内之浦町
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内之浦町(うちのうらちょう)は、鹿児島県本土の東南部、大隅半島の東部にあった町である。2005年7月1日、高山町と合併し肝付町となった。
日本国内に2か所あるロケット打ち上げ基地のひとつ、内之浦宇宙空間観測所の所在地。日本初の人工衛星「おおすみ」や探査機「はやぶさ」が内之浦から発射された。
目次
地理
町域の大半は肝属山地(国見山系)であり、東岸に内之浦湾が広がる。岸良湾は海図に小山田湾と書かれている。
岸良小山田で鹿児島埋蔵文化財になっている弥生時代(前)の弥生土器・石器の破片が発見されている。
隣接自治体
北-西方向に高山町、西方向に大根占町・田代町(錦江町)、南西方向に佐多町(南大隅町)が隣接していた。大根占町とは肝属山地で接しており、通行可能な道路が存在しない。
歴史
大隅国設置時から高山とともに肝属郡に属す。中世は肝付氏一派の内之浦氏・岸良氏の、江戸時代は島津氏の支配を受けた。
- 1357年 - 島津氏が岸良村を比志島氏(小山田氏)に与える。
- 1357年 - 肝付兼氏小串村を志布志大慈寺に寄進する。
- 1407年 - 肝付兼元が平田神社を修造する。
- 1505年 - 高谷神社炎上し神宝その他が焼ける。
- 1539年 - 肝付兼続が高谷神社を再興した。
- 1566年 - 肝付兼続島津氏に逐われ内之浦より志布志に至り自刃する。
- 1574年 - 肝付氏が島津氏に敗北。
- 1576年 - 都城領の飛地として、北郷氏の支配下となる(1595-1600年は伊集院忠棟が支配)。
- 1589年 - 明船が内之浦に渡来。
- 1631年 - 内之浦は高山外城に統合される。
- 1640年 - 高山外城から内之浦外城が分立(後に内之浦郷と改称)。
- 1810年 - 伊能忠敬らが内之浦の測量を実施。
- 1872年 - 内之浦小学校の前身となる欽明館が開校。
- 1889年 - 町村制実施に伴い、内之浦郷内の村が合併し内之浦村が発足。
- 1898年 - 高山村波見 - 内之浦の県道(現国道448号)が開通。
- 1932年 - 内之浦村が町制施行、内之浦町となる。
- 1945年 - アメリカ軍による空襲被害を受ける。
- 1967年2月2日 - 鹿児島スペースセンター(現内之浦宇宙空間観測所)が完成。
- 1970年2月11日 - 日本初の人工衛星「おおすみ」を発射。
- 1995年 - 内之浦町役場(現在の肝付町役場内之浦総合支所)が完成。
- 2002年12月18日 - 国見山系を貫く国見トンネルが開通。
- 2005年7月1日 - 高山町と合併、肝付町の一部となる。
姉妹都市・提携都市
国内
- 銀河連邦 - 当時の宇宙科学研究所の研究施設があった市町による友好都市
地域
教育
合併時には2の小学校・中学校が存在した。
- 内之浦小学校
- 岸良小学校
- 内之浦中学校
- 岸良中学校
その他存在した小中学校は以下の通りである。
- 津代小学校 - 1902年に分校として創立、1929年に一度廃校した後、1950年に再度独立、1973年閉校
- 小串小学校 - 1921年に分校として創立、1951年に独立、1970年に内之浦小学校へ統合
- 大浦小学校 - 1954年に船間小学校の分校から独立、1990年休校、肝付町発足後の2011年9月廃校[1]
- 船間小学校 - 1994年廃校
- 大浦中学校 - 1947年に岸良中学校の分校として創立、1954年に独立、1990年休校、肝付町発足後の2011年9月廃校[1]
- 船間中学校 - 1947年に岸良中学校の分校として創立、1954年に独立、1981年廃校
- 宮原分校 - 1909年に分校として創立、1970年に内之浦小学校へ統合
- 国見分校 - 1941年開校、1955年閉校
交通
町内に空港・鉄道はない。
道路
国道448号が町内を通り、かつては町中心部からは高山方面へ向かう唯一の路線であった。2002年12月に国見トンネル(県道561号)が開通したことで高山・鹿屋方面への所要時間が大幅に短縮された。
県道
- 鹿児島県道74号内之浦佐多線 - 岸良地区から南大隅町佐多へ向かう路線。海岸線に沿う。大半が未整備状態。
- 鹿児島県道542号岸良高山線 - 名称通り岸良地区から高山へ向かう路線。山越え。
- 鹿児島県道561号神之川内之浦線 - 国見トンネルが通る。
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
- ドヤドヤサー(1月7日)
- ロケット祭り(8月中旬)
- 銀河マラソン(11月第4日曜日)
教育・研究施設
出身有名人
その他
- ソテツの本土最南端自生区域。
脚注
参考文献
- 『角川日本地名大辞典46 鹿児島県』角川書店、1983年。
- 肝付町教育委員会『肝付町の文化財』2007年。