兵科

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テンプレート:国際化 兵科(へいか)とは、狭義には、陸軍海軍軍人に割り当てられた職務区分のうち、主に直接的な戦闘を担当する職務区分。

広義には、直接的な戦闘を担当する戦闘職務以外の後方職務(各部と呼称されることが多い。)をも含んで用いられることや、戦闘を担当する職務以外を含めて細分化された特技職(兵種と呼称されることが多い。)を指すこともある。そのため、単に「兵科」といっても多様な用いられ方をする。

陸上自衛隊では、戦闘を担当する職務以外を含めて、「職種」という。

概説

騎士時代には乗馬本分者とそうでない者などの区別はあったが、近代的軍隊創設のころから部隊や軍人の合理的管理のため兵科制度(この章では概念上の兵科をいう。)が創設されるようになった。伝統的には、歩兵・騎兵・砲兵・工兵が戦闘兵科の中心である。

しかしながら、新兵器の開発により特定の兵器を専門に扱う兵科が新設されたり(古くは砲兵、新しくは航空兵や機甲科など)、外征型の大規模な陸軍の創設により兵站を担当する兵科(輜重兵、需品科、輸送科など)が新設されたり、組織の肥大化と行政的管理の必要性から行政管理的兵科(古くは憲兵、新しくは会計科など)が新設されたり、技術の進展に伴い先端技術を必要とする兵科(通信科や化学科など)が新設される傾向がある。

また、兵科制度は、個々の軍隊の、その時代、状況に適応するように設計されるため、特に後方支援担当の兵科においては制度設計が様々であり、対応関係を論ずるのは困難である。

兵科の細分化は兵科同士の縄張り争いを生み出した。 砲と名前が付く物は砲兵科の管轄であり、戦車と名前が付く物は機甲科の管轄であるなどと主張され、歩兵科の歩兵砲と砲兵科の野砲のように別名で呼ばれている。日本軍では歩兵科と砲兵科の間で迫撃砲の管轄をめぐって、外国で迫撃砲と呼ぶ物を曲射歩兵砲と呼ぶなどの名称の置き換えが発生していた。

とくに細分化が酷かったのはドイツ軍で第一次世界大戦では擲弾は歩兵科、砲弾は砲兵科、爆薬は工兵科という細分化により、類似した兵器に対して、歩兵科ではグレネードヴェルファー(擲弾投射器)、工兵科ではミーネンヴェルファー(爆薬投射器)、砲兵科ではモーター(臼砲)という呼びかたが使用され、開発から生産まで全て別個に行われていた。このため、ドイツの兵器体系は極めて種類が多く、類似した兵器が多数有るという事態を引き起こしている。 第二次世界大戦でも砲兵科の突撃砲と機甲科の駆逐戦車のようにそっくりな兵器が兵科ごとに設計から生産まで別々に行われる事態を招いている。 このような事態は極めて非効率的であり、生産や補給を始めあらゆる点で問題を起こしている。このような問題に関してはどこの国のどの時代にも程度の違いこそあれ、存在しており、現代でも根本的には解消していない。

兵科部 (大日本帝国陸軍)

兵科区分

大日本帝国陸軍では、当初は様々な兵科区分が置かれる。明治7年11月8日に改定された陸軍武官表[1]の時点では、兵科区分として次のものが置かれていた。

  1. 参謀科
  2. 要塞参謀科
  3. 憲兵科
  4. 歩兵科
  5. 騎兵科
  6. 砲兵科
  7. 工兵科
  8. 輜重兵科

そして、航空技術の進展に伴い、1925年(大正14年)に航空兵科が新設された。もっとも、固定的な兵科区分は時代の趨勢に適合しないという判断から、1940年(昭和15年)9月15日に「兵科区分」(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵の区分)を廃止した[2]。但し、憲兵科のみは存続する。これによって「兵科区分」は原則として廃止されたが、各部に対応する「兵科」は存続した。

参謀科・要塞参謀科

当初は参謀科・要塞参謀科を置いていた日本陸軍であるが、明治12年10月10日の時点では、要塞参謀科はなくなっている[3]。また、明治19年3月9日の時点では、参謀科はなくなっている[4]。なお、参謀が独立した兵科区分(参謀科)に属する軍制はプロシア軍などに見られる。

屯田兵科

屯田兵について、明治12年10月10日の時点では、屯田兵科が設けられている[5]。さらに、明治24年3月30日に、単なる「屯田兵科」を廃止してこれを細分化し、新たに「屯田歩兵科」、「屯田騎兵科」、「屯田砲兵科」、「屯田工兵科」を置いた[6]。もっとも、明治29年5月8日勅令第190号では「現ニ屯田各兵科ニアル将校並ニ准士官ハ辞令ヲ用ヰス当該兵科ノ将校並ニ准士官トス」として、屯田各兵科(屯田歩兵科、屯田騎兵科、屯田砲兵科、及び屯田工兵科。)は廃止された。

