シャルル=ヴァランタン・アルカン
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽
シャルル・ヴァランタン・アルカンテンプレート:Refnest (Charles Valentin Alkan テンプレート:IPA-fr、1813年11月30日パリ - 1888年3月29日パリ)は、フランスのロマン派の作曲家、ピアニスト。
目次
生涯
概略
アルカンは本名をシャルル・ヴァランタン・モランジュ (Charles Valentin Morhange) といい、パリのブラン・マントー通り[注 1]でユダヤ系の家庭に生まれた。父はアルカン・モランジュ(1780年 – 1855年)、母はジュリー(Julie)・モランジュ(旧姓 アブラハム Abraham)である[1]。彼は6人姉弟の2番目であり、姉と4人の弟がいた。アルカンは音楽家であった父の名であり、彼を含む兄弟すべてが音楽家としてアルカンを名乗った。パリのユダヤ人居住区であったマレ地区の彼の自宅は、パリ音楽院を目指す子どもたちが通う音楽予備校であり、マルモンテル、ラヴィーナらが通っていた[2]。弟のナポレオン(Napoléon)は音楽院でソルフェージュの教授となり、別の弟のマクシム(Maxim)はパリの劇場で軽音楽を作曲する仕事に就いた。姉のセレスト(Céleste)もピアニストだった。
アルカンは生涯をパリ周辺で過ごした。彼の外遊で知られているものは、1833年から1834年のイングランドへの演奏旅行と、家族の用事で1840年にメスへ赴いたことだけである。
幼くして神童といわれ、6歳でパリ音楽院に入学、ピーエル・ジョゼフ・ギヨーム・ジメルマン[注 2]のピアノクラスに学んだ。7歳にしてソルフェージュ、ピアノ、伴奏、作曲、オルガンでプルミエ・プリ(一等賞)を得る。7歳半で初めての公開演奏会を行ったが、この時彼はヴァイオリニストとして出演した。ピアニストとしてのデビューは12歳の時で、私的な家庭演奏会で自作を何曲か披露した[3]。彼の作品番号1番は1828年、14歳で発表した作品であった。1829年に室内楽のトリオを結成したが、その時のチェロ奏者はショパンの親友であったオーギュスト・フランコムであり、彼がアルカンにこのポーランドの青年を紹介した可能性が指摘されている。[4]
アルカンは20代になって、教育に携わり、上流階級の集まりで演奏会を行うなどし、リスト、ジョルジュ・サンド、ヴィクトル・ユーゴーらと友好関係を築いた。1838年、25歳にして彼の経歴は頂点に達する。彼は自らの主催した演奏会で賛助出演したショパンとしばしば共演し、リスト、タールベルク、カルクブレンナーのライバルのヴィルトゥオーゾとして称されていた。リストはアルカンについて、自分が知る中で誰よりも優れたピアノ技巧を有していると述べている[5]。この頃から6年の間、アルカンは私的なレッスンと作曲だけに専念するが、これは彼の子ではないかと目されるエミール・ドゥラボルド[注 3]の誕生、乳幼児期と期を同じくしている。その後、アルカンは1844年に演奏会に復帰している。1842年にショパンがスクアール・ドルレアン(Square d'Orléans)にジョルジュ・サンドと共に越して来て隣人同士となっており[6]、1849年のショパンの死後はその弟子の多くを引き取った。
1848年、アルカンは大きな挫折を経験することになる。パリ音楽院ピアノ科長であったジメルマンの引退に伴う後継者争いに敗れたのである。ロビー活動に精を出してアルカンは任用を期待していたが、音楽院学長のオーベールはジメルマンの後継に、かつてはアルカンの弟子であったマルモンテルを据える決定をする。この件や親友のショパンの死に直面して失意に沈んだことで、アルカンは公衆の面前での演奏ができなくなったのだろう。1851年にシナゴーグのオルガニストになったのもつかの間、すぐに職を辞してしまう。早くから技術を体得して名声を手にした彼であったが、1853年の2回の演奏会を除くと、25年もの実質的な隠居生活に入ったのである[7]。
