氏
- 氏(うじ、ウジ)は、事実上または系譜上、祖先を同じくする同族とされる家の集団。氏族。→古代氏族としての「氏」の節を参照。なお、中国の氏族については氏 (中国)の項を参照。
- 氏(うじ)は、家(家族)の名称。代々引き継がれ、系統(家系)を表す名称となる。姓氏(せいし)、姓(せい、本姓)、名字(苗字)。中世後期から明治時代初期まで、氏とは「姓」(せい、本姓)を指し、「名字」(苗字)とは区別された。→家の名称としての「氏」の節を参照。
- なお、1947年(昭和22年)の民法改正後の現行法下での「氏」の法的性格については、血縁や家族を背景としているとみる説(血縁団体名称説や家族共同体名称説)があるのに対して、何らかの集団を背後に予定しなければならない根拠はないとして純粋に個人の名称であるとする説(個人呼称説)や多元的に捉えるべきとする多元的性格説等もあり氏の法的性格については見解が分かれている[1][2](個人呼称説が民法学上の通説であるとされるが[3]、近時、現実の家族共同生活をする個人に共通する呼称としての性格を併せもっているとの見解が有力になっているとされる[4])。現行の日本の法制度上の氏については現代日本法における氏の節を参照。
- 氏(うじ)は、家柄、家系のこと。
- 氏(うじ、し)は、人名に付けて敬意を表す敬称。
目次
古代氏族としての「氏」
日本の古代における氏(うじ、ウジ)とは、事実上または系譜上、祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指す。家々は氏を単位として結合し、土着の政治的集団となった。さらに、ヤマト王権(大和朝廷)が形成されると、朝廷を支え、朝廷に仕える父系血縁集団として、氏姓(うじかばね)制度により姓氏(せいし)へと統合再編され、支配階級の構成単位となった。
氏では、主導的立場にある家の家長が「氏の上」(うじのかみ)となって、主要構成員である「氏人」(うじびと)を統率し、被支配階層である「部民」(べのたみ)や「奴婢」(ぬひ)を隷属させた。氏は、部民や田荘(たどころ)、賤(せん)などの共有財産を管理し、「氏神」(うじがみ)に共同で奉祀した。氏の名は朝廷内での職掌や根拠地・居住地の地名に由来し、多くは氏姓制度により地位に応じて与えられたカバネ(姓)を有し、政治的地位はカバネによって秩序づけられた。
- 地名に由来する氏 -出雲氏、尾張氏、和邇氏、吉備氏、葛城氏、蘇我氏、毛野氏など。
- 朝廷内の職掌(品部)に由来する氏 - 物部氏、大伴氏、阿曇氏、額田部氏、膳氏、日下部氏など。
- 天皇に姓を賜わり新たに命名された氏 - 藤原氏、橘氏、源氏、平氏、豊臣氏など。
多氏、阿倍氏のように、地名起源か職掌名起源か議論がある氏もある。ウジの後には、(古代は)格助詞「の」を入れて読む。こののは、帰属を表す。例えば「蘇我馬子(そがのうまこ)」ならば、蘇我氏「の(に属する)」馬子、源頼朝(みなもとのよりとも)ならば、源氏「の」頼朝という意味となる。
また、氏の呼称は自己の属する血縁集団に基づいて名乗るものであり、婚姻によって本来所属していた家族集団とは違う氏に属する家族集団に移ったとしても氏を変えることはなかった。平(北条)政子が源頼朝の正室になっても「源政子」と名乗らなかったのはこうした考え方による。ただし養子縁組の場合はケースバイケースであった。源師房が藤原頼通の養子になっても「藤原師房」とは名乗らなかったが、源義家の四男惟頼が高階氏に養子に行ったときは、高階氏に改姓している。藤原清衡のように、もともと入り婿の形で清原姓を名乗っていたものが、藤原姓に戻したものもある。
家の名称としての「氏」
中世
平安時代の貴族や武士では、血縁集団を区別するための氏(ウジ)とは別に、家族集団を区別するために家名ないし苗字を名乗るようになり、それが一般的に通用するようになる。例えば源氏の中のある家系は足利という苗字を称し、別の家系は新田の苗字を称した。つまり足利も新田も、血縁集団としては同じ源姓の源氏だが、家族集団としては足利家と新田家と別個に分かれた。時がたてば、足利も新田も家族的規模からより大きな氏族的規模となり、そこからさらにまた家族集団が新しい苗字で別れていった。
近世
江戸時代までは、朝廷の公式文書には氏(ウジ)と姓(カバネ)を記すのが習わしであった。姓(カバネ)が朝廷との関係を表す。例えば、源氏を自称した徳川家康の場合は「源朝臣家康」と記した。「源」が氏(ウヂ)で、「朝臣」が姓(カバネ)である。ただし、平安時代の頃から、氏(ウジ)と姓(セイ)とは同じものとされるようになり、例えば「源」は姓=氏とされた。姓(氏)と名字(苗字)との違いは、姓=氏が天皇(朝廷)から賜ったものであるのに対し、名字は自らが名乗ったものであるということである。例えば、足利尊氏の場合、姓(氏)の「源」を使った場合は「源尊氏」であるのに対し、名字(苗字)の「足利」を使った場合は「足利尊氏」である。
近代