兵種

兵種(へいしゅ)とは、兵がその特技によって分類された区分である。「陸軍兵ノ兵科部、兵種及等級表ニ関スル件」(昭和6年11月勅令第271号)などに規定がある。兵科部の下に兵種が分類され、兵種毎に対応した階級呼称は廃止された。

昭和に入り、戦車部隊の増加に対応して、歩兵から戦車兵を独立させた。さらに、陸軍独自に船舶兵器を運用し、揚陸作戦に資するため工兵の一部であった船舶工兵・上陸工兵を独立させ、1943年(昭和18年)から陸軍船舶兵を新設した。

各部

1937年(昭和12年)に、各部の階級制度の大幅な改正が行われた[7]。従来は「陸軍主計総監」など兵科と全く異なった階級名が用いられていたが、この改正により「陸軍主計中将」など兵科の階級名に各部の区分を付した階級名となった。また、この改正と同時に「将校相当官」の呼称を改め「各部将校」とした。

明治7年当時

明治7年11月8日に改定された陸軍武官表[8]の時点では、次の各部が置かれていた。

  • 監督部(監督課・司契課・糧食課・被服課・病院課・裁判所囚獄課)
  • 軍医
  • 馬医

経理部

陸軍で経理を扱う部門は、名称の変遷が激しいところである。

  1. 監督部(明治7年か)
  2. 会計部 (明治12年か)
  3. 監督部・軍吏部(明治19年か)
  4. 監督部
  5. 経理部(明治35年か)

明治7年当時の監督部は、監督課・司契課・糧食課・被服課・病院課・裁判所囚獄課からなっていたが、明治12年10月10日頃には、監督部内を課に分けることが廃止され、「司契」などの特別な官名も廃止された。また、病院課に置かれていた会計部下士たる「看病人」は軍医部下士に移った[9]。また、明治19年3月9日の時点では、監督部から軍吏部が分離している[10]。明治36年12月1日[11]に監督系と軍吏系とに分かれていたものが統一され、官名に「主計」を用いるようになった。この際の改正では、次のように官名が変更された。

  1. 陸軍監督総監→陸軍主計総監
  2. 陸軍監督監→陸軍主計監
  3. 陸軍一等監督→陸軍一等主計正
  4. 陸軍二等監督→陸軍二等主計正
  5. 陸軍三等監督→陸軍三等主計正
  6. 陸軍一等副監督・陸軍一等軍吏→陸軍一等主計
  7. 陸軍二等副監督・陸軍二等軍吏→陸軍二等主計
  8. 陸軍三等副監督・陸軍三等軍吏→陸軍三等主計

後に主計総監は「陸軍主計中将」と改称された[12]

衛生部

明治21年6月26日に、軍医部が衛生部と改称された[13]

獣医部

明治19年3月9日の時点では、馬医部が獣医部に改称されている[14]。明治21年6月26日に、獣医部の下士を廃止した[15]

軍楽部

明治12年10月10日の時点では、軍楽部が設けられている[16]

技術部

1919年(大正8年)8月6日に、陸軍技術将校令(大正8年8月6日勅令第368号)が制定施行され、陸軍将校(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵科に属している兵科士官)のなかで、技術を掌る部門にある者を「技術将校」という分類とする。技術将校は主に一般大学工学部又は理学部出身の学士から補充することが予定された(当時の陸軍補充令)。昭和15年9月15日に陸軍の各部の一つとして「技術部」が創設されるに至った。定色(兵科色)は黄色。

創設当時の技術部は、兵技と航技部門とに分かれていて、将校・下士官の官名も「陸軍○○中将」ないし「陸軍○○伍長」(○○には兵技又は航技が入る。)とされた(昭和15年9月13日勅令第580号)。また、兵については、従来の「工機兵」が「技術部兵」と改称され、「工機兵たる歩兵」は「技術部兵」に転じることとなった。技術部兵も将校・下士官同様に「陸軍○○兵長」から「陸軍○○二等兵」(○○には兵技又は航技が入る。)という名称となった(昭和15年9月13日勅令第581号)。

航技将兵は定色の山型胸章に加え、襟部に航技を示すを象った航技特別章を着用してこれを区別し(九八式軍衣期。後述昭和19年の兵技との一本化に於いて廃止)、三式軍衣期は航空胸章を着用した。