1861年にヒラーに宛ててしたためた手紙の中で、アルカンはこう記している。
私は日ごとに人間嫌い、女性嫌いになってきています・・・行動に移す価値のあること、良いこと、役に立つことなどなにもありません・・・私自身を捧げるに足る人物などいないのです。私は自分の置かれた状況をどうしようもなく悲しく、惨めに感じています。私は音楽を作ることにすら意味や目的を見出せなくなり、魅力を感じられなくなっています。
このような状況ではあったものの、アルカンは友人たちと交流し、作曲と出版を継続した。ドイツ系スコットランド人の音楽学者であるフレデリック・ニークス[注 4]はアルカン宅の守衛に厳しく面会を拒否された数日後、エラール[注 5]のサロンで彼を見かけている。ニークスはその出会いについて、こう述べている。「私に対する対応は礼儀正しいだけでなく、大層親しげなものであった。」またアルカンはヒラー[8]やスペイン人のピアニスト、作曲家であったサンティアーゴ・マサルナウ[注 6][9]との文通を続けた。マサルナウはパリでアルカンと知り合い、作品16の「3つの華麗なる練習曲(スケルツォ集) Trois études de bravoure」の献呈を受けている。
ジャック・ギボンズはアルカンの性格について、次のように記している。
アルカンは知的で、活発で、機智に富んだ温かみのある人物であった(これらの性格は全て彼の音楽に現れている)。彼の唯一の欠点は生き生きとした想像力を持ち続けていたことだった。時おり奇行に走ったようだが(それでも他の「高く位置づけられる」芸術家たちに比べれば穏やかな方だ!)、それも主に彼の過敏な基質に根ざしたものだったのである[6]。
晩年、1873年からアルカンはエラールのピアノ展示場で年に6回の「小コンサート 'Petits Concerts'」を開くようになる。そこでは自作だけではなく、バッハ以降の彼の好みの作曲家の作品を取り上げていた。こういった演奏会では、時に彼の姉弟が助っ人となることもあり、出席者の中にはダンディもいた。この演奏会は1877年まで続けられた。
アルカンが自宅に閉じこもって一時は聖書やユダヤ教の経典タルムードの研究に没頭した時期のことはあまり分かっていないが、それ以外にも足取りのつかめない期間が存在する。ヒラーとの間に交わされた書簡から分かるのは、アルカンが旧約聖書と新約聖書のいずれも、原語からフランス語への翻訳を完成させていたということである。この聖書は、アルカンの多くの作品と同様に完全に失われてしまっている。失われた作品には、弦楽六重奏曲やフルオーケストラによる交響曲ロ短調があり、アルカンからその楽譜を見せられたレオン・クロイツァー(Léon Kreutzer)の1846年の論文にそれらの記述がある[10]。
ドゥラボルドについて
アルカンは生涯独身であったが、エミール・ドゥラボルド[注 3]が彼の子であると一般に信じられている。ドゥラボルドという名前がアルカンの友人、そしてショパンの恋人であったジョルジュ・サンドの母のメイドと同じであることが重要だと考える向きもある。ドゥラボルドは若い頃にアルカンに教えを請うており、またアルカンの作品の多くを演奏、校訂している。父同様、ドゥラボルドもペダルピアノの優れた奏者であった。ビゼーの死後、彼の未亡人であるジュヌヴィーヴ(Geneviève)(作曲家ジャック・アレヴィの娘だった)はドゥラボルドと協定関係を結んだ。実のところ二人の間には婚姻届が準備されていたが[11]、それが実際に効力を発揮することはなかった。興味深いことに、情熱的なアスリートであったドゥラボルドはビゼーの死を間接的に招いた人物である。彼ら二人は水泳競技を行ったが、ビゼーはそれが原因で風邪を引いてその後に死亡したのである[12]。ドゥラボルドは晩年になって結婚するが、子をもうけたという記録は残っていない。