明治時代においては、まず1870年に、それまで身分的特権性を有していた苗字を平民も自由に公称できるようになり、苗字の特権性が否定された(平民苗字許容令)。つまり明治以前までの、姓(氏)と、名字(苗字)の二重制度が廃止され、姓(氏)=名字(苗字)として一元化され、自由に名乗れることにされたのである。
1872年に壬申戸籍が編纂された際、戸主の届出によって、戸籍へ登録する氏が定められることとなる。それまで、朝廷で編纂される職員録には伝統的な氏(うじ)と諱が用いられてきたが(明治4年4月の職員録では例えば「右大臣従一位藤原朝臣實美三条」のように「氏姓諱」の下に小文字で苗字が記されていたが[5]、同年12月の諸官省官員録では「太政大臣従一位三條實美」のように表記されている[6]。)、多くの戸主は籍への登録は苗字家名を以てした。広く知られている例では、越智宿禰博文が伊藤博文と、菅原朝臣重信が大隈重信と、源朝臣直正が鍋島直正と、藤原朝臣利通が大久保利通と、藤原朝臣永敏が大村益次郎と登録したものなどである。その後も伝統的に旧来の氏を用いる場面は皆無ではないが、この壬申戸籍以降、国家が公的な場面で旧来の「藤原朝臣○○」などの名称を用いることはなくなり、この壬申戸籍によって伝統的な氏(うじ)の用法は事実上ほぼ途絶したものといいうる。
のち日本国民全てを戸籍により把握する必要が発生したことや事務上の要請もあったことなどから、1875年に、全ての国民について苗字の公称が義務づけられることになる(平民苗字必称義務令)。その際、妻は生家の苗字を称すべきか、夫のそれを称すべきかが問題となったが、1876年の太政官指令では、武士の慣行であった夫婦別氏の慣行に従うべきこととした。 これに対しては、庶民の生活実態に合わないなどの理由(社会生活上、嫁ぎ先の苗字を使うことがあった)で、明治政府の夫婦別氏政策に対しては、地方から疑問や批判も出され、事実上同氏を用いた者もあったと主張する者もいるが、実態は明らかではない。いずれにしても、法律上は夫婦別氏(子は親の氏を称する)であった。
その後、不平等条約の解消の一環として民法典の編纂がその頃始まったが、当時のヨーロッパ法(フランス法とドイツ法が参考にされたが、フランス法は夫婦別氏、ドイツ法が夫婦同氏であった)を参考にし、夫婦単位で妻が夫の氏を名乗る夫婦同氏制が草案の段階で採用され、1890年に公布された旧民法において、妻が夫の家の氏を用いるとする夫婦同氏の制度が初めて登場することになった(この旧民法において、法令上は「氏」で呼称が統一される)。
ところが、同氏とする旧民法案は、日本伝統の家父長制度を否定するものだとする反対論(いわゆる民法典論争)が多く施行されなかった。そこで、夫婦単位ではなく家単位とすることとして、改めて民法が制定・公布され1898年に施行された。これは、家族同氏として人民管理を容易にしたい内務省と婚姻により氏は変わらない伝統を重視する勢力との妥協の産物だとみられている。ここでは、家族制度につき戸主及びその家族から構成される家という集団を想定し戸主に家の統率権限を与えるという、いわゆる家制度が採用された(家制度自体は、旧民法でも採用)。そして「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」(明治民法746条)と定められたことから、氏は、家の呼称としての性質を有することになる。また、家を同じくする者を一つの戸籍に編成する法制を採ったため、戸籍編成の単位としての意味をも持つことにもなった。
なお、第二次世界大戦後、旧来の家制度は日本国憲法の理念と相容れなかったことから廃止されたため、新たに氏の法的性格をどのように考えるかが民法学上の論点となり、その中には血縁関係から完全に離れて純粋に個人の呼称であるとする学説などもある。日本の現行法上の氏については「日本法における氏」を参照。
現代日本法における氏
氏は名とともに氏名を構成する。現行の戸籍法によれば、戸籍には戸籍内の各人について氏名を記載することとされている(戸籍法第13条第1号)。
氏の法的性格
既述のように1898年(明治31年)に公布された民法では「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」と規定されていた(明治民法746条)。しかし、第二次世界大戦後における家族法の大改正の際、旧来の家制度は日本国憲法の理念と相容れなかったことから廃止された。氏の制度については存続したが、社会習俗上はともかく、法制度上は家という拠所を失ったため、その法的性格をどのように考えるかが問題となった。現行法上の氏の法的性格については、個人呼称説(氏は純粋に各人の同一性を識別するための個人の呼称であるとする説)、血縁団体名称説(血統名説とも。氏は各人の属する血縁団体(血縁)の名称であるとする説)、家族共同体名称説(家族共同態名説とも。氏は各人の属する家族(家族共同体・家族共同態)の名称であるとする説)、同籍者集団名称説(同籍者名説とも。氏は戸籍編製の基準となる同籍者集団の名称であるとする説)、多元的性格説(氏の法的性格について多元的に理解すべきとする説)など見解は多岐に分かれている[7][8][9]。このうち個人呼称説が現在の民法学上の通説であるとされるが[10]、近時、氏には人の同一性を明らかにするとともに[11]。現実の家族共同生活をする個人に共通する呼称としての性格を併せもっているとの見解が有力になっている[12]。