昭和19年8月10日に、階級上の兵技・航技の分類を改め単に「陸軍技術中将」から「陸軍技術二等兵」とした(昭和19年7月10日勅令第448号)。

法務部

昭和17年4月1日に、法務部が新設された(昭和17年3月30日勅令第297号)。

廃止時に存在していた各部

陸軍廃止時に存在していた各部とその階級は次の通りである。少尉以上の官階しか存在していない衛生部(軍医)、衛生部(薬剤)、衛生部(歯科医)、獣医部(獣医)及び法務部(法務)は、それぞれ医師薬剤師歯科医師獣医師高等文官試験合格者などの有資格者を以て充てることが予定されているものであった。また、最上位の官階が少佐である衛生部(衛生)、獣医部(獣医務)及び法務部(法律事務)は、下士官兵から順次昇進してきたいわゆるたたき上げの者が予定されていた。

各部の階級(昭和19年8月10日-廃止)
階級 各部
技術部 経理部 衛生部 獣医部 軍楽部 法務部
主計 建技 軍医 薬剤 歯科医 衛生 獣医 獣医務 法務 法事務
中将 陸軍技術中将 陸軍主計中将 陸軍建技中将 陸軍軍医中将 陸軍薬剤中将     陸軍獣医中将     陸軍法務中将  
少将 陸軍技術少将 陸軍主計少将 陸軍建技少将 陸軍軍医少将 陸軍薬剤少将 陸軍歯科医少将   陸軍獣医少将     陸軍法務少将  
大佐 陸軍技術大佐 陸軍主計大佐 陸軍建技大佐 陸軍軍医大佐 陸軍薬剤大佐 陸軍歯科医大佐   陸軍獣医大佐     陸軍法務大佐  
中佐 陸軍技術中佐 陸軍主計中佐 陸軍建技中佐 陸軍軍医中佐 陸軍薬剤中佐 陸軍歯科医中佐   陸軍獣医中佐     陸軍法務中佐  
少佐 陸軍技術少佐 陸軍主計少佐 陸軍建技少佐 陸軍軍医少佐 陸軍薬剤少佐 陸軍歯科医少佐 陸軍衛生少佐 陸軍獣医少佐 陸軍獣医務少佐 陸軍軍楽少佐 陸軍法務少佐 陸軍法事務少佐
大尉 陸軍技術大尉 陸軍主計大尉 陸軍建技大尉 陸軍軍医大尉 陸軍薬剤大尉 陸軍歯科医大尉 陸軍衛生大尉 陸軍獣医大尉 陸軍獣医務大尉 陸軍軍楽大尉 陸軍法務大尉 陸軍法事務大尉
中尉 陸軍技術中尉 陸軍主計中尉 陸軍建技中尉 陸軍軍医中尉 陸軍薬剤中尉 陸軍歯科医中尉 陸軍衛生中尉 陸軍獣医中尉 陸軍獣医務中尉 陸軍軍楽中尉 陸軍法務中尉 陸軍法事務中尉
少尉 陸軍技術少尉 陸軍主計少尉 陸軍建技少尉 陸軍軍医少尉 陸軍薬剤少尉 陸軍歯科医少尉 陸軍衛生少尉 陸軍獣医少尉 陸軍獣医務少尉 陸軍軍楽少尉 陸軍法務少尉 陸軍法事務少尉
准尉 陸軍技術准尉 陸軍主計准尉 陸軍建技准尉       陸軍衛生准尉   陸軍獣医務准尉 陸軍軍楽准尉   陸軍法事務准尉
曹長 陸軍技術曹長 陸軍主計曹長 陸軍建技曹長       陸軍衛生曹長   陸軍獣医務曹長 陸軍軍楽曹長   陸軍法事務曹長
軍曹 陸軍技術軍曹 陸軍主計軍曹 陸軍建技軍曹       陸軍衛生軍曹   陸軍獣医務軍曹 陸軍軍楽軍曹   陸軍法事務軍曹
伍長 陸軍技術伍長 陸軍主計伍長 陸軍建技伍長       陸軍衛生伍長   陸軍獣医務伍長 陸軍軍楽伍長   陸軍法事務伍長
兵長 陸軍技術兵長           陸軍衛生兵長     陸軍軍楽兵長   陸軍法事務兵長
上等兵 陸軍技術上等兵           陸軍衛生上等兵     陸軍軍楽上等兵   陸軍法事務上等兵
1等兵 陸軍技術1等兵           陸軍衛生1等兵          
2等兵 陸軍技術2等兵           陸軍衛生2等兵          

