||0||0||0||27||0 |- |2009||34||0||3||0||1||0||38||0 |- |2010||rowspan="4"|広島||21||34||0||4||0||1||0||39||0 |- |2011||rowspan="3"|1||34||0||1||0||0||0||35||0 |- |2012||34||0||4||0||0||0||38||0 |- |2013||33||0||1||0||3||0||37||0 |- |2014||浦和||21|||||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始253||0||26||0||10||0||289||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終253||0||26||0||10||0||289||0 |}

※2種登録時代は試合出場無し

その他の公式戦

テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2010||rowspan="3"|広島||21||5||0||colspan="2"|- |- |2012||rowspan="2"|1||colspan="2"|-||3||0 |- |2013||5||0||colspan="2"|- |- !通算!!colspan="2"|AFC |10||0||3||0 |} その他の国際公式戦

タイトル

クラブ

大分トリニータ
サンフレッチェ広島

代表

日本代表

個人

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 13試合0得点(2009年-)[1]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2009||1||0 |- |2010||2||0 |- |2011||4||0 |- |2012||1||0 |- |2013||4||0 |- |2014||1||0 |- !通算 |13||0 |}

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「daihyo」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 2009年12月31日付 中国新聞 日本代表GK西川の獲得発表 3年契約、大分から移籍
  3. 中国紙が見た日本代表選考=守備重視でスター選手落選 Livedoorスポーツ 2010年5月27日
  4. 冷静24歳の西川 日本ゴール守る新守護神 アジア杯 イザ! 2011年1月15日
  5. 西川が執念の好セーブ連発!広島がPK戦を制し決勝進出
  6. 西川周作選手 完全移籍加入のお知らせ 浦和レッズ公式HP 2014年1月5日

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:浦和レッドダイヤモンズのメンバー テンプレート:Jリーグベストイレブン (GK) テンプレート:Navboxes