上洛
上洛(じょうらく)とは、江戸時代以前の日本において、京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。
由来
上洛の「洛」は「洛陽」を意味する。平安時代、平安京を指して中国の都の名を借りて「洛陽」と呼ぶことがあった。やがてその一字を採って「洛」だけでも平安京を表すことになった。また一説に、左京を洛陽、右京を長安と呼んだ[1]。しかし当時、「長安」である右京は居住に適さない湿地が多かったことなどから平安時代の後半には既に廃れ、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。このため「洛陽」は都と同義になり、その一字「洛」をもって京都を指すようになり「上洛」「入洛」「京洛(けいらく)」「洛中」「洛外」などの言葉が生まれた。上洛・入洛は共に京都に入ること言い、京洛は京の都のことを指した。また洛中は京域内を指し、洛外はその外周地域を指した。なお、狭義では、上洛とは室町時代末期(戦国時代)に、京都にいる足利幕府の将軍を保護することを意味し、結果として全国支配に必要な権威をもたらすことであるとされた。詳細は以下に記す。
戦国時代の上洛
テンプレート:出典の明記 そもそも室町時代においては、多くの守護大名は京都に常駐していた。それら守護大名が守護に任じられた領国と京都を往復する事は頻繁にあり、広義においての上洛は珍しい事でもなかった。
しかしながら16世紀半ばになると、応仁の乱以後100年以上も続く政局不安状態はすでに常態と化していた。少なくない在京守護が、下克上や主君押込によって、守護代や国人領主などの家臣筋からのしあがった戦国大名によって、実質的な支配権を奪われた。支配権を保った守護大名も、そうならないために領国に常駐せざるを得なくなり、いわゆる守護大名の戦国大名化が起きた。そのため戦国大名はほとんどが自国に常駐し、京都に上る事、すなわち上洛はほとんどなされなくなった。京都に常駐した数少ない大名である細川氏や三好氏は、領国が京都とは隣接している。
しかしながら多くの戦国大名は、室町将軍や朝廷から、守護職や官位を受けており、使者を介しての京都との連絡は保っていた。上杉謙信や織田信長のように、さほど多いとはいえない兵、あるいは僅かな供を連れて、広義での上洛を行った例もある。このような状況下において、天皇や室町将軍が在住する京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍を保護する立場になる事は、大きな権威をもたらす事であった。すくなくとも室町将軍は形式的には全国の支配者であり、その保護者となる事は、政治的影響力を高める事となった。しかしながら戦国大名が上洛を企図しても、実際には領国における抗争に妨げられ、成功した者は少ない。
このような状況下で実際に「狭義での上洛」を果たしたと言えるのは、永正(1508年)に足利義稙を擁して上洛した大内義興と、天文(1546年)に足利義晴を擁して上洛した六角定頼と、永禄(1539年)に上洛した三好長慶と、足利義昭を擁して上洛した織田信長の4人だけである。ただし、六角氏の領国は隣国の近江国であり、三好氏の領国は四国にあったものの、畿内にもある程度の支配権を持っていた。
大内義興の上洛の大義名分は、旧秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させることにあった。だが、大内氏の場合、それが完成する前に尼子氏ら反大内勢力の挙兵に阻まれて領国への帰還を余儀なくされた。六角定頼の場合は、領国が京都の隣の近江であるものの大内義興と同様の名目で入京しており、幕政にも口入の形で関与しているところも義興と共通している。だが、定頼の没後の六角氏は浅井氏の反抗など国内問題に追われ、三好長慶の上洛を阻止できずに衰退していく。
それに対し三好長慶の目的は、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配することにあった。しかし、織田信長は、古い権威ではなく武力によって新しい秩序を作ろうと考え、彼の上洛はその足がかりとして行われた。足利義昭を奉じて上洛したことは、既に一時的な旧秩序の回復ではなく、武力による新秩序の形成と全国支配の手段にすぎなかった。
なお、織田信長が上洛によって天下を取る一歩手前までいった事から、全ての戦国大名が上洛を目指したかのような解釈が広がっているが、異論も多い。有名な例では駿河国の今川義元が永禄4年(1560年)に上洛を目指したが、桶狭間の戦いで頓挫したとされる。また甲斐国の武田信玄が元亀年間に大規模な三河・遠江方面への軍事的侵攻である西上作戦を行い、上洛を目指したが、自らの急死によって頓挫したとされる。しかしながらこの2例については、本当に上洛の意図があったかについては異論が多い。
さらには全ての戦国大名が天下を取る事を狙っていた訳ではない。毛利元就が自分の子孫は天下を望むべからずと遺言した事は有名な話である。後北条氏も自らの勢力圏拡大には熱心であったが、天下取りの意図は見えず、初代の早雲は無官であり、京都の情勢への関心は低かった。
また、上洛がすなわち天下取りの必須条件だったかのように言われる事もあるが、これにも異論がある。天下を取る可能性があった戦国大名として名前があがる伊達政宗や九州の島津氏、あるいは最終的に天下を取る事になった徳川家康も、室町将軍を擁して上洛した事は一度も無い。