棋王戦
テンプレート:Otheruseslist 棋王戦(きおうせん)は、共同通信社主催の将棋の棋戦。毎年2月から3月にかけて行われる。将棋界の7つのタイトル戦のうちの一つで、「棋王戦五番勝負」の勝者は棋王となる。
目次
主催紙・経緯
棋譜は主催の共同通信社と契約している各社の新聞・雑誌に連載され、「棋王戦五番勝負」も各社持ち回りの開催となっている。契約社の多くは地方新聞社であり、東京都内で発行している新聞社はない。東京都内や地方紙に棋王戦が掲載されていない地域でも、日本ジャーナル出版の『週刊実話』誌でこの棋戦の棋譜を読むことができる。
元来、地方の新聞(いわゆる県紙)に掲載する棋戦は、戦後になってからは最強者決定戦と古豪新鋭戦があり、共同通信社が主催していた。この二つを統合し、1974年度に優勝棋戦として実施され、翌1975年度からタイトル戦となる。1981年度には予選の名棋戦も統合し、後に天王戦も統合して現行の形となっている。
しくみ
挑戦者決定までに予選・挑戦者決定トーナメント・敗者復活戦・挑戦者決定戦を行う。挑戦者は棋王と五番勝負を戦い、先に3勝した棋士が新たな棋王となる。
予選から五番勝負までのすべての対局で、持ち時間は各4時間の1日制である(1987年度までは5時間)。
予選
シード者以外の順位戦B級2組以下の棋士と、女流名人、アマ名人が参加する。トーナメント方式で予選通過枠は8人である。
なおアマチュアからの参加者から本戦に進出した者はまだ居らず、清水上徹、小牧毅が予選3回戦まで進出したことがある。
挑戦者決定トーナメント
予選通過者とシード者の計30人余でのトーナメントを行う。シード者は、前期挑戦者決定トーナメントベスト4以上(前期棋王が敗れた場合を含む)、タイトル保持者、永世称号者及び順位戦B級1組以上の棋士である。前期ベスト4の棋士は3回戦から登場する。
棋王戦特有のシステムとして、挑戦者決定トーナメントの準決勝以上は2敗失格制となり、敗者復活戦が行われる。準決勝で敗退した棋士2名が対局し、その勝者が挑戦者決定トーナメント決勝の敗者と対局する。その後、挑戦者決定トーナメントの優勝者と敗者復活戦の勝者とによる変則二番勝負による挑戦者決定戦を行う。挑戦者決定トーナメント優勝者は1勝、敗者復活戦勝者は2連勝することで棋王への挑戦権を得る。
棋王戦五番勝負
棋王と挑戦者が五番勝負を戦い、先に3勝したほうが新たな棋王となる。五番勝負は全国各地の旅館などで実施されるが、予選などと同じく、東京・大阪の将棋会館が会場となることもある。
過去の方式
- 第17期以前は、挑戦者決定トーナメントの準々決勝で敗れた4名も敗者復活戦に参加できた。
- 第17期以前は挑戦者決定戦は一番勝負だったが、「トーナメント決勝まで無敗で来た人間だけ敗者復活できないのはおかしい」との異論があって、現行の方式に変更された。
永世棋王
永世称号である「永世棋王」の資格は、棋王位を連続5期以上保持した棋士に与えられる。将棋界のタイトルで通算期数で永世位を獲得できないのは棋王のみである[1]。永世棋王への就位は他のタイトルの永世位と同様、原則として引退後である。2010年度終了現在、永世棋王の資格を持つ棋士は羽生善治のみ(七冠独占の約1年前、1995年3月に達成)であり、羽生にとって初めての永世位資格でもある。
歴代五番勝負
年は五番勝負が実施された時点。2月から3月にかけて五番勝負が実施されるため、年度は1年ずれる(例:2010年度の五番勝負は2011年)。
※第1回はトーナメント戦による決勝三番勝負の成績。○●は棋王から見た勝敗、千は千日手、持は持将棋。網掛けの対局者が勝者。
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エピソード
- 第1期となる1976年は、第1局の内藤國雄-大内延介戦[2]がハワイホノルルで開催され、将棋界では公式戦初の日本国外での対局となった。
- 第15期は、大山康晴が66歳で南芳一に挑戦。3連敗に終わったが、将棋界におけるタイトル戦登場の最年長記録となっている。
記録
脚注
テンプレート:脚注ヘルプ- ↑ 米長邦雄によると、米長自身が通算5期目、連続4期目の棋王位を獲得しようとする防衛戦(対森安秀光)の最中に、通算5期でも永世棋王は認められないという判断を、日本将棋連盟が下したことなどによる。「日本将棋連盟の判断」というよりは、「将棋連盟会長としての大山康晴の判断」であったという。このとき、米長が棋王防衛に向けて有利な展開となっていたが、大山康晴は「会長として」通算5期でも永世棋王は認めないという決定を下した。米長は大山会長の元へ出向き、理由を尋ねたところ、大山は「名人はタイトルではない。(名人は他のタイトルと違って特別のものであるから、)名人以外のものは“永世”称号をつけるのはおかしい。」と言われ、さすがの米長も名人のことを引き合いに出されては、賛同せざるをえなかった。その後、大山は会長として「5期連続獲得で永世棋王とする」と決定。米長は、自分の利害にかかわることであるから、それ以上反論しなかった。翌年、米長は桐山清澄に棋王を奪われ、永世棋王になれなかった(将棋マガジン(日本将棋連盟)1996年5月号「さわやか流・米長邦雄のタイトル戦教室」による)。
- ↑ 2.0 2.1 棋王戦は1975年のみ優勝棋戦として開催され、翌1976年からタイトル戦となっている。第1期となる1976年は、前年度優勝の内藤國雄、本戦優勝の高島弘光、敗者復活戦優勝の大内延介の3名によるリーグ戦となった。それぞれ2局ずつ対局し、内藤 2-0 高島、内藤 1-1(1千日手) 大内、高島 0-2 大内、これにより3勝1敗で並んだ内藤と大内の同点決戦が行われ、大内が初代棋王位を獲得した。