柱谷幸一
テンプレート:サッカー選手 柱谷 幸一(はしらたに こういち、1961年3月1日 - )は、京都府京都市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 日産自動車、ヴェルディ川崎で活躍した柱谷哲二は実弟。
目次
来歴
選手時代
国士舘大学在学中より日本代表に選ばれ、ロサンゼルス五輪予選や1986 FIFAワールドカップ・アジア予選にフォワードとして出場。当時国内三冠を達成し最強と言われた日産の主力として木村和司や水沼貴史らと共に活躍、ヘディングでのゴールが多かったことから「ヘッドの(柱谷)兄」と当時のサッカーファンから称された。浦和レッドダイヤモンズに移籍した後はFW、94年には中盤にポジションを移すが、同年には柏レイソルに移籍し、Jリーグ昇格に貢献。晩年は再びFWとしてプレーし、エジウソンとのツートップで柏の躍進を支えた。
- 1979年 日本開催の1979 FIFAワールドユース選手権で日本代表に選出。
- 1983年 日本サッカーリーグの日産にFWとして所属。
- 1992年 前年に日産の監督に就任した清水秀彦と対立し、浦和に移籍。
- 1994年 守備的MFにポジションを移したが、レンタル移籍で加入した浅野哲也とのポジション争いに敗れ、6月に当時ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)の柏に移籍。
- 1996年 シーズン終了後引退。末期は再びFWとしてプレーしていた。
引退後
- 1999年 JFA 公認S級コーチのライセンスを取得。
モンテディオ山形
- 2001年 植木繁晴の辞任に伴い、モンテディオ山形の監督に就任。チームを昇格目前の3位に引き上げ選手育成能力と大胆な戦術が評価される。
- 2002年 主力選手の移籍(柱谷は特にJ1からオファーが来た選手は引き止めなかった。もちろん社団法人が運営していて予算面に制限のある山形のチーム事情もある)や、対戦相手に研究されたことなどから低迷。得失点差で最下位は免れ11位。
- 2003年 7月、当時NHK山形放送局の契約キャスターだった古瀬絵理との不倫疑惑が浮上して謹慎処分を受ける。その後、契約非更新が発表されて退任。「資金不足で良い選手を獲得できなかったことが敗因」とコメント。8位でシーズン終了。
京都パープルサンガ
- 2004年 6月、J2京都パープルサンガの監督に就任。
- 2005年 リーグ戦は首位を独走。10月22日にJ1復帰、11月6日にJ2優勝を決めた。また、京セラ、立命館宇治高等学校と共同で全寮制のユース育成体制(スカラーアスリートプロジェクト)を提案、創設した。
- 2006年 自身初のJ1チームの監督として臨んだが、下位に低迷。シーズン途中の補強選手もうまく結果を残せず10月3日に解任された。
栃木SC
浦和レッドダイヤモンズ
- 2009年12月25日、体調不良により退任した信藤健仁チームダイレクターの後任として、浦和レッドダイヤモンズのゼネラルマネージャーに就任した。
- 2011年9月12日、チームの成績不振のため解任。
ギラヴァンツ北九州
所属クラブ
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1983||rowspan="9"|日産||||rowspan="9"|JSL1部||18||7|||||||||||| |- |1984||||17||8|||||||||||| |- |1985||||22||8|||||||||||| |- |1986-87||||22||11|||||||||||| |- |1987-88||||13||3|||||||||||| |- |1988-89||||22||9|||||||||||| |- |1989-90||rowspan="3"|11||11||2||4||1|||||||| |- |1990-91||5||0||4||2|||||||| |- |1991-92||10||4||2||0|||||||| |- |1992||rowspan="3"|浦和||-||rowspan="3"|J||colspan="2"|-||8||6||4||4||12||10 |- |1993||-||18||2||3||0||1||0||22||2 |- |1994||-||7||0||0||0||colspan="2"|-||0||0 |- |1994||rowspan="3"|柏||45||旧JFL||16||1||1||0||0||0||17||1 |- |1995||-||rowspan="2"|J||31||4||colspan="2"|-||2||1||33||5 |- |1996||-||25||2||13||1||1||0||39||3 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始81||8|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行140||52|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行16||1|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終237||61|||||||||||| |} その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 5試合1得点
- 1991年
- コニカカップ 5試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
代表歴
出場大会など
- 1979 FIFAワールドユース選手権
- アジア競技大会(1982,1986)
- ロサンゼルスオリンピック予選
- 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選
試合数
- 国際Aマッチ 29試合 3得点(1981-1986)
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1981||9||0||16||6||25||6 |- |1982||3||0||8||2||11||2 |- |1983||1||0||5||0||6||0 |- |1984||5||1||5||3||10||4 |- |1985||9||2||7||0||16||2 |- |1986||2||0||4||2||6||2 |- |1987||0||0||2||1||2||1 |- !通算 |29||3||47||14||76||17 |}
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1984年4月15日 | シンガポール | テンプレート:THAf | 2-5 | 敗戦 | ロサンゼルス五輪予選 |
2 | 1985年2月23日 | テンプレート:SGPf | 3-1 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
3 | 1985年6月4日 | 日本、名古屋市 | テンプレート:MYSf | 3-0 | 勝利 | ジャパンカップ |
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2001 | J2 | 山形 | 3位 | 44 | 69 | 27 | 6 | 11 | 1回戦 | 3回戦 |
2002 | 11位 | 44 | 35 | 6 | 17 | 21 | - | 1回戦 | ||
2003 | 8位 | 44 | 55 | 15 | 10 | 19 | - | 3回戦 | ||
2004途中 | 京都 | 5位 | 27 | 47 | 14 | 5 | 8 | - | 4回戦 | |
2005 | 優勝 | 44 | 97 | 30 | 7 | 7 | - | 4回戦 | ||
2006 | J1 | (16位) | 25 | 18 | 4 | 6 | 15 | 予選リーグ | - | |
2007途中 | JFL | 栃木SC | 8位 | 34 | 52 | 14 | 10 | 10 | - | 3回戦 |
2008 | 2位 | 34 | 63 | 18 | 9 | 7 | - | 4回戦 | ||
2013 | J2 | 北九州 | 16位 | 42 | 49 | 13 | 10 | 19 | - | 3回戦 |
- 2004年は前任の西村昭宏が成績不振で解任されたため、6月より就任。
- 2006年は25節終了後に解任(順位は解任当時のもの)。
- 2007年は6月より就任(成績は通年のもの)。
エピソード
- ドーハの悲劇の際、テレビ東京の中継にゲストとして参加していたが、あまりのショックに号泣して言葉にならなかったことは有名。
- 京都の監督時代には、サンフレッチェ広島F.Cの育成組織を参考に京都の下部組織の強化を図った。その結果、2006年からスカラーアスリートプロジェクトが発足した。同プロジェクトによって練習施設や寮などのサッカー面に加え、立命館宇治高校との協力による学業面の支援など、下部組織の環境の整備が進んだ。
外部リンク
- 柱谷幸一 - KICK OFF(柱谷幸一のオフィシャルサイト)
関連項目
テンプレート:Jリーグ監督 テンプレート:ギラヴァンツ北九州のメンバー テンプレート:1979 FIFAワールドユース選手権 日本代表 テンプレート:浦和レッドダイヤモンズ歴代主将 テンプレート:Navboxesテンプレート:Footybio-stub