悪
テンプレート:Redirect 悪(あく)とは、文化や宗教によって定義が異なるものの、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である。
目次
日本語における「悪」
日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」と呼ばれた。鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。
本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。
『古事記』において、「悪事」は「マカゴト」と読ませる(古代の解釈では、悪の訓読みは「マカ・マガ」となる)。対して、「善事」は「ヨゴト」と読む。現代では、マガゴトの漢字は「禍事」を当て、ヨゴトは「吉事」の字を当てていることからも、古代の感性では、禍(か)=災い=悪という図式ということになる。
なお現在の日本での悪概念は、西欧の価値観に近いものとはなっているが、依然として相違を含んでいる。
善と悪
悪は善と対比される。
人間が善悪を意識、判断する場面は様々だが、家庭での躾から、教育、スポーツ、法律など、秩序を必要とするあらゆる場面で見出せる。生活に即したものとして宗教で、娯楽や伝承として物語の上で取り上げられることも多い。その際は、善をすすめ悪を除外すること(勧善懲悪)、善と悪との対決などがしばしば注目される。
善と悪は解釈や判断によって入れ替わる場合もあるため、規範という形で存在するものは、このような混乱を避けるためによく用いられる手段である。
中国の倫理哲学
後述する仏教と同様に、儒教と道教には西洋思想にみられるような善悪の対立構造がないが、中国の民間信仰では何か悪い物の影響についてよく言及される。儒教の主要な関心事は知識人や貴人にふさわしい正しい社会的関係・行動にあった。それゆえ「悪」という概念は悪い行動ということになる。道教では、二元論がその中心に据えられているにもかかわらず、道教の中心的な徳に対立する思いやり、節度、謙虚は道教において悪の相似物だと推測できる[1][2]。
西洋哲学
ニーチェ
フリードリヒ・ニーチェはユダヤ-キリスト教的道徳を否定し、『善悪の彼岸』・『道徳の系譜』の中で、非-善の本来の機能は弱者の奴隷道徳によって宗教的な悪の概念へと社会的に変容され、主人(強者)に反感を抱く大衆を抑圧した、といったことを主張した。
アイン・ランド
アイン・ランドは『利己主義という気概---エゴイズムを積極的に肯定する』で、「理性は人間の基本的な生存手段だから、理性的存在が生きるのに適したものが善い物である。逆に理性的存在が生きるのを否定・妨害・破壊するものが悪いものである」と書いている。この考えは『肩をすくめるアトラス』の中でさらに練り上げられており、「考えることは人間の唯一の基本的な美徳である。他の全ての徳は考えることから生まれてくる。そして、人間の持つ基本的な悪徳、つまり全ての悪の根源は人が皆実際にはやっているのにやっているとけっして認めようとしない名もなき行為、つまり自分の意識を故意に停止すること、考えるまでもなく盲目であることは否定するが実際には見ようとしないことだ。つまり、単純に無知なのではなく知ることを拒んでいるのだ。これは自分の心に焦点を当てるの避け、自分があるものを認識するのを拒んでいる限りそれは存在しないとか、自分が『それは悪い』という評決を下さない限りAはAでないといった暗黙の前提に基づいた判断を避ける心の中の霧を引き起こす行為だ。」とある。
スピノザ
バールーフ・デ・スピノザはこう言った: テンプレート:Cquote スピノザは半ば数学的な文体を使い、『エチカ』第4部で述べた定義から証明・説明できると自分が主張しているさらなる命題について述べている[3]:
- 命題8 「善や悪の知識は私たちが意識する限りでの喜びあるいは悲しみの気持ちでしかない。」
