エルンスト・ユンガー
テンプレート:Infobox 作家 エルンスト・ユンガー(Ernst Jünger, 1895年3月29日 - 1998年2月17日)は、ドイツの作家、思想家。
軍人であり、第一次世界大戦及び第二次世界大戦に従軍。戦闘にかかわる体験記や日記の他、戦争を主題とする随筆を残した。
目次
生涯
少年時代
ハイデルベルクに生まれ、ハノーファーで少年時代を過ごす。父親は化学者で薬剤師。弟に、のち詩人・エッセイストとなるフリードリヒ・ゲオルク・ユンガー(テンプレート:De, 1898年 - 1977年)がいる。
世紀末の退屈な学業に飽き足らずギムナジウムを何校も転校する。冒険に憧れ、「ワンダーフォーゲル」に参加し各地を旅行。冒険心はつのり、アフリカの赤道地帯に行こうと考え、家出をして北アフリカのフランス外人部隊に参加するが、事態を知った父親に連れ戻される。
第一次世界大戦
第一次世界大戦の勃発によりギムナジウムを卒業し、大学入学の手続きを済ませ、ハノーファーの歩兵連隊に志願兵としての出征を願い出る。デーベリッツで士官候補生の訓練を受け歩兵少尉に任官。第一次世界大戦では常に西部戦線の最前線にあり、大戦初期のソンムの戦い、ヴェルダンの戦いから、1918年のルーデンドルフ大攻勢など主要な戦いのすべてに参加し、「浸透戦術」を行なう特別編成の特攻隊 (Stosstrupp) の隊長として14度の負傷、そのうち8度は重傷で、一級鉄十字章やホーエンツォレルン家勲章剣付騎士十字章を受章した。そして、1918年にはプロイセンで最高の軍事功労勲章であるプール・ル・メリット勲章の最年少受章者となる。
戦場での苛烈な戦闘体験は1920年刊行の作品『鋼鉄の嵐の中で』(In Stahlgewittern) や、続く『火と血』(Feuer und Blut)、『内的体験としての戦闘』(Der Kampf als inneres Erlebnis) など、初期の戦争作品群に余すところなく書かれている。ユンガーの戦争体験記は「英雄的リアリズム」と呼ばれ、戦争の凄惨を戦争賛美に結び付けているところに特徴があり、戦争の凄惨さから反戦的傾向になる他の作品とは対極性を見せている。例えばエーリッヒ・マリア・レマルクの『西部戦線異状なし』などと比べてみれば違いは顕著である。
戦間期・ヴァイマール時代
ユンガーは、ヴァイマール共和国時代、兵力10万人に制限されたドイツ国防軍に歩兵少尉として残り、カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル大尉の部隊でカップ一揆鎮圧に出動。白兵戦指揮の卓越さから次代のドイツ軍のための新しい歩兵操典の作成に加わる。そのまま軍に残っていたならば、第二次世界大戦期は陸軍少将か中将になっていたと言われる[1]も、1923年に軍を退官し、ミュンヘン大学でハンス・ドリーシュの下で生物学(動物学)及び哲学を学び、ナポリの動物研究所の研究員となる。1925年にウィーンで出会ったグレータ・フォン・ヤインゼンと結婚し、二人の子を得た。
1920年代半ばから、鉄兜団の青年将校用の機関紙別冊の「軍旗」紙編集に携わったのを皮切りに、義勇軍エアハルト旅団やコンスルなどの機関紙の編集に従事すると共に数多くの論考を載せ、若い世代の保守革命、革命的ナショナリズムの思想的指導者とされ、ヴォルフ・ディーター・ミューラーからは「ドイツ魂の最高司令部」と評された。
第一次世界大戦を「総動員」の戦いとして総括し、『労働者――支配と形態』(Der Arbeiter. Herrschaft und Gestalt, 1932) において全体的世界の展望を示す。時代の衝撃と受け止められたこの書は「民族ボルシェヴィズムのカテキズム」と目され、ナチス体制を予告するものとされ、また、この時期のマルティン・ハイデッガーに決定的な影響を与えた。ユンガーの読者にはナチス幹部も少なくなかったが、ナチ党の出馬願いや第三帝国の文化アカデミーへの参加を頑に拒むなどナチスとは一線を画し、『大理石の断崖の上で』(Auf den Marmorklippen) に見られるようにあくまで反ナチあるいは非ナチに徹した。
ナチス時代と第二次世界大戦