現行法上、氏の異同は原則として実体的権利関係を伴わないものとされる[13](復氏と姻族関係には互いにつながりはないこと、父の認知が直ちに子の氏に影響を与えることはないこと、氏の異同は扶養義務や相続権に影響しないことなど[14])。ただし、例外的に祭祀財産の承継と戸籍の編製については氏を基準としている[15]。
氏の取得と変動
氏の取得を生来取得あるいは原始取得という[16][17]。嫡出子は父母の氏を称し(民法790条第1項本文、親子同氏の原則[18][19]、子の出生前に父母が離婚したときは離婚の際における父母の氏を称する(民法790条第1項但書)。非嫡出子は母の氏を称し(民法790条第2項)、胎児中に父の認知があったときでも母の氏を称することになる[20]。ただ、民法は子が父又は母と氏を異にする場合について、791条の規定に従って、その父又は母の氏を称することができることとしている。戸籍法は発見された棄児については市町村長が氏名をつけることとしている(戸籍法第57条第2項)。
現行法上、氏は婚姻や養子縁組によって変動する。
婚姻関係
婚姻の場合、夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する(民法750条、夫婦同氏の原則[21][22]。ただし、日本の戸籍実務上、日本人が外国人と結婚する場合には夫婦同氏の原則の適用はないこととされており(昭和20年4月30日民事甲899号回答、昭和42年3月27日民事甲365号回答)[23][24]、この点について戸籍法は外国人と婚姻をした者がその氏を配偶者の称している氏に変更しようとするときは、その者は、その婚姻の日から6か月以内に限り、家庭裁判所の許可を得ないで、その旨を届け出ることができるとしているとしている(戸籍法第107条第2項))。
婚姻によって氏を改めた夫又は妻は、離婚又は婚姻の取消しによって婚姻前の氏に復する(民法767条第1項・民法771条・民法749条。復氏の原則[25][26])。ただし、離婚又は婚姻の取消しによって婚姻前の氏に復した夫又は妻は、離婚の日から3か月以内に戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、離婚の際に称していた氏を称することができる(民法767条第2項・民法771条・民法749条。婚氏続称。1976年に導入された制度で[27][28]、婚姻していた相手方の同意は不要[29])。
一方、離婚・婚姻の取消しの場合とは異なり、夫婦の一方の死亡の場合には当然には復氏しない[30]。ただし、生存配偶者は戸籍法上の届出を行うことで婚姻前の氏に復することもできる(生存配偶者の復氏、民法751条、戸籍法第95条)。
なお、外国人と婚姻をし戸籍法第107条第2項の規定による届出を行って氏を変更した者が、離婚、婚姻の取消し又は配偶者の死亡の日以後にその氏を変更の際に称していた氏に変更しようとするときは、その者は、その日から3か月以内に限り、家庭裁判所の許可を得ないで、その旨を届け出ることができるとしている(戸籍法第107条第3項)。
養子縁組
養子縁組の場合、養子は養親の氏を称する(民法810条本文)。ただし、婚姻によって氏を改めた者については、婚姻の際に定めた氏を称すべき間は婚氏を優先する(婚氏優先の原則、民法810条但書)。
養子は離縁によって原則として縁組前の氏に復する(民法816条第1項本文。復氏の原則[31])。例外として配偶者とともに養子をした養親の一方のみと離縁をした場合は復氏しない(民法816条第1項但書))。ただし、縁組の日から7年を経過した後に縁組前の氏に復した者は、離縁の日から3か月以内に戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、離縁の際に称していた氏を称することができる(民法816条第2項。縁氏続称[32])。
戸籍法上の氏の変更
やむを得ない事由によって氏を変更しようとするときは、戸籍の筆頭に記載した者及びその配偶者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない(戸籍法第107条第1項)。具体的な例としては、氏が珍奇・難解である場合、内縁関係にあり相手方の氏を通称してきた場合などがある[33]。戸籍法の氏の変更の場合、その効果は同一戸籍に属するすべての者に及ぶ[34]。
脚注
関連項目
テンプレート:Japanese-history-stub- ↑ 村重慶一著 『精選 戸籍法判例解説』 日本加除出版〈レジストラー・ブックス〉、2007年10月、8-9頁