- 命題30 「私たちの本性において共有されているものを持つことを通じて悪であるものはあり得ないが、あるものが私たちにとって悪である限りではそのあるものは私たちと相いれない。」
- 命題64 「悪の知識は不適切な知識である。」
- 推論「それゆえに人の心の中に適切な知識しかなければ、悪い考えが形成されることはないであろう。」
- 命題65 「理性の導きに従えば、二つの善い物のうちより善い物を選ぶことになるし、二つの悪いもののうちより悪くない方を選ぶ。」
- 命題68 「人間が自由に生まれたら、自由である限りその人間はよい考えも悪い考えも持たない。」
以上のニーチェ、ランド、スピノザのような哲学的考察は後述する神学的考察と比較でき、対照をなすが、ニーチェとランドは無神論者でありスピノザはそうではないことが指摘される。
心理学
カール・ユング
カール・グスタフ・ユングは『ヨブへの答え』やその他の著作で、悪を「悪魔の暗黒面」だと言っている。人は他者へ寄り添う影を思い描くので、悪は自分の外部にあるものだと信じがちである。ユングはイエスの物語を自らの影に直面する神の話として解釈した[4]。
ジンバルドー
2007年にフィリップ・ジンバルドーは、人々は集合的アイデンティティーの結果として邪悪な行動をとり得ると主張した。この仮説は、彼が以前にスタンフォード監獄実験を経験したことに基づいていて、著書『The Lucifer Effect: Understanding How Good People Turn Evil』で発表された[5]。
宗教
テンプレート:Main 宗教はしばしば戒律で悪を規定する。それに基づいて禁止されている事柄(タブー)は、その始祖や開祖に関するものや、それが発達した文化圏における生活規範をモチーフにしたものなどがある。中東のゾロアスター教は光(善)と闇(悪)で世界を捉えており、のちの一神教における神と悪魔の対立という概念に影響を与えたとされる。一神教ではユダヤ教の十戒やキリスト教の七つの大罪などが有名である。
仏教
仏教の二元性は第一に苦と悟りの間にある、というのは仏教の内部には善と悪の対立に似たものは直接的に言及されていないからである。しかしブッダの一般的な教えをもとに、仏教哲学の体系内の苦は「悪」に相当すると推測されうる"[6][7]。
実際にはこれは1)三つの利己的な感情-欲望、憎悪、虚偽;や2)肉体的・言語的行動におけるそれらの現れ、について言及することができる。十戒 (仏教)を参照。とりわけ「悪」は、現世における幸福、より良い生まれ変わり、輪廻からの解脱、ブッダの真正にして完全な悟り(三藐三菩提)を妨害するものを指す。無知は全ての悪の根源であるとされる[8]。
ヒンドゥー教
ヒンドゥー教においてダルマ、つまり秩序や正義の順守を表す概念は世界を善と悪にはっきり二分し、ダルマを打ち立て護持するためには時々戦争がなされる必要があると説明する。この戦争はダルマユッダと呼ばれる。この善悪の区別はヒンドゥー教の叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタの両方で非常に重要である。
イスラーム
イスラームでは、二元論的な意味で善から独立にして善と対等な基本的・普遍的原理としての絶対的な悪は存在しない。イスラームにおいては個々の人によって善いと感じられようが悪いと感じられようが全ての物はアッラーに由来すると信じることが本質的だとされている。そして、「悪」だと感じられるものは自然に起こること(自然災害や病気)であるかアッラーの命令に背く人間の自由意思によって起こるかのどちらかだとされる。イスラームの考え方では、悪は原因ではなく結果なのであるテンプレート:Citation needed。
「アッラーに背いて悪や悪行がなされると、大カリマー(すなわちシャハーダ)を唱える者は悪人が悪行を成すのを止めることはできなくなる。」 テンプレート:Citation needed
