バロック建築
バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築様式。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。
バロックの語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、元々は一部に見られるグロテスクなまでに装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称であったが、のちに広く17・18世紀の美術・建築に見られる傾向を指す様式概念として用いられるようになった。
目次
概説
バロック建築は、彫刻や絵画、家具などの諸芸術が一体となった総合芸術となっていることを特徴とする。現代的な視点では、彫刻や家具といったものは建築とはあまり関わりなく存在しているが、バロック建築において、これらは建築とは不可分の要素であった。このような芸術活動には、莫大な知識の集積と多くの芸術家を抱えられるだけの資本が必要であったが、これを支えたのが世俗化された教会権力と絶対王政であった。
バロック建築は、宗教改革によって低下したカトリック教会の政治的権威を芸術活動によって補おうとしたシクストゥス5世や、パウルス5世などの活動により、16世紀末から17世紀初期にかけてローマで始まった。やがてイタリアでのバロック建築は衰退するが、絶対王政を敷く大国フランス王国に継承され、太陽王ルイ14世のもとで絶頂期を迎えた。バロック建築は、さらに当時の強国であったオーストリア大公国、プロイセン王国、スウェーデン王国、ロシア帝国などにも波及し、ボヘミアでは独特なバロック建築を生み出す。しかし、他に比べ王権力が弱いイギリスなどではフランスやオーストリアのようなバロック建築はあまり取り入れられなかった。他方、スペイン帝国やポルトガル王国によってラテンアメリカやフィリピンにもキリスト教化の推進に伴いバロック建築の教会が多数造営された(ウルトラバロック参照)。また、キリスト教国ではないオスマントルコにおいて、18世紀から19世紀にかけての西洋化改革に伴い、領内に多数のバロック建築が生み出された。
バロック建築は彫刻や調度品が建築の一部を形成するため装飾に対する嗜好性が見られ、後期にはサロン文化の隆盛に伴って、室内装飾に重点が置かれるロココと呼ばれる傾向を示すようになる。しかし、18世紀になるとロココの繊細で洒落たデザインは軽薄で軟弱なものと批判されるようになり、フランスでは新古典主義建築の勃興とともに衰えた。
19世紀の様式氾濫期になると、バロック建築が国家建築を飾るのにふさわしい様式として再び復興した(ネオ・バロック)が、近代建築運動の隆盛によって終息した。
歴史
ローマと北イタリアの初期バロック建築
バロック建築の着想は、一般にミケランジェロの設計したサン・ピエトロ大聖堂の荘厳性や崇高性のなかにはじめて現れると考えられているが、そのデザインは、ほかならぬ彼自身のマニエリスム的な厳格さの中に埋没し、それ以上の展開を見せることはなかった。1520年代のミケランジェロやラファエロ・サンティらの芸術活動のなかに、バロックへの萌芽が見られることはしばしば指摘されている。
17世紀に入ると、武力をも辞さなかった対抗改革の宗教的厳格さは退潮し、異端審問などはローマではほとんど行われなくなった。政治的な重要性が低下するにつれて、芸術によって信者をつなぎ止めるため、ローマ教皇や枢機卿は壮大な教会や宮殿を建設することに熱心なパトロンとなった。バロック建築は 1590年代のローマに始まり、こうした風潮が世間を支配するようになる1630年から1670年にかけて開花していった。
