鈴木健二

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テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Mboxテンプレート:基礎情報 アナウンサー 鈴木 健二(すずき けんじ、1929年1月23日 - )は、日本フリーアナウンサー。元NHKアナウンサー

歴史への招待』や『クイズ面白ゼミナール』などの司会者として高視聴率を叩き出したことで知られる[1]。 著作も多く、『気くばりのすすめ』はベストセラーになった[1]

NHKのエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)になり、1988年にNHKを定年退職した後、熊本県立劇場の館長に就任し、伝承芸能の復元などにつとめ[1]、平成10年には青森県立図書館および青森近代文学館の館長に就任した[1]

兄は映画監督鈴木清順

来歴

本所区出身、生粋の江戸っ子第一東京市立中学旧制弘前高等学校から旧制東北大学へと進学。文学部美学美術史学科を卒業。(その時の同級生に第15代NHK会長・島桂次がいた。)

卒業後は、美術史学科出身であるためか、画家を目指していたが、たまたま友人に誘われて受験したNHK採用試験に合格した。鈴木は「志望者数が一番少ない職種」を希望したが、それがアナウンサーであった。当時はラジオがメインの時代であり、アナウンサーを志望する者が非常に少なかった。また、「アナウンサー」という言葉もそれほど浸透しておらず、鈴木は「アナウンサー」の定義も分からぬまま、1952年入局(同学年の同僚に中西龍がいた)、熊本放送局配属となったが、ここで「アナウンサー」の定義を知ることとなった。鈴木は生粋の江戸っ子で、語り口は「べらんめえ口調」であったため、アナウンサーに向かない発音であることに悩み、やがて辞意を示すようになったが、先輩の言葉がきっかけとなり、翌1953年に放送開始となるテレビの世界で自分の可能性を見い出すことを決意した。

2年後、東京アナウンス室へ異動。4年の勤務ののち大阪放送局(当時大阪中央放送局)に異動した後、1960年に東京アナウンス室へ復帰した。その頃から、主に報道関係の番組で頭角を現し、ドキュメンタリー番組のナレーションを数多く担当し、また黒四ダムからの生中継(1963年)や北海道で観測された皆既日食、また全線開通前の東海道新幹線からの4時間に及ぶ実況生中継(1964年)、アポロ11号月面着陸特別番組「月に立つ宇宙飛行士」(1969年7月20日)の司会進行などの大型中継番組を、独創的なアナウンスでいずれも成功させ、NHKのエースアナウンサーとしての地位を獲得した。さらに、ラジオ番組話の泉』の司会を担当した。

その後、『きょうのニュース』(後の7時のニュース)を担当した後、1966年には、『こんにちは奥さん』の司会に抜擢された。それまでは、報道番組でその実力を発揮していた鈴木であったが、主婦層をターゲットにしたこの番組でも、持ち前の探究心と巧みな話術によって多くの視聴者の心を掴み、当時人気を誇っていたテレビ朝日木島則夫モーニングショー』(奇しくも木島は、鈴木がNHK熊本放送局に配属された際の上司であった)の人気を追い抜いた。

1972年に『こんにちは奥さん』の司会を降板したあとは、教養・バラエティ番組の司会に活躍の場を移し、『70年代われらの世界』などの司会を担当した他、1978年より『歴史への招待』、1981年より『クイズ面白ゼミナール』、1984年より『お元気ですか』の司会者として活躍、人気アナウンサーの地位を不動のものにした。1983年から1985年まで、『NHK紅白歌合戦』で白組司会を担当した(詳細は後述する)。

1984年、理事待遇となり1988年1月23日、通常の定年より2年長い59歳で定年退職。これは当時のNHKの定年は一律で57歳[2]だったが鈴木はNHKの看板とも言える人物で1984年に理事待遇となり定年が2年間延長されていた事による。

NHK退職後は主に執筆活動や講演活動などを行っているほか、伝統芸能の維持・伝承活動に協力している。さらに、NPO法人「円ブリオ基金センター」にて、未婚女性の中絶を減らすための募金活動を行っている。熊本県立劇場館長(1988年 - 1998年)、青森県文化アドバイザー・青森県立図書館長(1998年 - 2004年)も務めた。