ユダヤ-キリスト教思想
悪は善ではないものである。聖書では悪は一人でいる状態だと定義される(創世記2:18)。この意味では、悪とは価値観や行動に関して社会に背いて、社会の外部にいることだとみなされうる。
キリスト教弁証者ウィリアム・レーン・クレイグのように、悪を、道徳的悪つまり誰かによって行われる害と、自然悪つまり自然災害や病、その他誰かが意図したものではない原因の結果として起こる害とに分けて考える者もいる。自然悪は弁神論で特に重要な概念である、というのも自然悪は誰かの自由意思によって起こったというように単純に説明することができないからである。
キリスト教
キリスト教神学では悪の概念は旧約聖書および新約聖書から説明される。旧約聖書では、堕天使の長サタンのような不適切で劣ったものと同じだけ神に反抗するものが悪だと理解される[9]。新約聖書ではギリシア語単語「ポネロス」が不適切さを表すのに使われ、「カコス」が人間の領分内での神に対する反抗に言及するのに使われる[10]。公式には、カトリック教会では悪の理解はドミニコ会の神学者トマス・アクィナスに依拠する。彼は著書『神学大全』で、悪を善の欠如・欠乏であると定義している[11]。フランス系アメリカ人の神学者アンリ・ブロシェは、神学的概念としては悪は「不当な実在。俗な言い回しでは、悪は『起こるべきではない』が経験上起きる『なにか』である」と述べている[12]。
ユダヤ教
ユダヤ教では、悪とは神を見捨てた結果である(申命記 28:20)。ユダヤ教ではトーラー(タナハを参照)に記されたような神の法とミシュナーやタルムードに示された法や儀式に従うことが強調される。
ユダヤ教では教派によっては、悪をサタンのような形で擬人化しない。代わりに、人間の心は生来欺瞞へと向かいやすいものであるが人間は自分の選択に関して判断を任されている、と考えられている。別の教派では、人間は生まれた時点では善へも悪へも方向づけられていないとされる。ユダヤ教では、サタンは神に反逆しているのではなくむしろ神の命によって人間を試しているのだとみなされ、悪は上記のキリスト教の教派のように選択の原因であるとみなされる。 テンプレート:Rquote
いくつかの文化や哲学では、悪は意味や理由がなくとも生まれてくると信じられている(ネオプラトニズムでは、これは不条理な悪と呼ばれる)。一般的にキリスト教ではこうしたことを信じないが、預言者イザヤは神が全ての原因であることを示している(Isa.45:7)テンプレート:Dubious。
非三位一体派
モルモン教神学では、人生とは信仰を試すものであって、人性のうちで人間の選択が救済計画の中心をなすとされる。悪とは人間が神の本性を発見するのを妨げるものであるという。人間は悪に染まらず神に帰還するように選択するべきだと信じられている。
クリスチャン・サイエンスでは、自然の善に対する無理解から生じると信じられている。自然の善は正しい(魂の)観点から見たときに本性上完全なものであると理解されている。神の実在に対する誤解によって間違った選択が生じ、それが即ち悪となる。このため、悪の源となる種々の力や悪の源であるような神は否定される。代わりに、悪の出現は善の概念を誤解した結果であるとされる。最も「悪」である人でも悪それ自体を追求しているのではなく、間違った考えから何らかの善を実現しようとして、結果として悪事を働いてしまうのだとクリスチャン・サイエンティスト達は主張している。
ゾロアスター教
ペルシア人の本来の宗教であるゾロアスター教では、世界は神アフラ・マズダ(オフルマズドとも呼ばれる)と悪霊アンラ・マンユ(アーリマンとも呼ばれる)との戦いの場であるとされる。善と悪の争いの最終決着は審判の日に起こり、そのときに生きている者は全て炎の橋に導かれ、邪悪な者たちは打ち倒されて永久に復活しないという。ペルシア人たちの信仰するところによれば、天使や聖人は人々が善への道を歩むのを助ける存在である。
悪に関する哲学的問題
悪は普遍的か?
