田辺徳雄

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テンプレート:Infobox baseball player 田辺 徳雄(たなべ のりお、1966年5月11日 - )は、山梨県出身の元プロ野球選手。現在は埼玉西武ライオンズ監督代行。現役時代のポジションは内野手西武ライオンズ黄金期の遊撃手として活躍した。読売ジャイアンツに移籍した2000年の登録名は田辺 路朗(たなべ のりお)。現役時代のあだ名は「おやじ」[1]

経歴

プロ入り前

吉田高校在学中のテンプレート:Byに、夏の選手権大会に出場。1回戦で吉井理人山下徳人を擁する箕島高校と対戦するが、延長13回サヨナラ負けを喫した。1984年のドラフト2位で指名され、西武ライオンズに入団。当時は西武黄金時代の始まりで、周囲の選手の体格やプレーを見てプロでやっていけるか強い不安を感じたという[2]

プロ野球選手時代

二軍では監督の日野茂や守備コーチの広瀬宰に厳しく鍛えられ、昼の試合後に特守を行なって夕食後も夜間練習をするほどだった[2]。その甲斐もあって1年目のテンプレート:Byイースタン・リーグ打率3割を記録し、秋にはアリゾナでの教育リーグに派遣された。翌テンプレート:Byは1Aにあたるカリフォルニアリーグサンノゼ・ビーズでトップバターとしてプレー。140試合に出て.306の高打率で[3]、1Aオールスターゲームにも出場した[4]。ここでは破けたスパイクを使う選手達を見てハングリー精神を学んだと語っている[4]

一方、1986年に監督に就任した森祇晶秋山幸二三塁手から中堅手に、石毛宏典を遊撃手から三塁手にコンバートさせた。田辺は石毛の後任の遊撃手となる事が期待され、帰国後のテンプレート:Byは背番号が6に変えられている。同年は開幕から一軍のレギュラーとなったが、気持ちを入れ込みすぎて練習で負傷し[4]さらにベン・オグリビーにスネをスパイクされ、後半戦は二軍で過ごした。翌テンプレート:By清家政和とレギュラーの座を争い、自己最高を更新する51安打、打率.258を記録するなど打撃力でポジションを勝ち取った[5]。しかしシーズン中にヒジを痛め、さらにそれをかばって8月に肩も痛めたため[6]後半戦は一軍登録を抹消されている。

テンプレート:By3月11日オープン戦で打球に飛びついた際に右肩鎖関節脱臼し、開幕から16試合を欠場したが、猛打賞を6回記録するなどの活躍で打順も8番から6番に上がった[7]。この年は年間を通じてスタメンに定着し、最終的にはブーマー・ウェルズに次ぐリーグ2位の打率.316を残し、ベストナインゴールデングラブ賞に選ばれている。また同年オフの12月7日には3歳年上の女性と結婚式を挙げて独身寮を出た[8]。翌テンプレート:Byからの西武のリーグ5連覇を遊撃手として支えている。

テンプレート:Byオールスターゲーム第1戦で7番・遊撃手として先発出場し、6番の石井浩郎および8番の佐々木誠とともに5回に小松辰雄から3連続本塁打を達成した[9]。この試合は3安打を放ち、優秀選手賞を受賞している[10]。シーズン通算ではリーグ3位の打率.302を記録して再びベストナインとゴールデングラブ賞を受賞している。4度の延長戦を経て4勝3敗で制したヤクルトスワローズとのこの年の日本シリーズが、自身の出場した日本シリーズの中で最も印象深かったという[11]

テンプレート:By奈良原浩の成長で出場機会が減り規定打席に到達しなかったが、球団からは一定の評価を受けて50万円増の年俸7,750万円(推定)で契約を更改している[12]。翌テンプレート:Byは規定打席には達しなかったものの自己最高の打率.338を記録。読売ジャイアンツとの同年の日本シリーズでも第1戦で水野雄仁から満塁本塁打を放ち、契約更改では年俸が1億円(推定)と大台に到達した[13]。同年オフに石毛宏典が福岡ダイエーホークスに移籍すると三塁手にコンバートされ、松井稼頭央と奈良原が主に遊撃手を務めるようになっている。その後スコット・クーパー鈴木健が三塁手のレギュラーとなり、田辺自身は二塁手や三塁手を務めた。