カルロ・マデルノは、1606年にサン・ピエトロ大聖堂の身廊部分とファサードを設計し、1626年にそれを完成するまで同聖堂の主任建築家として、そしてローマの主導的な建築家として活躍した。彼は最初の本格的なバロック建築としてパラッツォ・マッティを設計(1598年)したが、バロック建築史のなかで最も重要なのは、彼が最晩年に設計したパラッツォ・バルベリーニである。北イタリアの別荘に着想を得たプランを持つこの宮殿は、部屋の繋がりも楕円の第二階段もパラーディオの概念に基づくものだが、中庭を持たないH型の平面はそれまでには全く見られない新しい形状であり、後期バロック建築の宮殿建築の発展において重要な意味を持っている。この建築には、ローマ・バロック建築を代表する二人の芸術家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとフランチェスコ・ボッロミーニが参加しており、正面ファサードは主にベルニーニが、細部装飾についてはボッロミーニが携わった。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、マデルノ亡き後、ローマの彫刻と建築の第一人者となった。彼はミケランジェロと同じ彫刻家として出発し、絵画を遺し、最も重要な建築を設計し、そしてミケランジェロと並ぶほど重要な芸術家とされる。しかし、両者の芸術的アプローチは全く異なる。ベルニーニは初期の作品では、マルティーノ・ロンギと同じく表現の選択肢を増やし、これを複雑に組み合わせることによって強い印象を与えるようなデザインを用いた。サン・ピエトロ大聖堂内部の天蓋付き祭壇(1624年設計)はこの典型で、ねじれ円柱や相互にかみ合う破風などのダイナミックな構成は、大聖堂内部の広大な空間の中でペテロの墓所を示す効果的な焦点となっている。しかし、これの形態はミケランジロをはじめとするマニエリスム芸術家の好みにはまったく合わないと思われる。
やがて彼は、建築の空間そのものを意識的に構成するようになる。サン・ピエトロ大聖堂のレッタ広場(正面前の台形の広場)、オブリクァ広場(楕円形の広場)、そしてそれを取り囲む列柱廊にもそれは見られるが、より重要な作品はバチカン宮殿のスカラ・レジアである。そこでは敷地のいびつさを逆に利用し、両壁を収斂することによって空間の奥行きを矯正している。
フランチェスコ・ボッロミーニは、すでに初期の作品において旧習を無視したバロック建築の独特な空間を生み出した。サン・カッロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂の内部は、サン・ピエトロ大聖堂のドームを支える主柱に収まるほどの非常に小さな空間だが、初期バロック建築の最も重要な空間構成を持っていると言われている。彼の構築した空間は、どのような要素がどのように組み合わされているのか、一見しただけでは判らない。内部空間と外部空間の複雑な合成は彫塑的で、揺れや歪みという言葉によって修飾される。空間を複合・統合して作り上げていくその造形力はベルニーニよりも強烈だが、それゆえにベルニーニは、ボッロミーニの建築を妄想的であると断じた。さらに、彼は代表作となるサンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会堂の設計に着手し、バロック建築の嗜好する空間を最も説得力のあるかたちで実現させた。ボッロミーニの建築は特殊なものに見えるが、同時に空間を扱う一般解を提示しており、その経験はやがてドイツのバロック建築に引き継がれた。
ボッロミーニの空間処理方法は、イタリアではその真意をほとんど理解されることのないまま模倣されたが、グァリーノ・グァリーニはボッロミーニの方法をもとに独創的な空間をつくりあげた。ただし、彼の活躍の場はローマでなくてトリノである。また、彼は芸術家であるよりは、修道士、哲学者、そして数学者であった。数学的合理性に基づく空間を複雑に交差させる細部の処理方法は、彼が数学者であることに由来するかもしれないが、それゆえ、彼の建築は直接的な後継者をみなかった。ベルニーニやボッロミーニの造形がローマ的で個性的であるのに対し、サン・ロレンツォ聖堂などグァリーニによる装飾は、やはり個性的ではあるが、よりあか抜けた印象を与える。
ローマと北イタリアの初期バロック建築は、ベルニーニ、ボッロミーニの後、カルノ・ライナルディ、ピエトロ・ダ・コルトーナによってさらに独創的で多様な造形を形成するが、彼らの底流には常に量塊と彫塑性に対する好みが流れていた。しかし、17世紀末にはイタリアの造形力は衰退し、後期のバロックはフランスの影響を受けた古典的なものに移行する。そして、以後、ローマの芸術的地位は一地方並にまで転落し、イタリアが建築芸術を主導する立場に立つことはなくなるのである。
フランスの古典的バロック建築