根本的な問題は、悪の普遍的・超越論的な定義が存在するか否か、つまり、悪は人の社会的・文化的背景によって決定されているにすぎないのではないかというものであるテンプレート:Citation needed。レイプや殺人のように、悪であると普遍的に考えられている行動が存在するとC・S・ルイスが『人間廃絶』で述べている。しかしながら、レイプや殺人が社会的文脈によって好んで用いられる場合が多々あるため、C・S・ルイスの主張には疑問が投げかけられる。それでも、レイプという語は定義上悪しき行いを指すのに使われることを必要としている、というのはこの概念は他者に対して性的暴力をふるうことを指しているからだ、と主張する者もいる。19世紀中頃までは、アメリカ合衆国―および多くの国々―では奴隷制が行われていた。よくあることではあるが、こういった倫理的境界の侵犯はそこから利益を得るために行われた。おそらく、奴隷制は常に同じだけ、そして客観的に悪であるが、奴隷制を行おうとする人々はそれを正当化しようとする。
第二次世界大戦期のナチスはジェノサイドを正当化したが[13]、ルワンダ虐殺の際、フツのインテラハムウェも同じことをした[14][15]。しかしこういった残虐行為の実行犯は自らの行為をジェノサイドと呼ぶことを避けた、というのはジェノサイドという語によって精確に示される行為の客観的な意味は特定の人間集団を不当に殺すことだからであるが、少なくとも不当に苦しめられた人々はこの行為を悪だと理解する。悪は文化から独立であり、行動やその意図と関連に連動していると普遍主義者たちは考えている。そのため、ナチズムやフツのインテラハムウェのイデオロギー的な主導者はジェノサイドの実行を許容(したり、それは道徳的に認められると考えたり)するが、ジェノサイドは「根本的に」あるいは「普遍的に」悪だという信念に基づけばジェノサイドを扇動する人々は本当は悪いということになるテンプレート:Syn。悪事を働くことは常に悪いが悪事を働く者は完全には悪なる存在でも善なる存在でもない、と主張する普遍主義者もいるようだ。例えば棒付き飴を盗んだ人が完全に悪くなるということはむしろ支持できない立場だということになる。しかし、普遍主義者は、人間は明らかに善である人生や明らかに悪である人生を選択することができ、大量虐殺を行うような独裁はもちろん後者であるとも主張している。
悪の本性に関する考えは以下の四つの相反する立場のうちの一つに落ち着きがちである:
- 絶対主義 (倫理)では、善悪とは神、神々、自然、道徳律、コモン・センス、その他の根拠によって打ち立てられる不変の概念であると考える[16]。
- 虚無主義 (倫理)は、善悪というのは無意味な概念で、自然には倫理の構成要素になるものなど存在しないと主張する。
- 相対主義 (倫理)では、善悪の基準となるのは地域ごとの文化、慣習、固定観念の産物だけだと考える。
- 普遍主義 (倫理)とは絶対主義者の言う道徳律と相対主義的観点との和解点を見出そうとする試みである。普遍主義は、道徳律はある程度可変的であるにすぎず、何が本当に善あるいは悪であるかは全人類を通じて何が悪であるかを調査することで決定することができる、と主張する。サム・ハリスは、普遍的な道徳律は脳生物学が刺激を調べる方法に基づいて物理的にも精神的にも計量可能な幸不幸の単位を用いることで理解することができると述べている[17]。
プラトンは、善をなす方法は相対的に少なく、悪を成す方法は限りないと書いている。また、そのために悪を成す方法が我々の生活に大きな影響を及ぼし、他の者の生活に苦しみを与えうるという。このため、道徳的規則を策定し、実施する上で重要なのは善を促進することよりもむしろ悪を防止することだとバーナード・ガートのような哲学者が主張しているテンプレート:Citation needed。
悪は有用な概念か?
悪い「人間」など存在せず、「行動」だけが悪だと考え得ると主張する学派が存在する。心理学者・仲裁人のマーシャル・ローゼンバーグは、暴力の起源はまさに「悪」「悪さ」といった概念そのものだと主張している。私たちが誰かを悪い、あるいは悪だとレッテル貼りすると、責め苦を与えたいという欲望がレッテル貼りすることによってもたらされるとローゼンバーグは言う。これによって私たちが傷つけている人に対して何かを感じなくなることが容易にもなる。ドイツ人がほかの民族に対して通常はしないことをするうえでカギとなったナチスドイツにおける言語の使用について彼は言及している。彼は悪の概念と、悪いとみなされることに対して罰を与える、罰を与えることを通じた正義―因果応報―を作り出そうとする司法制度とを結びつける。彼は、このアプローチを、悪の概念が存在しない文化で彼が見出したものと比較する。そういった文化では、人が誰かを傷つけた時、彼らは彼ら自身や彼らの属するコミュニティと相いれなくなったと信じられ、病んでいるとみなされ、彼ら自身や他の人々と相いれるように新しい度量法が持ち出される。