死因について
アルカンは1888年3月29日、74歳で永眠した。長年にわたって、彼は自宅の高い本棚でユダヤ教の経典タルムードを本棚から取りだそうと手を伸ばしたところ、本棚が倒れて下敷きになって死亡したと信じられてきた。この説はアレクサンドル・ベルタの1909年の記事に端を発している[13]。それ以外にも、アルカン一家の故郷の町であるメスでラビをしており、「シャーガットのアリヤ」として知られたアリヤ・レイブ・ベン・アシャー・グンツベルク[注 7]の言い伝えが基になっているのではないかという意見もある[14]。この話はピアニスト兼作曲家のイシドール・フィリップやドゥラボルドによって誇張されて伝えられたが、死因についての確定的な根拠はなく、不明であった[15]。伝説に異を唱えたのはヒュー・マクドナルド(Hugh MacDonald)である。彼は近年発見されたアルカンの守衛の書簡の記載から、守衛がアルカンのうめき声を聞いてかけつけたところ、彼が台所でポルテ・パラプリュイー("porte-parapluie" 外套や傘をかけるラック)の下敷きとなっているのを発見したとしている。彼はラックを支えにしようと掴んでその下敷きとなり、おそらく気絶したと考えられる。彼は寝室に運ばれて、その日の午後に息を引き取ったと伝えられる[16]。
アルカンは復活祭の日曜日であった4月1日に、パリのモンマルトル墓地のユダヤ人区画に埋葬された。それは同時代のアレヴィの墓からは程近い位置にある。アルカンの姉のセレステも、同じくモンマルトル墓地に眠っている。
アルカンの死を巡る主張には、ロナルド・スミスが著した伝記に事実として引かれ、その後に広く引用されたものがある。それはル・メネストレル誌[注 8]を出典とし、「アルカンは死んだ。彼は自らの存在を証明するために命を絶ったのだ。」で始まるものである。しかし、そのような死亡記事はル・メネストレル誌には掲載されておらず、現在まで同時代の雑誌のいずれにもそのような記載を確認できていない[注 9]。
これらの説は物証には乏しく、実際には親族との食事中に倒れたという説も有力視されている。
他の音楽家との交流
アルカンは、作品の贈答を通じて同時代の音楽家との交流を深めた。アルカンは完全な世捨て人であったかのように伝承されている事が多いが、実際にはパリ音楽院を辞職した後、アルカンの父親が経営していた音楽塾を継ぎ、またコスタラ社の顧問として細々と生活していた可能性が有力である。
アルカンが高齢になった後も、フランク、ルビンシテイン、ラヴィーナ、ヒラーから作品を献呈され、音楽理論家フェティスや大作曲家として大成したダンディの信頼も得て、その存在はフランス国内外で信頼されていた。シューマンが攻撃したことで知られるマイヤベーヤは、オペラ「預言者」からカットされた序曲をアルカンに手渡し、アルカンはその序曲を全曲ピアノソロへ編曲している。このエピソードからも、マイヤベーアと親交のあった事が伺える。その序曲のフルスコアは失われたが、編曲譜だけは現存している。
一連の59歳から始まった「リタイヤ・リサイタル・シリーズ」の終了後は、伝承された通りの隠遁生活であり、その時期の印象があまりにも強すぎたために多くの逸話が「創作」されたものと考えられている。ショパンとゴッチョーク(ゴットシャルク)は既に亡くなってしまい、リストは交響詩作家へ転進、タールベルクはピアノをやめ、1830年代に一世を風靡した一連のヴィルトゥオーゾは流行が過ぎると、その存在ごと無視された。アルカンもその例外ではなかったのである。
アルカンに献呈された作品
- フェルディナント・ヒラー:『8小節変奏曲 Op.57』
- (アルカンの作品39-12と極めて類似した形式で書かれている)
- セザール・フランク:オルガン曲『交響的大曲 Op.17』嬰ヘ短調
- アントン・ルビンシテイン:『ピアノ協奏曲第5番 Op.94』