宰相リシュリュー、ジュール・マザランといった政治家によって経済的な活力を強力なものにしたパリは、すでに17世紀の初期から芸術の中心地としての地位をローマから奪いつつあった。フランスのバロック建築は、なによりもまず絶対君主制を具現するような国家建築において、その着想を得ることになった。
フランスでのバロックの傾向は、サロモン・ド・ブロスが設計した幾つかの建築に現れているが、より重要な仕事をしたのはフランソワ・マンサールである。彼はベルニーニやボッロミーニと同世代の人物だが、両者と比べると、オーダーをルネサンス建築の原理そのままに用いるなど、その作風は適度に抑制されている。彼の最も重要な建築は、1645年に起工されたパリのヴァル・ド・グラース教会堂とブロア城のオルレアン館、ラフィット館である。ヴァル・ド・グラースのバシリカとドームを組み合わせた円蓋式バシリカは、サン・ピエトロ大聖堂よりもドームの比重がより強調されたものとなっており、この特色は後期バロックの教会建築の特徴となっていく。ブロワのオルレアン館がパラッツオ・ベルベリーニから着想を得ていることは明らかである。入隅を滑らかに納めるカーブした列柱や、内部空間に楕円形を導入する方法もイタリアから着想を得ているが、これらを優雅に、かつ控えめに表現する造形は、むしろロココ的な意匠を想起させる。
より古典的なバロック建築を好んだマンサールとは反対に、ローマ・バロック特有の意匠を好んだのはルイ・ル・ヴォーである。彼は豪放な細部のデザンや凹凸を全面に押し出した形をコレージュ・デ・キャトル・ナシオンにおいて表現したが、これはマンサールの抑制されたデザインとは対照的である。彼は実用的な平面を画き、特に邸宅建築にその力量を発揮した。ヴォー・ル・ヴィコント邸館は宰相ニコラ・フーケが建設したものだが、後に若きルイ14世が彼を失脚させてまで我がものとした。実際に、これは17世紀フランスの宮殿建築の嚆矢となる建築である。左右に突出部や、中央にドームを乗せた楕円形の広間など、ローマのベルベリーニ宮に着想を得たプランを採用しているが、庭園とそれを望む広間は後にヴェルサイユ宮殿で試みられる形式の原型であり、以後の宮殿建築に大きな影響を与えた。
パリが最も偉大な芸術家としてベルニーニを呼び、ルーヴル宮殿の東ファサードの設計を依頼したのは1664年である。王室建築物総監であったジャン=バティスト・コルベールはベルニーニをパリに召還し、およそ3つのプランの変更を経て、1665年に工事を開始させた。しかし、ローマ・バロックの意匠はフランス人の好むところではなく、翌年に工事は中断され、1667年にはル・ヴォー、クロード・ペローを含む建設委員会が結成され、最終案が合議された。ペローによるところが大きいとされるこのファサードは、ベルニーニ案からのモティーフをいくつか拝借してはいるが、彼のデザインとは全く印象が異なる。その雄大な造形はフランス古典主義建築の最も完成された姿とされ、その容姿はしばしばルイ14世様式と評された。
バロック芸術の源泉が完全にパリのものとなる17世紀末期には、フランスに近代的なアカデミーが創設された。そこでは絵画・彫刻・建築の教育が行われ、卒業すれば宮廷芸術家として社会的地位が約束されたが、一方で建築の形態を決定する手法はアカデミーによってコード化されることになり、国家機構の中に組み込まれた。ジュール・アルドゥアン=マンサールは、こうしたアカデミー出身の典型的な人物である。ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂は、内部空間の構成を完全にゴシック建築のものとされたが、1階が臣民の席であるのに対し、2階は国王席で、国王の住居と同じレベルで直結しているなど、地位を空間の階層として明確に分離している。彼はまた、ルイ14世にふさわしい記念碑的建築物として、廃兵院にドーム・デザンヴァリットを設計した。この平面プランはブランテやミケランジェロなどが16世紀に好んだ典型的な集中式礼拝堂だが、その内部空間はドームに支配されており、垂直性をかなり強調したものとなっている。このドームは、エッフェル塔ができるまで、パリのランドマークとなった。
中央ヨーロッパの後期バロック建築
18世紀初頭になると、神聖ローマ帝国、特にオーストリアでは後期バロック建築が最盛期を迎え、後期バロック・ロココ建築が下火になったフランスに代わって、これを牽引するはたらきを担った。