心理学者のアルバート・エリスは論理情動行動療法(英:Rational Emotive Behavioral Therapy)と呼ばれる彼の学派において同様の主張を行っている。怒りの起源や他者を傷つけたいという欲求はほぼ常に他者に関する黙示的あるいは明示的な種々の哲学的信念に結びついていると彼は言う。さらに、こういった様々な秘密のあるいは公然の信念あるいは憶断を持たなければたいていの場合暴力に訴える傾向は減退すると彼は主張している。
一方、アメリカの重要な精神科医モーガン・スコット・ペックは悪を「好戦的な無知」とみなしている[18]。ユダヤ―キリスト教における「罪」の概念は本来人間が「遣り損な」って完成に達しないような過程としての罪である。このことに多くの人々は少なくともある程度は気づいているが、実際に悪であり好戦的な人々は自分が気づいていることを認めないとペックは主張している。特に無実の罪を受ける人(しばしば子供や弱い立場の人々)を選んで悪行を成すという結果に至る有害な独善性こそが悪の特徴だとペックは考えている。ペックが悪人と呼ぶような種類の人々は自分の良心から(自己欺瞞を通じて)逃げ隠れしており、この点でサイコパスにおいて明らかに良心が欠如しているのとは区別されるとペックは考えている。
- 罪から逃れ、自己イメージを完璧なものに保とうという意図をもって自己欺瞞を続けている
- 自己欺瞞の結果として他者も欺いている
- 自身の罪を非常に狭い範囲の対象に投影し、他者をスケープゴートにする一方で自分を皆とともに正常に見せかける(「彼に対する彼らの不感受性は選択的である」)[20]
- 一般に、他者をだますのと同じだけ自己欺瞞のために見せかけの愛によって嫌う
- 政治的(感情的)力を悪用する(「人間の意志が公然に、あるいは秘密裏に他者に賦課を負わせること」)[21]
- 高いレベルの社会的地位を保ち、そのために常に嘘をつく
- 自身の罪に関して一貫している。悪人は犯した罪の大きさよりもむしろ(破壊性が)持続することによって特徴づけられる
- 自分が起こした悪事の被害者の視点に立って考えることができない
- 批判その他のナルシシズムを傷つけるような行為を受けた時にひそかに耐え忍ぶことができない
ある種の制度も悪である可能性があると彼は考えている、というのはソンミ村虐殺事件とそれが隠蔽しようとされたことに関する彼の議論に示されているのである。この定義によれば、犯罪的テロリズムと国家テロリズムも悪だと考えられるであろう。
必要悪
マルティン・ルターは小さな悪が否定しがたい善となる場合があることを認めた。「あなたの飲み仲間の社会を探し、飲み、遊び、猥談をして楽しみなさい。悪魔が良心的な人に対して何かをする機会を与えないために、悪魔を憎みさげすむのとは別に時には罪を犯しなさい」と彼は書いている[22]。
政治哲学のある学派では、指導者は善悪に関心を持たず、実用性のみに基づいて行動するべきだと考えられている。政治に対するこのアプローチはニッコロ・マキャヴェッリが唱えたものである。彼は16世紀のフィレンツェの著述家で政治家たちに「愛されるよりも恐れられた方がずっと安全である[23]」と助言した。
レアルポリティーク(独:Realpolitik)と呼ばれることもある現実主義や新現実主義の国際関係論に基づくと、政治家は国際政治においては絶対的な道徳・倫理があるという考えをはっきりと否定して、個人の関心、政治的生存、武力外交を重視することを好むべきということになる。このことはこういった国際関係論を唱える者たちが明らかに非道徳的で危険だとみなしている世界を説明する上でより的確になると彼らは考えている。政治学における現実主義者達はたいてい、政治的指導者だけに課される「高度な道徳的義務」を主張することで彼らの考え方を正当化している。この主張の下では、最大の悪とは国家が自身やその国民を守れないことである。マキャヴェッリはこう書いている: 「[…]善だと考えられてはいるが実際にそれに従うと滅亡してしまうような特質がある一方で、悪徳とみなされているがそれを実行すると安全が実現され君主にとって幸福であるような特質が存在する[23]。」
関連項目
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参考文献
- Baumeister, Roy F. (1999) Evil: Inside Human Violence and Cruelty. New York: A. W. H. Freeman / Owl Book
- Bennett, Gaymon, Hewlett, Martinez J, Peters, Ted, Russell, Robert John (2008). The Evolution of Evil. Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht. ISBN 978-3-525-56979-5
- Katz, Fred Emil (1993) "Ordinary People and Extraordinary Evil", [SUNY Press], ISBN 0-7914-1442-6;
- Katz, Fred Emil (2004) "Confronting Evil", [SUNY Press], ISBN 0-7914-6030-4.