- ジャン=アンリ・ラヴィーナ:『3つのカプリス Op.6』
アルカンの実子に献呈された作品
アルカンが献呈した作品
- 『シュタイベルト[注 10]の主題に基づく変奏曲 Op.1』 (ピーエル・ジメルマン[注 2])
- 『3つの悲愴的な様式による3曲 Op.15』 (フランツ・リスト)
- 『室内協奏曲第1番 Op.10』 (ピーエル・ジメルマン)[17]
- 『歌曲集 第二集 Op.38』 (ユリウス・シュルホフ[注 11])
- 『全ての短調による練習曲 Op.39』 (フランソワ=ジョゼフ・フェティス)
- 『ドイツ風メヌエット Op.46』 (ジャン=アンリ・ラヴィーナ)
- 『3つの行進曲 Op.40』(ピアノ4手) (フェルディナント・ヒラー)
ピアノ技巧
アルカンの際立った技巧は彼の作品に求められる技術的、身体的難度を見れば明らかである。しかしながら、これらの技巧が音楽性を犠牲にしているわけではないことは、より繊細な作品群に目を向けることで分かる(「夜想曲 ロ長調 Op.22」や「エスキス集」などである)。ダンディは60代半ばのアルカンが、誰もいない部屋で「折れ曲がった、骨と皮ばかりの指で」エラール[注 5]のペダルピアノでバッハを弾いている姿を思い出し、こう述べている。「私が耳にしたのは、表情の豊かさという美点に根ざした、透明感のある見通しの良い演奏であった。」アルカンは後にベートーヴェンの「ピアノソナタ第31番」を演奏しており、これについてはダンディは以下のように評した。
アルカンの晩年に彼に習い、またリスト門下でもあったある弟子も同じくアルカンの演奏に関して述べている。彼が回想するに、アルカンの演奏は「実年齢以上に老け衰えて見える彼のその姿にもかかわらず、驚くべき若々しさ」を維持していた[6]。
作風
アルカンは、ショパンと同様にほとんどピアノ作品のみを書き、リストと同様にピアノによる交響的表現を追求した。その実現のために彼の作品には超絶的な技巧の数々、極端な速度、高速での大きな跳躍、長時間の早い同音連打、幅の広い対位法的旋律の維持などが要求される。そのような彼の音楽は「恐ろしく」また「演奏不可能なほど」難しいとも評されてきた[6]。ピアニストのマルカンドレ・アムランはこう述べている。
アルカンという作曲家を知らずにその音楽を始めて耳にした時にほとんどの人がそう感じるだろうが、アルカンの音楽は難しすぎて演奏できないという一面を持っている(中略)しかしある意味では、私は彼の音楽が法外な技巧を用いているわけではないと思っている(中略)アルカンの非常に価値ある音楽は、それらの困難を克服するに足るものなのだ。
代表作には練習曲「鉄道」 (Op.27) 、大ソナタ「四つの時代」 (Op.33) 、長短全調からなり超絶的技巧を要する練習曲(長調のOp.35と短調のOp.39)などがある。Op.39の4・5・6・7番は「独奏ピアノのための交響曲」、また8・9・10番は「独奏ピアノのための協奏曲」と銘打たれている。
アルカンには室内楽作品もあり、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲などがそれにあたる。中でも最も異様なのは「ある鸚鵡の死によせる葬送行進曲 Marcia funebre, sulla morte d'un Pappagallo」(1859年)であり、3つのオーボエとファゴット、声楽のための曲である。
音楽的に、彼の発想の多くは型にはまらず、斬新ですらあった。他楽章制の作品では、後にデンマークの作曲家であるニールセンによく見られるようなテンプレート:仮リンクを採っている。例えば、「四つの時代」はニ長調に始まり嬰ト短調の終結に至る。彼は厳格にエンハーモニックの使用を避け、転調を行う際はダブルシャープやダブルフラットを用いた。そのため、ピアニストはしばしば見慣れない調性であるヘ長調のエンハーモニックである嬰ホ長調や、トリプルシャープなどの記号に遭遇することになるテンプレート:Refnest。