1683年にオスマン帝国を退けたハプスブルク家はフランスのルイ14世様式に匹敵しうる国家建築の構築を目指しており、その中心にあって指導的な役割をはたしたのがヨハン・フィッシャー・フォン・エルラッハであった。彼は様々な歴史的・世界的建築物とローマ建築特有の記念性を総合して国家様式を具現しようと試みた。彼の主要な空間構成は楕円である。彼の傑作のひとつであるウィーンのカールスキルヘや王立図書館は、中心にこの楕円形平面を置き、これに様々な歴史建築物を引用することによって独創的な建築を創造した。ことに王立図書館はゴットフリート・ライプニッツも関心を寄せている。
このように、彼の建築的アプローチはフランスのそれとは全く異なり、むしろベルニーニやボッロミーニの手法を想起させる。これは「オーストリアのヴェルサイユ」と呼ばれるシェーンブルン宮殿の景観において明確である。ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントのシュヴァルツェンベルク宮殿とシュタルヘムベルク・シェーンブルク宮殿の意匠も、同様にローマの初期バロック建築の影響が強い。しかし、彼はベルヴェデーレ宮殿において、イタリア的でもフランス的でもない様々な工夫を凝らしており、オーストリアの後期バロック建築の到達点であると言える。彼らの意匠(特に都市型宮殿の構成)はボヘミアに広がり、プラハはその最も活動的な拠点となった。
オーストリア以外の地域では、フランスやイタリアの影響も受け、また、分割された政治機構のためにより複雑な様相を呈している。「バーバリアン・バロック」とも呼ばれるドイツ語圏のバロックは、しばしば装飾過多であることで知られている。内部空間は柱の垂直線以外は全て曲線・曲面で構成されていることが多いが、これはオーストリア西部でウォール・ピラー方式と呼ばれる構造方法が採用されたことによる。ゴシック建築に見られるように、構造体としての控壁は建物の外側に配置されるのが一般的だが、ウォール・ピラー方式は建物内部に控え壁を突出させることによって複雑な内部空間を形成した。この意匠とグァリーノ・グァリーニの意匠を融合したのがバルタザール・ノイマンやドミニク・ツィンマーマンである。彼らの複雑な空間の中に装飾が取り入れられ、中央ヨーロッパのバロック建築は劇的な空間を作り上げていくことになった。
ミュンヘンにあるザンクト・ヨハン・ネムポク教会堂を設計したエーギット・クィリン、コスマス・ダミアンのアーザム兄弟は、彼らの手法を取り入れて、絵画、彫刻、建築が一体となったきらびやかな空間を作り出した。ミュンヘンには、このほかにドイツにロココ建築を導入したフランス人建築家フランソワ・ド・キュヴィリエの設計した宮廷劇場がある。
ドイツにはこのほかに後期バロック建築の中心地が点在している。ザクセン選帝侯アウグスト強健王によって、マテウス・ダニエル・ペペルマンが建設したツヴィンガー宮殿のあるドレスデン、バルタザール・ノイマンの設計による司教宮殿があるヴュルツブルクなどである。
イギリスの古典主義建築
イギリスでは、ルネサンス建築がイニゴ・ジョーンズによってもたらされ、続くクリストファー・レンによる一連の建築活動によって古典主義建築が根ざすことになる。建築の多様性はどの国の後期バロックをも特徴的づける資質ではあるが、イギリスのバロック建築ほどその様式の記述に苦しむものはなく、実際に17世紀後期から18世紀前期にいたるイギリスの古典主義建築をバロック建築と呼ぶことは、様式論としてはあまり受け入れられていない。
17世紀のイギリス建築は、清教徒革命以前以後ではっきりと区分することができる(革命以前はイニゴ・ジョーンズによる建築活動であるが、これについては北方ルネサンス建築を参照)。革命後にイギリス建築界の主導的立場に立ったのはクリストファー・レンである。彼は天文学者・数学者であり、建築的教養はイタリア滞在中にベルニーニに会ったにすぎないが、1666年のロンドン大火によって市街地が破壊されると、すぐにその再建計画を委託された。彼はここで51もの教会堂を建設しているが、その全てが彼の手によるものではない。彼が考案した教会堂は、それまでに存在した様々なプランを組み合わせたものではあるが、独創性も見られる。セント・ポール大聖堂は、当初完全な集中式バロック建築として計画されたが、様々な妥協の末に平面的にはバシリカ形式となった。しかし、ドーム部分の厳格な古典主義は、それまでのイギリス建築には全く存在しておらず、レンの革新性を物語っている。