- テンプレート:Cite book
- Shermer, M. (2004). The Science of Good & Evil. New York: Time Books. ISBN 0-8050-7520-8
- テンプレート:Cite book
- Stapley, A. B. & Elder Delbert L., "Using Our Free Agency". Ensign May 1975: 21
- Vetlesen, Arne Johan (2005) "Evil and Human Agency - Understanding Collective Evildoing" New York: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-85694-2
- Wilson, William McF., and Julian N. Hartt. "Farrer's Theodicy." In David Hein and Edward Hugh Henderson (eds), Captured by the Crucified: The Practical Theology of Austin Farrer. New York and London: T & T Clark / Continuum, 2004. ISBN 0-567-02510-1
- 魂の殺人 アリス・ミラー
- 平気でうそをつく人たち M・スコット・ペック
- 悪について エーリッヒ・フロム
脚注
外部リンク
- テンプレート:In Our Time
- Good and Evil in (Ultra Orthodox) Judaism
- ABC News: Looking for Evil in Everyday Life
- Psychology Today: Indexing Evil
- Booknotes interview with Lance Morrow on Evil: An Investigation, October 19, 2003.
執筆の途中です | この「悪」は、哲学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています(Portal:哲学)。 |
- ↑ Good and Evil in Chinese Philosophy C.W. Chan
- ↑ History of Chinese Philosophy Feng Youlan, Volume II The Period of Classical Learning (from the Second Century B.C. to the Twentieth Century A.D). Trans. Derk Bodde. Ch. XIV Liu Chiu-Yuan, Wang Shou-jen, and Ming Idealism. part 6 § 6 Origin of Evil. Uses strikingly similar language to that in the etymology section of this article, in the context of Chinese Idealism.
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「ebgb
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ Stephen Palmquist, Dreams of Wholeness: A course of introductory lectures on religion, psychology and personal growth (Hong Kong: Philopsychy Press, 1997/2008), see especially Chapter XI.
- ↑ Book website
- ↑ Philosophy of Religion Charles Taliaferro, Paul J. Griffiths, eds. Ch. 35, Buddhism and Evil Martin Southwold p 424
- ↑ Lay Outreach and the Meaning of “Evil Person Taitetsu Unno
- ↑ The Jewel Ornament of Liberation. Gampopa. ISBN 978-1559390927テンプレート:Page needed
- ↑ Hans Schwarz, Evil: A Historical and Theological Perspective (Lima, Ohio: Academic Renewal Press, 2001): 42–43.
- ↑ Schwarz, Evil, 75.
- ↑ Thomas Aquinas, SUMMA THEOLOGICA, translated by the Fathers of the English Dominician Province (New York: Benziger Brothers, 1947) Volume 3, q. 72, a. 1, p. 902.
- ↑ Henri Blocher, Evil and the Cross (Downers Grove: InterVarsity Press, 1994): 10.
- ↑ Gaymon Bennett, Ted Peters, Martinez J. Hewlett, Robert John Russell (2008). "The evolution of evil". Vandenhoeck & Ruprecht. p.318. ISBN 3525569793
- ↑ テンプレート:Cite book
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- ↑ url=http://www.vatican.va/archive/catechism/p3s1c1a6.htm
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- ↑ 18.0 18.1 Peck, M. Scott. (1983;1988). People of the Lie: The hope for healing human evil. Century Hutchinson.
- ↑ Peck, M. Scott. (1978;1992), The Road Less Travelled. Arrow.
- ↑ Peck, 1983/1988,p105
- ↑ Peck,1978/1992,p298
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- ↑ 23.0 23.1 Niccolo Machiavelli, The Prince, Dante University of America Press, 2003, ISBN 0-937832-38-3 ISBN 978-0-937832-38-7