後年になると高度な技巧を駆使した大規模形式による作品からは手を引き、「エスキス集 Op.63」に代表される小品集においてピアノの語法を探究した。この作品集では、ユダヤ教の教会旋法、半音階による無調的表現、トーン・クラスターなどの野心的なピアノ書法特徴的が見られる。また、シューマンやリスト、グノーらと同様にペダルピアノにも関心を持ち、作品をいくつか残している。1855年にはエラール社のペダルピアノ(ペダリエ)を公衆の前で実演した[18]。 彼はまた、1886年に作成した遺書に置いてこの楽器のためのコンクールを創設するため遺産から800フランを寄附することを希望している[19]。
受容
死後、彼の作品は20世紀の初めごろまではフェルッチョ・ブゾーニやハロルド・バウアーなどのヴィルトゥオーゾ・ピアニストたちに取り上げられていた。再評価の機運が高まってきたのは1970年代末に入ってからである。1977年にイギリスで、1984年にフランスでアルカン作品の普及を目的としたアルカン協会が設立されたことは、この動きを象徴するものである。ロナルド・スミスによる「短調による12の練習曲」の全曲録音は発表当時大きな話題となった。その後マイケル・ポンティによる「短調による12の練習曲」抜粋の録音、金澤攝による1984年の全曲演奏とジャック・ギボンズによる1995年の全曲演奏が共にライヴでなされ、この頃からマイナーレーベルの注目を集めるようになった。現在ではマルカンドレ・アムラン、スティーブン・オズボーン、ステファニー・マッカラム、森下唯、飯坂健らのピアニスト達が普及に努めている。2011年にはアテネでもジメルマン=アルカン国際音楽協会が催され、2012年4月にはコンクールが催されヨーロッパ各地から参加したピアニストたちがアルカン作品を演奏した[20]。
作品
ピアノ独奏曲
- Op.1 シュタイベルトの主題に基づく変奏曲
- Op.2 乗合馬車 変奏曲
- Op.3 ロンドレット「小さな男がおりました」
- Op.4 華麗なロンド
- Op.5 ロンド「私は町の何でも屋」―ロッシーニの『セビリアの理髪師』のアリアより
- Op.10a 室内協奏曲第1番 (ピアノ独奏版)
- Op.12a 半音階的なロンド
- Op.12b 3つの華麗なる練習曲
- Op.13 3つのロマンティックなアンダンテ
- Op.15 3つの悲愴的な様式による3曲
- Op.16 3つのスケルツォ
- Op.16-4 ドニゼッティの歌劇『アンナ・ボレーナ』より 「ああ! 死刑は決まった」によるピアノのための変奏
- Op.16-5 ベルリーニの歌劇『カプレーティとモンテッキ』のアリア「恐ろしい復讐の剣を」によるピアノのための変奏
- Op,16-6 ナポリの舟歌による幻想的変奏曲
- Op.17 演奏会用練習曲「騎士」
- Op.22 夜想曲 第1番
- Op.23 サルタレロ
- Op.24 ジーグと古い形式によるバレエの音楽
- Op.25 アレルヤ
- Op.26 葬送行進曲
- Op.27a 凱旋行進曲
- Op.27b エチュード「鉄道」
- Op.29 エチュード 「オーヴェルニュ地方のブーレ」
- Op.30b 無窮動――ピアノトリオの終楽章より
- Op.31 短調と長調による25の前奏曲
- Op.32a 即興曲集第1集
- Op.32b 3つの5拍子の歌と1つの7拍子の歌 即興曲集第2集
- Op.33 グランドソナタ
- Op.34 スケルツォ・フォコーソ
- Op.35 全ての長調による12の練習曲
- Op.37 3つの騎兵隊行進曲
- Op.38-1 歌曲集第1集
- Op.38-2 歌曲集第2集
- Op.39 全ての短調による12の練習曲
- Op.41 3つの小さな幻想曲
- Op.42 和解―小さなカプリス
- Op.45 貧しき者の亡骸に幸いあれ!