18世紀のイギリス建築の形態は多元的であるが、その趣は硬く冷淡で、淡白な印象さえある。豪華さや偉大さを表現したイタリアやフランス、中央ヨーロッパのバロック建築とは対照的である。ジョン・ヴァンブラは18世紀初期のイギリスを代表する建築家である。彼の設計したブレンハイム宮殿は巨大な規模の建築で、主屋と翼屋を備えたパラーディオ風の構成を持っており、バロック建築特有の重量感もある。しかし、各部のデザインは調和性がなく、鈍重で面白みに欠ける。
特徴
ルネサンス建築、また古典主義建築ではオーダーやアーチを用い、均整のとれた静的・理知的な構成の美しさを特徴とする。バロック建築でもオーダーやアーチが使われるが、しばしば曲面を用いたり彫刻・絵画を総動員するなどして、感情に訴える動的・劇的な空間を作り出そうとする。その点で反古典主義的とも言われる。
主要建築物
イタリア
- 1591年起工・1623年完成 サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂(ジャコモ・デッラ・ポルタとカルノ・マデルノ ローマ)
- 1608年起工・1626年完成 サン・ピエトロ大聖堂の長堂部と正面(カルノ・マデルノ ローマ)
- 1629年設計 パラッツォ・バルベリーニ(カルノ・マデルノ設計 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニおよびフランチェスコ・ボッロミーニ建設 ローマ)
- 1629年完成 サン・パオロ・フォリ・レ・ムーラ大聖堂のサンティッシマ・サクラメント祭室(カルノ・マデルノとフランチェスコ・ボッロミーニ ローマ)
- 1644年完成 サンティ・ヴィンチェンツォ・エダナスタジオ聖堂正面(マルティーノ・ロンギ ローマ)
- 1646年起工・1650年完成 サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂改装工事(フランチェスコ・ボッロミーニ)
- 1633年起工・1666年完成 ヴァティカーノ宮殿のスカラ・レッジア(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ ローマ)
- 1634年設計・1667年完成 サン・カルロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂(フランチェスコ・ボッロミーニ ローマ)
- 1642年設計 サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂(フランチェスコ・ボッロミーニ ローマ)
- 1648年起工・1651年完成 ナヴォナ広場のフォンターナ・ディ・クアトロ・フィウミ(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ ローマ)
- 1653年設計 ナヴォナ広場のサンタニェーゼ・イン・アゴーネ聖堂(フランチェスコ・ボッロミーニ ローマ)
- 1656年起工 サンタ・マリア・デッラ・パーチェ聖堂正面と広場(ピエトロ・ダ・コルトーナ ローマ)
- 1657年設計・1667年完成 サン・ピエトロ大聖堂のレッタ広場・オブリクァ広場・コロネード(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ ローマ)
- 1658年起工・1670年完成 サンタンドレア・アル・クィリナーレ聖堂(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ ローマ)
- 1668年設計(起工は1657年) サンティッシマ・シンドーネ聖堂の聖骸布祭室(グァリーノ・グァリーニ トリノ)
- 1668年以降起工 サン・ロレンツォ聖堂(グァリーノ・グァリーニ トリノ)
- 1673年起工・1697年完成 イッマコラータ・コンチェッツィオーネ聖堂(グァリーノ・グァリーニ トリノ)
- 1675年頃完成 サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂のランチェッロッティ祭室(ジョヴァンニ・アントニオ・デ・ロッシ ローマ)