テンプレート:By、ヤクルトとの日本シリーズ第2戦で延長10回に代打として起用され、伊藤智仁からサヨナラヒットを放つ。オフにはフリーエージェントの権利を獲得したが、行使せずに残留。代打を務めていたテンプレート:Byには夏場でも昼12時に球場に一番乗りし、ランニングやダッシュ、ティーバッティングなどを全体練習前にこなし、試合に備えていた[14]。同年オフに巨人に金銭トレードされ、年俸3,200万円(推定)で契約を結んでいる[15]。自身は翌年が現役最後の年になると覚悟していたという[2]テンプレート:Byの出場は7試合に終わり、同年の日本シリーズ終了の翌日に戦力外通告を受けて1ヶ月考えた末に引退を決断した[2]

現役引退後

テンプレート:By文化放送で解説者を務め、テンプレート:Byから西武二軍打撃コーチに就任。中村剛也栗山巧など数多くの若手打者を一軍へ輩出した名伯楽である。2006年12月25日には早稲田大学人間科学部の通信教育課程に合格したことが、日本プロ野球OB会から発表された。テンプレート:Byに二軍野手総合コーチ、テンプレート:Byには二軍守備走塁コーチ、テンプレート:Byに再び二軍打撃コーチを務めてから、テンプレート:Byにフロントへ転出。しかし、後任の大久保博元が不適切な行為を理由にコーチ職を解任されたため、7月29日付で二軍打撃コーチへ復帰した[16]テンプレート:Byからは、一軍の打撃コーチを担当する[17]

テンプレート:By、チームは開幕から最下位に低迷し。6月3日に監督の伊原春樹が球団に休養を申し入れ、翌6月4日の対横浜DeNAベイスターズ戦(西武ドーム)後に伊原の休養と、田辺がシーズン残り試合の監督代行を務めることが発表された[18]。伊原は6月24日に正式に監督を退任したが、田辺がそのまま監督代行で指揮している[19]

プレイスタイル

打撃

アメリカへの野球留学でクラウチングスタイルを身に付けたが、日本の投手の左右への揺さぶりに対応しきれず[6]、足を上げてボールを呼び込むスタイルに変更した[11]。ポイントを近めにしたことで広角打法が身に付き、一、二塁間を抜ける当たりやライト前のポテンヒットが増えたという[11]AK砲の後の6番を打っていた頃は走者の残っている場面で打席を迎えることが多く、ヒット狙いで打席に立っていた[20]

ど真ん中の球は苦手で見逃す事も多かったが、高めはボール球でも積極的に打っていった[11]。外す配球がしにくいため田村藤夫ら他球団の捕手に嫌がられた[11]ものの、チーム内のミーティングで打撃コーチに怒られることも多かった[11]

守備

遊撃手時代は、二塁手辻発彦三塁手石毛宏典という名手に挟まれていた。遊撃手経験の長かった石毛には厳しく守備をチェックされ、声を出さずに捕球して怒られる事もあった[4]。辻にはキャンプ期間から連係プレーの練習に付き合ってもらっていたが、6-4-3のダブルプレーの送球は非常に緊張したという[4]。余裕を持って打球に追いつく高い身体能力が認められ、石毛のコンバート後に10年間は遊撃守備でチームを支えられると森祇晶は評価していた[1]

30歳を過ぎると頭の中でイメージする遊撃守備に体がついていかない事も増えた[11]。二塁や三塁の守備についた事で新たな視点を得ることができ、勉強になったと語っている[11]

