抜刀隊

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抜刀隊(ばっとうたい)は、1877年明治10年)に起きた西南戦争田原坂の戦いの際に、警視隊の中から選抜して臨時に編成された白兵戦部隊

編成

田原坂の戦いにおいて、西郷軍による斬り込み攻撃により、政府軍(陸軍)では死傷者が続出した。数に勝る政府軍において人員の大多数を占める鎮台は、主に徴兵令によって徴兵された平民で構成されておりテンプレート:Refnest士族中心だった西郷軍との白兵戦に対応しにくかったとされる。

こうした状況下による事態を打開すべく、士族で構成され、主に陸軍の後方支援をしていた警視隊川畑種長大警部、上田良貞大警部、園田安賢中警部、永谷常修中警部らが、征討参軍(実質的総司令官)山縣有朋陸軍中将に対し、警視隊から剣術に秀でた者を選抜して投入することを上申した。徴兵令の主唱者である山縣にとって、士族の力を借りることは不本意であったが、山縣はこれを許し、警視隊から百余名をもって抜刀隊が編成された。

後述する犬養毅による報道が有名なこともあり、抜刀隊には戊辰戦争賊軍とされた旧会津藩士など旧幕府出身者が多く志願したといわれることが多いテンプレート:Refnest。一方、実際には薩摩藩郷士(外城士)出身者が主力を形成していたとする文献もある[1]。抜刀隊と警視隊が混同あるいは同一視されていることが一因であると考えられ、例えば元会津藩家老佐川官兵衛大警部は抜刀隊に所属していたとよく誤解されているが、佐川は豊後口第二号警視隊に所属しており、抜刀隊編成以前に戦死している。

なお、佐川と同じ会津藩家老であった山川浩陸軍中佐(32歳)は、西南戦争に出征する際、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」と歌っている。また、会津藩出身で当時陸軍幼年学校生徒であった柴五郎(17歳)は、西郷軍征討のが発せられたことを知ると、「征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」と日記に書き、さらに西南戦争での西郷隆盛の自決と、その翌年の紀尾井坂の変による大久保利通の暗殺を合わせ、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」と記している。

戦果

3月13日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げ、田原坂攻略の要となった。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。全滅した隊も少なくなかった。

会津藩士の隊員が、戊辰戦争賊軍の汚名を着せられた雪辱を果たすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれている。これは、当時郵便報知新聞記者であった犬養毅によって報道された。

『戦地直報』第二回 テンプレート:Quote

ただしこの内容は公式記録には無く、また記者であった犬養自身も直接現場を見てはおらず伝聞情報に基づいて報道したのである。この声の主については戦闘当時抜刀隊小隊長として奮戦した元会津藩士・田村五郎二等少警部ではないか、とする説もある[2]

その後

剣術の復興・警察剣道

抜刀隊の活躍によって、明治維新後廃れていた剣術日本刀の価値が見直された。川路利良大警視は『撃剣再興論』を著し、警察において剣術を奨励する意向を明らかにした。1879年(明治12年)、警視庁撃剣世話掛が設けられ、梶川義正上田馬之助逸見宗助が最初に採用された[3]。その後も真貝忠篤下江秀太郎得能関四郎三橋鑑一郎坂部大作柴田衛守など剣客が続々と採用され、これらの剣客によって警視流剣術の形が制定された。また、弥生神社で大規模な撃剣大会(警視庁武術大会)が開かれるようになり、警視庁は当時の剣客たちの最大の拠点となったテンプレート:Refnest

現在も警察剣道は日本剣道界の最大勢力であり、剣道特別訓練員に指定された警察官が全日本剣道選手権大会世界剣道選手権大会で活躍している。

軍歌・行進曲の制定

1882年(明治15年)、東京大学教授外山正一詩集『新体詩抄』に抜刀隊の奮戦を題材とした『抜刀隊の詩』を発表し、その詩にフランス軍楽隊からのお雇い外国人シャルル・ルルーを付け、1885年(明治18年)に軍歌抜刀隊』が発表された。さらにこの『抜刀隊』をベースとして、軍歌『扶桑歌』の旋律を組み合わせて、1886年(明治19年)に『陸軍分列行進曲』が作曲され、大日本帝国陸軍の公式行進曲として採用された。

現在も陸上自衛隊警視庁機動隊の公式行進曲として受け継がれており、陸上自衛隊は観閲式などで陸上自衛隊の音楽隊により演奏され、警視庁は視閲式などで警視庁音楽隊によって演奏されている。

日清戦争時の逸話

1894年(明治27年)に開戦した日清戦争は日本が初めて経験した本格的な対外戦争であり、日本国民から義勇兵の志願が相次いだ。警視庁においても戦争に貢献したいという意見が全庁員の間にみなぎり[4]、当時警視総監になっていた園田安賢は、西南戦争のとき抜刀隊が編成された例に倣って、抜刀隊を編成して戦地へ派遣したい旨の建言書を、第二部長(保安部)森田茂吉使者として内閣総理大臣伊藤博文に提出した[4]。伊藤は自分にはよく判らないとして、陸軍参謀次長川上操六に提出するよう指示した。

森田から建言書を渡された川上は、「警視庁の奴らは、今ごろこんな事を考えているのか。馬鹿な奴らだ、日本に軍制が布かれてから、もう20年以上も経っているではないか。日本の軍隊は、そんな幼稚なもんじゃない。抜刀隊なんていりやせん。帰って園田にそう言え」と激しい剣幕で突き返した[4]

抜刀隊が登場する作品

小説
テレビドラマ

脚注

注釈

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出典

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参考文献

  • 『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会
  • 『警視庁武道九十年史』、警視庁警務部教養課
  • 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』、光文社
  • 歴史群像シリーズ『図説・幕末戊辰西南戦争』、学研

関連項目

テンプレート:戦前の日本警察
  1. テンプレート:Cite book ja-jp
  2. 勇知之著『新説 西南戦争』、七草社 P.89-90
  3. テンプレート:Cite web
  4. 4.0 4.1 4.2 『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会 P.304-305