- 1679年起工・1685年完成 パラッツォ・カリニャーノ(グァリーノ・グァリーニ トリノ)
- 1706年起工・1715年完成 ラ・スペルガ巡礼聖堂(フィリッポ・ユヴァッラ トリノ)
- 1720年頃設計 スペイン階段(アレッサンドロ・スペッキおよびフランチェスコ・デ・サンクティス設計)
- 1722年完成 パラッツォ・サルッツォ・パエサーナ(ジャン・ジャコモ・プランテリー トリノ)
- 1731年完成 狩猟用別荘(フィリッポ・ユヴァッラ ストゥピジニ)
- 1732年設計・1762年完成 トレヴィの泉(ニコラ・サルディ設計 ジュゼッペ・パニーニ建設 ローマ)
- 1735年完成 パラッツォ・デッラ・コンスルタ(フェルナンド・フーガ ローマ)
- 1751年起工・1754年完成 王宮(ルイジ・ヴァンヴィテッリ カゼルタ)
フランス
- 1632年起工・1634年完成 聖母訪問会修道院付属礼拝堂(現サント・マリ聖堂 フランソワ・マンサール パリ)
- 1635年起工・1638年完成 ブロワ城館のオルレアン公の翼屋(フランソワ・マンサール ブロワ)
- 1640年起工・1644年完成 ランベール邸館(ルイ・ル・ヴォー パリ)
- 1642年起工・1646年完成 メゾン城館(フランソワ・マンサール メゾン)
- 1645年完成 ヴァル・ド・グラース聖堂(フランソワ・マンサール パリ)
- 1657年起工・1661年完成 ヴォー・ル・ヴィコント城館(ルイ・ル・ヴォー ヴォー・ル・ヴィコント)
- 1662年以降完成 コレージュ・デ・キャトル・ナシオン(ルイ・ル・ヴォー パリ)
- 1664年設計 ルーヴル宮殿東ファサード計画案(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)
- 1664年起工 ヴェルサイユ城館(ヴェルサイユ宮殿)改修および増築(ルイ・ル・ヴォーおよびジュール・アルドゥアン・マンサール ヴェルサイユ)
- 1670年起工・1677年完成 オテル・アンヴァリッド(リベラル・ブリュアン パリ)
- 1680年起工・1707年完成 アンヴァリッドのドーム・デザンヴァリッド礼拝堂(ジュール・アルドゥアン・マンサール パリ)
- 1687年完成 ヴェルサイユのグラン・トリアノン宮殿(ジュール・アルドゥアン・マンサール ヴェルサイユ)
- 1689年起工・1710年完成 ヴェルサイユの宮廷礼拝堂(ジュール・アルドゥアン・マンサール ヴェルサイユ)
- 1700年頃完成 シャン・シュル・マルヌ邸館(ピエール・ビュレ シャン・シュル・マルヌ)
- 1704年起工・1709年完成 スビーズ邸館(ピエール・アレクシス・ドゥラメール パリ)
- 1753年設計・1763年完成 ルイ15世広場とガルド・ムーブル(現コンコルド広場 アンジュ・ジャック・ガブリエル パリ)
イギリス
- 1675年設計・1710年完成 セント・ポール大聖堂(クリストファー・レン ロンドン)
- 1689年起工・1694年完成 ハンプトンコート宮殿(クリストファー・レン ロンドン)
- 1695年完成 グリニッジの王立海軍廃兵院(クリストファー・レン ロンドン)
- 1705年起工・1727年完成 ブレニム宮殿(ジョン・ヴァンブラおよびニコラス・ホークスムア オクスフォード)
- 1714年起工・1729年完成 セント・ジョージ・イン・ザ・イースト聖堂(ジョン・ヴァンブラおよびニコラス・ホークスムア ロンドン)
- 1714年起工・1729年完成 クライスト・チャーチ聖堂(ジョン・ヴァンブラおよびニコラス・ホークスムア ロンドン)
- 1717年起工・1727年完成 セント・メアリー・ウールノス聖堂(ニコラス・ホークスムア ロンドン)
- 1729年起工・1749年完成 ハワード・キャッスルの霊廟(ニコラス・ホークスムア ヨークシャー)
- 1754年起工・1758年完成 サーカス(ジョン・ウッド父子 バース)
- 1767年起工・1774年完成 ロイヤル・クレセント(ジョン・ウッド子 バース)
中央ヨーロッパ
- 1663年設計 テアティノ聖堂(アゴスティーノ・バレッリ ミュンヘン)
- 1685年起工・1689年完成 カッペル巡礼礼拝堂(ゲオルク・ディーンツェンホーファー ヴァルトザッセン)
- 1692年起工・1696年完成 リヒテンシュタインの都市宮殿(ドメニコ・マルティネッリ リヒテンシュタイン)