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 西武 2 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .000 .000 .000 .000
テンプレート:By2 78 241 223 24 50 10 1 7 83 15 3 2 6 1 11 0 0 37 7 .224 .261 .372 .633
テンプレート:By2 74 214 198 25 51 8 2 7 84 23 1 0 10 0 6 0 0 27 6 .258 .279 .424 .703
テンプレート:By2 114 472 424 51 134 20 3 8 184 68 18 10 21 8 14 1 5 32 8 .316 .345 .434 .779
テンプレート:By2 113 371 330 34 79 20 1 6 119 34 8 7 21 2 17 0 1 30 5 .239 .279 .361 .640
テンプレート:By2 124 415 359 42 96 19 0 11 148 54 3 3 17 4 34 1 1 63 5 .267 .332 .412 .744
テンプレート:By2 126 441 401 50 121 32 0 13 192 63 4 4 16 2 19 0 3 48 10 .302 .338 .479 .817
テンプレート:By2 104 291 260 26 64 13 1 6 97 32 4 1 11 3 15 0 2 36 10 .246 .292 .373 .665
テンプレート:By2 104 365 337 44 114 18 1 8 158 41 6 4 11 0 16 1 1 41 10 .338 .370 .469 .839
テンプレート:By2 117 389 348 38 89 14 1 6 123 40 8 6 14 4 20 0 3 55 16 .256 .302 .353 .655
テンプレート:By2 83 229 210 19 46 8 0 7 75 19 1 1 10 1 7 1 1 34 6 .219 .248 .357 .605
テンプレート:By2 63 136 122 9 26 2 0 3 37 13 3 0 5 2 6 0 1 21 2 .213 .256 .303 .559
テンプレート:By2 79 185 168 9 42 4 2 4 62 30 0 0 3 3 11 1 0 23 7 .250 .296 .369 .665
テンプレート:By2 41 77 70 3 13 2 0 1 18 9 1 0 0 2 5 1 0 18 4 .186 .240 .257 .497
テンプレート:By2 巨人 7 7 7 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .143 .143 .143 .286
通算:15年 1229 3837 3461 374 926 170 12 87 1381 442 60 38 145 32 199 6 18 469 97 .268 .307 .399 .706
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

背番号

  • 51 (1985年 - 1986年)
  • 6 (1987年 - 1999年)
  • 23 (2000年)
  • 76 (2002年 - 2009年)
  • 82 (2010年 - )

登録名

  • 田辺 徳雄 (たなべ のりお、1985年 - 1999年、2002年 - )
  • 田辺 路朗 (たなべ のりお、2000年)

関連情報

出演番組

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:埼玉西武ライオンズ テンプレート:埼玉西武ライオンズ歴代監督 テンプレート:Navboxes

テンプレート:西武ライオンズ1984年ドラフト指名選手
  1. 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 読売新聞、1987年5月8日付夕刊、P.3
  2. 以下の位置に戻る: 2.0 2.1 2.2 2.3 週刊ベースボール、2000年12月25日号、P.109
  3. 元の位置に戻る baseball-reference.com 個人成績
  4. 以下の位置に戻る: 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 週刊ベースボール、2000年12月25日号、P.110
  5. 元の位置に戻る 朝日新聞、1988年6月21日付朝刊、埼玉地方面
  6. 以下の位置に戻る: 6.0 6.1 週刊ベースボール、1989年10月9日号、P.116
  7. 元の位置に戻る 週刊ベースボール、1989年9月25日号、P.27
  8. 元の位置に戻る 週刊ベースボール、1989年9月25日号、P.28
  9. 元の位置に戻る 1992年NPBオールスター第1戦 公式記録
  10. 元の位置に戻る 読売新聞、1992年7月19日付朝刊、P.21
  11. 以下の位置に戻る: 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 11.6 11.7 週刊ベースボール、2000年12月25日号、P.111
  12. 元の位置に戻る 朝日新聞、1993年12月16日付朝刊、P.22
  13. 元の位置に戻る 朝日新聞、1994年12月11日付朝刊、P.27
  14. 元の位置に戻る 週刊ベースボール、1999年8月31日号、P.64
  15. 元の位置に戻る 読売新聞、1999年11月6日付朝刊、P.27
  16. 元の位置に戻る ファーム打撃コーチ就任のお知らせ
  17. 元の位置に戻る 2013年度コーチングスタッフ発表
  18. 元の位置に戻る テンプレート:Cite news
  19. 元の位置に戻る 西武 伊原氏退任 球団本部付アドバイザーに 田辺代行そのまま指揮スポーツニッポン2014年6月27日配信
  20. 元の位置に戻る 週刊ベースボール、1989年10月9日号、P.117