朝敵
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朝敵(ちょうてき)は、日本において天皇とその朝廷に敵対する勢力を意味する呼称である。
意味
各々の時代において、自己の正当性を主張し、政治的敵対者を非難するために唱えられた語であり「逆賊」などと同義語。多くの場合、唱えた側からの討伐対象とされた。官軍を主張する側が有力な場合には、いかなる経緯があろうとも、この呼称で呼ばれた者は日本の歴史上絶対的な「悪」とされる。特に幕末や明治初期には尊王論が高まり、「朝敵」という名での政敵へのテロが横行した。
親王同士が対立した場合などにも相互に朝敵と呼び合う場合があり、正統性の主張や宣戦布告であるとみなされる。
また、必ずしも官軍が朝敵を打ち破るとは限らず、承久の乱のように逆賊が官軍に勝利したり、南北朝時代のように自称・官軍同士が戦うこともある。
- 歴史上「朝敵」と呼称された勢力
- 平安時代に関東地方において「新皇」を名乗ったとされる平将門
- 鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政から離反した足利尊氏を朝敵とする見方は、太平記や後の皇国史観の影響によって一般的となる。ただし同時代的には、足利政権は北朝を擁しており、後醍醐ら南朝に与する勢力と、互いを朝敵と称しあっている。
- 天正10年(1582年)2月、織田信長は徳川家康とともに甲斐国の武田勝頼を滅ぼすが、信長は勝頼攻めに際して朝廷を動かし、「東夷」「朝敵」妥当の論理を用いており、勝頼を信長の「天下」に敵対する朝敵として指弾した。
- 江戸時代末期(幕末)には八月十八日の政変で失脚した長州藩(禁門の変で京都御所に発砲した事により朝敵となり、江戸幕府による長州征伐を受けて二次にわたる幕長戦争が起こる)
- 鳥羽・伏見の戦いにより15代将軍徳川慶喜(慶喜は朝敵とされると上野寛永寺に謹慎した)
- 戊辰戦争においては旧江戸幕府側勢力(中心的勢力とみなされた会津藩は明治政府軍から集中攻撃を浴び、会津藩を強く支持した米沢藩は、比較的早期に降伏したが、戦後重罪に処された)