- 1699年起工 スヴァティ・ヴァヴジュインス聖堂(ヨハン・ルカス・フォン・ヒルデブラント ガーベル)
- 1702年起工・1727年完成 ベネディクト修道院中央聖堂(ヤーコプ・プランタウアー メルク)
- 1703年起工・1711年完成 スヴァティ・ミクラーシュ聖堂(クリストフ・ディーンツェンホーファー プラハ)
- 1709年起工・1715年完成 ジェヴノフ修道院スヴァティ・マルゲリータ聖堂(クリストフ・ディーンツェンホーファー プラハ)
- 1710年起工・1719年完成 ベネディクト修道院付属礼拝堂(ヨハン・ディーンツェンホーファー バンツ)
- 1711年起工・1728年完成 ツヴィンガー宮殿(マットホイス・ダニエル・ペッペルマン ドレスデン)
- 1715年起工・1737年完成 カールスキルヘと王宮図書館(ヨハン・フィッシャー・フォン・エルラッハ ウィーン)
- 1716年完成 ベルヴェデーレ宮殿(ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント ウィーン)
- 1716年完成 ダウン・キンスキー宮殿(ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント ウィーン)
- 1720年起工・1744年完成 司教館(ヨハン・ディーンツェンホーファー、バルタザール・ノイマン、ヨハン・ルカス・フォン・ヒルデブラントおよびマクシミリアン・フォン・ヴェルシュ ヴュルツブルク)
- 1723年起工・1731年完成 スヴァティ・エドヴィジェ修道院付属礼拝堂(キリアン・イグナツ・ディーンツェンホーファー ヴァールジュタット)
- 1727年起工・1733年完成 巡礼礼拝堂(ドミニク・ツィンマーマン シュタインハウゼン)
- 1729年設計・1739年完成 スヴァティ・ヤーナ・ナ・スカルツェ聖堂(キリアン・イグナツ・ディーンツェンホーファー プラハ)
- 1731年起工・1732年完成 宮廷礼聖堂(バルタザール・ノイマン ヴュルツブルク)
- 1733年完成 サンクト・ヨハン・ネポムク聖堂(エーギット・クィリンおよびコスマス・ダミアン ミュンヘン)
- 1734年起工・1740年完成 アマリーエンブルク園亭(フランソワ・ド・キュヴィリエ ミュンヘン)
- 1742年設計・1772年完成 巡礼礼聖堂(バルタザール・ノイマン フィアツェーンハイリンゲン)
- 1744年設計・1754年完成 巡礼礼拝堂(ドミニク・ツィンマーマン ヴィース)
- 1748年起工・1766年完成 ベネディクト修道院付属礼拝堂(ヨハン・ミヒャエル・フィッシャー オットーボイレン)
- 1742年設計 ベネディクト修道院付属礼拝堂(バルタザール・ノイマン ネーレスハイム)
- 1748年起工・1824年完成 ケッペレ巡礼聖堂(バルタザール・ノイマン ヴュルツブルク)
- 1750年起工・1753年完成 宮廷劇場(フランソワ・ド・キュヴィリエ ミュンヘン)
ロシア
- 1714年完成 夏の離宮(アレクサンドル・ル・ブロン サンクト・ペテルブルク)
- 1745年起工・1762年完成 冬の離宮(バルトロメオ・ラストレッリ サンクト・ペテルブルク)
- 1750年起工・1754年完成 ストロガノフ宮殿(バルトロメオ・ラストレッリ サンクト・ペテルブルク)
スウェーデン
- 1686年完成 ドロットニングホルム宮殿(ニコデムス・テッシン父子 ストックホルム)
- 1760年完成 王宮(小ニコデムス・テッシン ストックホルム)
ポーランド
- 1696年完成 ヴィラヌフ宮殿(アウグスティン・ロッシ ワルシャワ)
トルコ
- 1856年完成 ドルマバフチェ宮殿(ガラベット・アミラ・バルヤン イスタンブール)
参考文献
- クリスチャン・ノルベルグ・ジュルツ著 加藤邦男訳『図説世界建築史 後期バロック・ロココ建築』(本の友社)
- クリスチャン・ノルベルグ・ジュルツ著 加藤邦男訳『図説世界建築史 バロック建築』(本の友社)
- ニコラス・ペヴスナー他著 鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会)
- ニコラス・ペヴスナー著 鈴木博之・鈴木杜幾子訳『美術・建築・デザインの研究I』(鹿島出版会)