- ↑ 青山道夫・有地亨編著 『新版 注釈民法〈21〉親族 1』 有斐閣〈有斐閣コンメンタール〉、1989年12月、346-347頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、12頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、12頁
- ↑ アジア歴史資料センター、レファレンスコードA09054276000。
- ↑ アジア歴史資料センター、レファレンスコードA09054276600。
- ↑ 村重慶一著 『精選 戸籍法判例解説』 日本加除出版〈レジストラー・ブックス〉、2007年10月、8-9頁
- ↑ 青山道夫・有地亨編著 『新版 注釈民法〈21〉親族 1』 有斐閣〈有斐閣コンメンタール〉、1989年12月、346-347頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、12頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、12頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、12頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、12頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、13頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、13頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、13頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、13頁
- ↑ 高橋朋子・床谷文雄・棚村政行著 『民法 7 第3版』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2011年12月、24頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、17頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、13頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、13頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、17頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、14頁
- ↑ 青山道夫・有地亨編著 『新版 注釈民法〈21〉親族 1』 有斐閣〈有斐閣コンメンタール〉、1989年12月、348頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、17頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、17頁
- ↑ 遠藤浩・原島重義・広中俊雄・川井健・山本進一・水本浩著 『民法〈8〉親族 第4版増補補訂版』 有斐閣〈有斐閣双書〉、2004年5月、15頁
- ↑ 高橋朋子・床谷文雄・棚村政行著 『民法 7 第3版』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2011年12月、26-27頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、17頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、17頁
- ↑ 高橋朋子・床谷文雄・棚村政行著 『民法 7 第3版』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2011年12月、28頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、7頁
- ↑ 高橋朋子・床谷文雄・棚村政行著 『民法 7 第3版』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2011年12月、29頁
- ↑ 二宮周平著 『家族と法』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年10月、21頁
- ↑ 高橋朋子・床谷文雄・棚村政行著 『民法 7 第3版』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2011年12月、26-27頁