ベルリンを1933年に去り、ハノーファー近くのキルヒホルストに居を構えるが、ナショナル・ボルシェヴィキのエルンスト・ニーキッシュ (Ernst Niekisch)との関係からゲシュタポによる家宅捜索を受ける。ゲシュタポ長官のハインリヒ・ヒムラーはユンガーを逮捕しようとしたが、第一次世界大戦でのユンガーの戦争体験を評価したアドルフ・ヒトラーが制止した。しかし、1938年以降、彼は執筆活動を禁止され、その直前に書かれた『大理石の断崖の上で』では、象徴的な手法でヒトラーによるファシズムの時代の状況を描き出していると評されている。友人たちからは国外に亡命するよう勧められたが、ユンガーはドイツに留まった。
第二次世界大戦には大尉として召集され、友人であるハンス・シュパイデル大佐の配慮でフランス語能力を買われパリのドイツ軍司令部で私信検閲の任につき、パリ在住のフランスの知識人、作家、思想家たちと深く交流し、パリは彼の「第二の故郷」となる。戦争後期は自費出版として『平和』(Der Friede, 1943) を著し、エルヴィン・ロンメル元帥やフォン・シュテュルプナーゲル将軍をはじめ西部戦線の反ナチ派のドイツ陸軍士官に広範な影響を及ぼす。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画と将校反乱に関係があったとされ、軍を解任され、住んでいたキルヒホルストに戻る。1939年から1949年までの彼の『庭と道』『パリ日記』『コーカサス日誌』『葡萄畑の小屋』などの日記は『射光』(Strahlungen) という表題で刊行されている。1950年代から1960年代に彼は頻繁に旅行し、非公式ながら日本にも来ており、独和辞典の編者として知られるロベルト・シンチンゲルがユンガーの案内をしている。ユンガーの最初の妻グレタは1960年に亡くなり、1962年にリゼロッテ・ローアーと再婚している。 また、1944年11月29日、ユンガーの息子のエルンステルはイタリア戦線のカララ山中で戦死している。
戦後
ユンガーは生涯を通しておそらく冒険的精神および好奇心からいくつかの薬物を試しており、それらにはエーテル、コカイン、ハシシ(大麻樹脂)、そして後に幻覚剤のメスカリンとLSDがある。これらの薬物体験は著作にも影響を及ぼしており、特に Annäherungen: Drogen und Rausch (1970) にはこれらの体験についての既述が包括的に含まれている。また、小説 Besuch auf Godenholm (1952) は明白に彼のメスカリンとLSDによる初期の体験に影響を受けて書かれたものである。彼とドラッグとの関係は単なる使用体験と著作への影響に留まらず、LSDの発明者でスイス人の化学者、アルベルト・ホフマン博士との親密な交流にも発展し、直接何度か会った際には共にLSDを摂取することもあったと言う。この二人の付き合いについては、ホフマンの著書 LSD, My Problem Child (1980) に詳しい。ユンガーもホフマンも102歳と齢を同じくして、それぞれ1998年と2008年にこの世を去った。
晩年
1995年3月29日の100回目の誕生日にはフランソワ・ミッテランを含む著名人や彼の愛読者が集った。晩年はハイデッガーとも親しい交友を持っていた。また、死の前年には福音派からカトリックへ改宗をしている。1998年2月17日、バーデン=ヴュルテンベルク州のリートリンゲンで一世紀を跨いだ長い生涯に終わりを告げた(満102歳没)。
魔術的リアリズムの文学と思想
ユンガーの文学と思想は、ニヒリズム以降のドイツ・ロマン派の後継とされることが多く、幻想と現実を同時に見る「幻想的リアリズム」あるいは「魔術的リアリズム」といわれる(V・カッツマン)。と同時に、その形態(Gestalt)の観点はゲーテに依るともいわれ、その意味ではユンガーをニヒリズム以降の古典主義と評する立場もある。彼の文学は、世紀末デカダンスの美意識を継承し、フランスのシュルレアリスムに対応するドイツの唯一の表現(K・H・ボーラー)と評されており、フランツ・カフカ、ロベルト・ムージル、ベルトルト・ブレヒト、ヘルマン・ブロッホらと共に20世紀ドイツ文学を代表する巨匠の一人とされる。現代のドイツ文学を俯瞰する時、「ユンガー以前」「ユンガー以後」という視点もある。また、ユンガーは、ドイツ文学においては、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと並ぶ屈指の文体家とされる。