定色

日本陸軍では、兵科部毎に定められた色を「定色」という。

兵科

上述の兵科の定色は昭和15年の兵科廃止直前の時のもの。

各部
  • 技術部 - 定色は山吹色(昭和15年に改正廃止された旧砲兵科の定色と同じ)。
  • 法務部 - 定色は白色
  • 経理部 - 定色は銀茶色(薄紫色)。
  • 軍楽部 - 定色は紺青色
  • 衛生部 - 定色は深緑色
  • 獣医部 - 定色は紫色

上述の各部の定色は昭和15年以降終戦にかけてのもの。

皇族・王公族

陸軍軍人となった皇族・王公族に指定された兵科は次の通りである。歩兵・騎兵・砲兵に集中しているのが特徴である。竹田宮家からは騎兵が、北白川宮家からは砲兵が多い。李王家からは歩・騎・砲兵が万遍なく出ている。

陸軍武官たる皇族・元皇族・王公族の兵科
嘉仁親王 歩兵 1895年(明治28年)に陸軍歩兵大尉に任ぜられる。
裕仁親王 歩兵 大正元年9月に陸軍歩兵少尉・海軍少尉に任ぜられる
有栖川宮熾仁親王
小松宮彰仁親王
北白川宮能久親王
伏見宮貞愛親王 歩兵
閑院宮載仁親王 騎兵
久邇宮邦彦王 歩兵 陸士7期、陸大16期
梨本宮守正王 歩兵 陸士7期
竹田宮恒久王 騎兵 陸士15期、陸大22期
朝香宮鳩彦王 歩兵 陸士20期、陸大26期
東久邇宮稔彦王 歩兵 陸士20期、陸大26期
北白川宮成久王 砲兵 陸士20期、陸大27期
李王垠 歩兵 陸士29期、陸大35期
賀陽宮恒憲王 騎兵 陸士32期、陸大38期
芳麿王 砲兵 陸士33期
秩父宮雍仁親王 歩兵 陸士34期、陸大43期
邦久王 歩兵 陸士35期
閑院宮春仁王 騎兵 陸士36期、陸大44期
茂麿王 歩兵 陸士41期
竹田宮恒徳王 騎兵 陸士42期、陸大50期
李鍵公 騎兵 陸士42期、陸大51期
北白川宮永久王 砲兵 陸士43期、陸大52期
孚彦王 歩兵 陸士45期、陸大53期
李隅公 野重砲兵 陸士45期、陸大54期
三笠宮崇仁親王 騎兵 陸士48期、陸大55期
盛厚王 野重砲兵 陸士46期
彰常王侯爵   陸士54期
邦寿王   陸士55期

科 (大日本帝国海軍)

他方、海軍でも、戦闘を担当する部門と他の部門との分類を含めて、軍人を固有の「科」で分類しており、それが個々の軍艦内の編成としての「科」に対応していた。第二次世界大戦後の海上自衛隊では、各隊員は自衛艦内で「科」に属するものの、それは各隊員に固定的なものではなく、より緩やかで重複して取得しうる職域特技によって分類されている。

兵科、兵種という用語は、日本海軍でも用いられていた。日本海軍における「兵科」とは、種々に分類されている「科」の一つであって、主に戦闘を担当する科の名称であった。(砲術・水雷・通信など)

海軍軍人となった皇族では、海軍兵学校ではなく、京都帝国大学を卒業した宇治家彦伯爵(昭和17年10月5日の臣籍降下前は久邇宮家の家彦王) のみ技術科に属したが、そのほかの皇族は全員兵科に属していた。

各国軍隊の兵科区分

注釈

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 明治7年11月8日太政官布告第121号。
  2. 昭和15年9月13日勅令第580号及び同581号。
  3. 明治12年10月10日改正陸軍武官官等表。
  4. 明治19年3月9日勅令第4号。
  5. 明治12年10月10日改正陸軍武官官等表。
  6. 明治24年3月30日勅令第28号。
  7. 昭和12年勅令第12号。
  8. 明治7年11月8日太政官布告第121号。
  9. 明治12年10月10日改正陸軍武官官等表。
  10. 明治19年3月9日勅令第4号。
  11. 明治36年11月30日勅令第182号。
  12. 昭和12年勅令第12号。
  13. 明治21年6月26日勅令第48号。
  14. 明治19年3月9日勅令第4号。
  15. 明治21年6月26日勅令第48号。
  16. 明治12年10月10日改正陸軍武官官等表。
  17. 軍歌歩兵の本領」(加藤明勝作詞・栗林宇一作曲)でも「万朶のか 襟の色 吉野に嵐吹く」と歌われる。なお、同歌では「敵地に一歩 我踏めば 軍の主兵は ここにあり 最後の決は 我が任務 騎兵砲兵 共同せよ」と歌われた。