- Op.46 ドイツ風メヌエット
- Op.50 奇想曲-軍隊風に
- Op.50bis 戦場の太鼓
- Op.51 3つのメヌエット
- Op.52 バビロンの流れのほとりで―詩篇137からのパラフレーズ
- Op.53 狩りの如く―カプリス
- Op.55 打ち上げ花火 ―序奏と即興
- Op.57-1 夜想曲 第2番
- Op.57-2 夜想曲 第3番
- Op.60-1 「私の大切な自由―ピアノのための小品」
- Op.60-2 「私の大切な束縛―ピアノのための小品」
- Op.60bis 夜想曲 第4番 「蟋蟀」
- Op.61 ソナチネ
- Op.63 48のモチーフ集―エスキス
- Op.65 歌曲集第3集
- Op.67 歌曲集第4集
- Op.70 歌曲集第5集
- Op.74 12の性格的な小品
- Op.75 小トッカータ
- Op.76 片手ずつと両手のための3つの大練習曲
- 作品番号無し
- アパッショナート
- 空想 ロ短調
- 「脱帽!」―空想 第2番
- 幻想曲「欲望」
- 練習曲「野蛮に」
- 練習曲 ニ長調
- アルカンの練習曲
- 胸騒ぎ イ長調
- ソルツィーコ―イベリアの踊り ニ短調
- プチ・コント 変ホ長調
- 24小節の無限カノン
- 「修道女ちゃんの後悔」―ピアノのための小さな調べ
- ドニゼッティの歌劇『愛の妙薬』[パリ伯爵ウーゴ] によるヴィエル風変奏曲
- 音楽院の演奏会の思い出(ピアノ用編曲集)
- 音楽院の演奏会の思い出(第2集)
管弦楽曲
- 交響曲(未出版)
協奏曲
- 室内協奏曲 Op.10
- 第1番…ピアノと管弦楽
- 第2番…ピアノと弦楽合奏
室内楽曲
脚注
注釈
- ↑ 訳注:歴史地区であるマレ(Le Marais テンプレート:IPA-fr)の第4地区に位置する通り。(Rue des Blancs-Manteaux)
- ↑ 2.0 2.1 訳注:1785年生まれ、フランスのピアニスト、作曲家、音楽教師。グノー、フランク、ビゼー、トマの作曲の師でもあった。グノーは彼の娘と結婚しており、義理の父である。パリ音楽院のピアノ科長当時、国籍を理由にゴットシャルク(アメリカ人)を演奏を聴きもせずに門前払いした。(Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann)
- ↑ 3.0 3.1 訳注:1839年生まれ、フランスのピアニスト、作曲家。アルカンやモシェレス、ヘンゼルトの弟子であり、サン=サーンスは彼に「ピアノ協奏曲第3番」を捧げている。また、フェンシングの選手であり、絵画の世界ではマネの親しい友人であった。(Élie-Miriam Delaborde)
- ↑ 訳注:1845年生まれ、ショパンやシューマンの伝記を記した。(Frederick Niecks)
- ↑ 5.0 5.1 5.2 訳注:セバスチャン・エラール創始のフランスのピアノ製造会社。エラールが考案した仕組みの多くは、現代のピアノにも受け継がれている。(Sébastien Érard)
- ↑ 訳注:1805年生まれ、後年は宗教への帰依を強め、貧しい人びとへの奉仕や宗教音楽の作曲を行った。(Santiago Masarnau Fernández)
- ↑ 訳注:1695年頃生まれ、リトアニア大公国のラビ。研究中に本棚が倒れて論敵の著書に埋もれて助けられ、敵対していた面々との和解を試みたが、その中の1人に謝罪を拒絶されたことで死期を悟ったという伝説を持つ。(Aryeh Leib ben Asher Gunzberg)
- ↑ 訳注:1833年から1940年まで刊行され、影響力のあったフランスの音楽週刊誌。(Le Ménestrel)
- ↑ 訳注:本項の出典[16]はロナルド・スミスの著書であるため、事実関係には注意されたし。
- ↑ 訳注:1765年生まれ、ドイツのピアニスト、作曲家。1820年に初演したピアノ協奏曲第8番は、合唱付きのピアノ協奏曲としては破格な曲であった。(Daniel Steibelt)
- ↑ 訳注:1825年生まれ、ボヘミアのピアニスト、作曲家。エルヴィン・シュルホフの大叔父にあたる。(Julius Schulhoff)
- ↑ 訳注:1995年開館、コンサートホールや博物館を備える。(Musée de la musique)
出典
- ↑ Smith (2000)
- ↑ Antoine-François Marmontel, Les pianistes célèbres : silhouettes et médaillons, Paris: Heugel, 1878, p. 128
- ↑ Nicholas (2007)
- ↑ Ronald Smith, Alkan, the man, the music, London: Kahn & Avril, 2000, p. 18.