該博な知識によるエッセイや世界各地への旅行記、そして時代の振動を一分の狂いもなく記し「時代の地震計」とまでいわれた膨大な日記作品はユンガーの真骨頂ともされ、ジュリアン・グラックやホルヘ・ルイス・ボルヘス、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグからエミール・シオランまで、ユンガーを高く評価する声は多い。
また、彼の思想は、フリードリヒ・ニーチェ以後のドイツ思想の屹立する高峰とされ、ユンガーは「ニーチェのもっとも過激な門人」(カール・レーヴィット)と評され、初期の「英雄的ニヒリズム」と呼ばれた思想は実存主義的とされ、後期の狷介孤高の隠者的思想はポスト・モダニズムに通じるとされる。
政治思想は前期はファシズム的であり、戦後、ユンガーとハイデッガーはそれぞれの還暦記念論集においてニヒリズム論を交換しているが、彼らにとってナチス体験とはニヒリズムの生きた体験でもあった。後期の思想はアナキズムに近接するところがあるとされる。
脚注
- ↑ Hanns Möller: Geschichte der Ritter des Ordens „pour le mérite“ im Weltkrieg. 2 Bände. Bernard & Graefe, Berlin 1935.
主要著作
邦訳タイトルが太字のものは日本語訳のあるもの
- In Stahlgewittern.(鋼鉄の嵐の中で。鋼鉄のあらし)1920
- Der Kampf als inneres Erlebnis(内的体験としての戦闘)1922
- Sturm(シュトゥルム)1923
- Das Wäldchen 125(小さな森125)1924
- Feuer und Blut(火と血)1925
- Das abenteuerliche Herz. Aufzeichnungen bei Tag und Nacht(冒険心。日毎夜毎の記述)1929
- Die totale Mobilmachung(総動員)1930, ISBN 4901477145
- Der Arbeiter. Herrschaft und Gestalt(労働者――支配と形態)1932, ISBN 978-4865030051
- Über den Schmerz(苦痛について)1933
- Blätter und Steine(葉と石)1934
- Afrikanische Spiele(アフリカ遊技)1936
- Das abenteuerliche Herz. Figuren und Capriccios(冒険心)1938
- Auf den Marmorklippen(大理石の断崖の上で)1939, ISBN 4000012762
- Gärten und Straßen(庭と道)1942
- Der Friede(平和)1945, ISBN 4901477145
- Sprache und Körperbau(言葉の秘密)1947, ISBN 4588000055
- Heliopolis(ヘリオーポリス)1949
- Strahlungen(射光)1949
- Über die Linie(線を越えて)1951
- Der Waldgang(森を行く)1951
- Das Sanduhrbuch(砂時計の書)1954, ISBN 4061589172
- Gläserne Bienen(ガラスの蜜蜂)1957
- Jahre der Okkupation(被占領時代)1958
- An der Zeitmauer(時代の壁ぎわ)1959
- Der Weltstaat(世界国家)1960
- Typus, Name, Gestalt(類型・名辞・形態)1963
- Die Zwille(ツヴィレ)1973
- Zahlen und Götter(数と神々)1974
- Eumeswil(オイメスヴィル)1977
- Siebzig verweht I(漂流の70年 1)1980
- Siebzig verweht II(漂流の70年 2)1981
- Eine gefährliche Begegnung(危険な遭遇)1985
- Zwei Mal Halley(二度目のハレー彗星)1987
- Siebzig verweht III(漂流の70年 3)1993
- Siebzig verweht IV(漂流の70年 4)1995
- Siebzig verweht V(漂流の70年 5)1997
- Politische Publizistik 1919-1933(政治的評論 1919年-1933年)2001