富貴寺
テンプレート:日本の寺院 富貴寺(ふきじ)は、大分県豊後高田市田染蕗(たしぶふき)にある天台宗の寺院。山号を蓮華山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基は仁聞(にんもん)と伝える。
国宝の富貴寺大堂(おおどう)は、近畿地方以外に所在する数少ない平安建築のひとつとして貴重な存在である。
歴史
富貴寺のある国東半島は、神仏習合の信仰形態をもつ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。
富貴寺は、国東半島の他の多くの寺と同様、養老2年(718年)、仁聞(にんもん)の開創と伝える。仁聞はほとんど伝説のなかの人物で、確かな事績は不明だが、国東半島の六つの郷(武蔵、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ))に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。国東半島一帯にある仁聞関連の寺院を総称して「六郷山」または「六郷満山」といっている。
国東半島に点在する「六郷山」の寺院群については、古い時代の遺品や記録が乏しく、その成立経緯等はなお不明な点が多いが、日本古来の山岳信仰の霊地、修行の場としてあったものが、奈良時代末~平安時代初期頃から寺院の形態を取り始め、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の傘下に入ったものと推定される。弥勒寺は当初法相宗の寺院であったが、平安時代後期には天台宗となり、六郷山の寺院も比叡山延暦寺の末寺となった。仁安3年(1168年)の『六郷二十八山本寺目録』という文書によると、六郷山は本山(もとやま)8寺、中山(なかやま)10寺、末山10寺の28か寺のほかに37か寺の末寺があり、合計65か寺からなっていた。富貴寺はこの65か寺の1つで、「本山」の西叡山高山寺という寺の末寺とされている。
富貴寺には、久安3年(1147年)の銘のある鬼神面があり、このころまでには寺院として存在していたと思われるが、それ以前の詳しいことはわかっていない。宇佐神宮大宮司・到津(いとうづ)家に伝わる貞応2年(1223年)作成の古文書のなかに「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺のこと)は当家歴代の祈願所である」旨の記載があり、12世紀前半~中頃、宇佐八幡大宮司家によって創建されたものと推定されている。現存する大堂は12世紀の建築と思われ、天台宗寺院にしては、浄土教色の強い建物である。富貴寺を含め六郷山の寺院では神仏習合の信仰が行われ、富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。
天正年間(1573年 - 1592年)、キリシタン大名大友宗麟の時代に、多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難をまぬがれ、平安期の阿弥陀堂の姿を今に伝えている。
文化財
- 大堂(国宝)
- 「おおどう」と読む。急な石段の上の、斜面を削平した小高い土地に建つ。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、大棟のないピラミッド状の屋根形態)、瓦葺きである。この堂の瓦葺きは、上方がすぼまり、下方が開いた特殊な形の瓦を次々に差し込んでいくもので「行基葺き」と呼ばれる。堂は正面柱間が3間、側面が4間で、正面幅よりも奥行が長く、堂内後方に仏壇を置いて、その前方に礼拝のための空間を広く取っている。小規模な建築であり、扉など、後世の修理で取りかえられた部分もあるが、九州に残る和様の平安建築として、また、六郷山の寺院群の最盛期をしのばせる数少ない遺物として、歴史的価値が高い。
- 木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)
- 本尊、平安時代。
- 大堂壁画(重要文化財)
- 剥落が多いが、遺品の少ない平安絵画の例として貴重である。本尊背後の来迎壁に「阿弥陀浄土図」、内陣小壁に阿弥陀如来並坐像、外陣(げじん)小壁に四仏浄土図が描かれている。
- 富貴寺笠塔婆(大分県指定有形文化財)
- 5基。鎌倉時代に僧広増によって立てられたと伝えられる。
- 木造阿弥陀如来及び両脇侍像(大分県指定有形文化財)
- 木造仮面(大分県指定有形文化財)
- 富貴寺板碑(大分県指定有形文化財)
- 富貴寺石殿(大分県指定有形文化財)
交通
参考文献
- 井上靖、佐和隆研監修、中野幡能、白石一郎著『古寺巡礼西国5 富貴寺』、淡交社、1981年
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』21号(宇佐神宮、富貴寺ほか)、朝日新聞社、1997年
- 日本歴史地名大系 大分県の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 大分県』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館