- ↑ Lindeman (1999), 111
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 Gibbons (2002)
- ↑ Eddie (2007), 11, 13
- ↑ 現在、書簡はフランクフルトに保管されている
- ↑ These letters are now in the Spanish Historical Archives.
- ↑ Conway (2011), 208, 236
- ↑ Lacombe (2000), 400
- ↑ Curtis (1958), 369–70, 418
- ↑ Alexandre Bertha, "Ch. V. Alkan ainé. Etude psyco-musicale" in Bulletin français de la Société internationale de musique, 1909, pp. 135-147.
- ↑ Conway (2011), 230
- ↑ Ronald Smith, Alkan, the man, the music, London: Kahn & Avril, 2000, p. 73-75.
- ↑ MacDonald (1978)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Constance Himelfarb, "Chronologie" in Charles Valentin Alkan, Paris: Fayard, 1991, p. 18
- ↑ Ronald Smith, Alkan, the man, the music, London: Kahn & Avril, 2000, p. 83.
- ↑ http://www.alkan-zimmerman.com/index.html
参考文献
音楽エディション
- Charles-Valentin Alkan. Le festin d'Esope and other works for solo piano. New York: Dover Publications.(1998) ISBN 0-486-40066-2.
一般
- The Concise Edition of Baker's Biographical Dictionary of Musicians, 8th ed. Revised by Nicolas Slonimsky. New York, Schirmer Books, 1993. ISBN 0-02-872416-X
- David Conway (2011). Jewry in Music: Entry to the Profession from the Enlightenment to Richard Wagner, Cambridge University Press, . ISBN 978-1-107-01538-8
- Minna Curtis (1958). Bizet and his world, 1958
- William A. Eddie (2007). Charles Valentin Alkan: his life and his music, Ashgate Publishing, Ltd., 2007
- Jack Gibbons (2002). The Myths of Alkan – transcript of a talk given on BBC Radio 3 (retrieved 27.1.2012).
- Hervé Lacombe (2000). Bizet, naissance d'une identité créatrice, Paris, 2000
- Stephan D. Lindeman (1999). Structural Novelty and Tradition in the Early Romantic Piano Concerto. Pendragon Press ISBN 1-57647-000-8
- Jeremy Nicholas (2007). Liner notes, Alkan: Concerto for solo piano; Troisième receuil de chants, Marc-André Hamelin, piano; Hyperion CDA67569.
- Hugh Macdonald(1978). 'More on Alkan's Death'. The Musical Times 129 .
- W. H. Rosar, 'Fanelli, Ernest' in Oxford Music Online, Oxford University Press.
- Humphrey Searle (1937). A Plea for Alkan,Music and Letters, vol. 18 no. 3 (July 1937)
- テンプレート:Cite book
外部リンク
アルカンについて
- アルカン協会(英語)
- テンプレート:PTNA 上田泰史
- 森下唯ウェブページ - アルカンの作品についての解説。
- "The Myths of Alkan" by Jack Gibbons
- The Strange case of Charles-Valentin Alkan
- Unriddling Alkan
- Bibliography and Discography
- Pictures of Alkan and his family
- his father
- his mother
- his sister Celeste
- his brother Napoléon
- and his son Elie-Miriam Delaborde
楽譜と音源
- Free Alkan scores and manuscripts - site of Sylvain Chosson
- Charles-Valentin Alkan - IckingArchive
- Kunst der Fuge website: many of the piano works in MIDI files
- www.kreusch-sheet-music.net - Free Scores by Alkan
- テンプレート:IMSLP