1990年代に入ってからはテレビ番組への出演はほとんどないが、日本テレビ世界一受けたい授業』にゲスト講師として数回出演のほか、NHK-BS2お宝TVデラックス』で『クイズ面白ゼミナール』が取り上げられた際にはゲスト出演して番組再現で久方ぶりに主任教授を務めた。テレビ放送開始60周年の節目となる2012年から2013年にかけては『NHKアーカイブス』(2012年12月31日放送)や『テレビのチカラ「あの人が選ぶ“忘れられない名番組”」』(2013年2月1日)にも出演した。

現在は横浜市南区在住。

司会番組と執筆活動

司会番組

執筆活動

テンプレート:See 執筆活動も行い、多数の著書が出版された。中でも1982年に刊行された『気くばりのすすめ』(講談社)は単行本332万部、文庫本を含むと400万部以上の大ベストセラーとなった。

  • ビッグマン愚行録 (既出、初出合わせたもの。昭和57年新潮文庫より刊行)

エピソード

青年時代

「戦争で死ぬ前にせめて静かに読書して過ごしたい」と旧制弘前高等学校に進学し、終戦を迎える[3]。寮長として学生の食糧確保に尽力した。また、禁止されていた学生演劇を復活させたり、女人禁制だった寮に女子学生を呼んだりした。こうしたエピソードを石坂洋次郎に話したところ、それが『青い山脈』の中に取り入れられたといわれる[3]。また、生前の太宰治とも面識があった[3]

ニュースキャスター

1964年頃、『NHKきょうのニュース』の司会を担当していた。当時の報道番組はフィルム映像とナレーションだけの「ストレイトニュース」で、司会者が顔出しすることがほぼない時代、近代のニュースショーの原点とも言える司会者の顔出しやゲストの記者・評論家・関係者のインタビューなどを交えて展開するスタイルが採用。

鈴木はカメラに向かって斜めに構えて、単にデスクから渡された原稿を読むだけでなく、時折話し言葉を交えたアドリブを含めたニュース解説を入れるなど、今日のニュースキャスターの語り方の原型を作ったが、船の沈没事故があった時に鈴木は原稿を紛失するハプニングを起こす。しかし、本番前のリハーサルで下読みとその映像フィルムを見ながら、アドリブでその沈没事故について、詳細な発生時間や遭難人数を正確に伝えるなどをした。

気くばりのすすめ

気くばりのすすめ』がベストセラーになった際、フジテレビがこれを扱った特番を制作した。この番組には鈴木も出演したが、当時は現役NHKアナウンサーが堂々と民放の番組に出られる程自由では無く、出演場面は全てビデオ撮影で、背中越しなど鈴木の全体像が明確には見えないアングルでの登場となった[4]
それでも出演が実現したのは、この番組の司会がNHK時代の先輩であるフリーアナウンサーの小川宏であり、その口添えがあったからである。

紅白歌合戦

1983年 - 1985年に『NHK紅白歌合戦』で白組司会を務める。ただ鈴木はこれまで音楽番組と縁がなく、紅白も視聴したことがなかった(ただし、1980年に応援ゲストとして出演歴はあり)。さらに歌手も歌も知らず、カラオケで歌ったこともないという[5]1974年 - 1982年まで9年連続で白組司会を務めた後輩の山川静夫に替わっての抜擢であった。

予定を正確に把握し、ほとんどの台詞を台本なしで行い、歌手毎によって衣装を替えるという、それまでの歴代白組司会とは一線を画す司会ぶりは話題となった。しかしこのスタイルに対してはアナウンサーとしては行き過ぎであるとの批判も少なからずあった。1983年は紅組司会の黒柳徹子に対しては目の敵のような存在であった。オープニングでは「アラレちゃん」や番組中に変装を何回もすることから「怪人十二面相」などとそして、番組終了間近には「来年はあの紅組が勝たせて頂きますが、今年は白組が勝ったので本当に大きな気配りでした(『気くばりのすすめ』の著者の)。」などと皮肉を言い合う程の不仲の演出であった。

1984年には、紅組司会の森光子に対しては互いに衣装や司会ぶりをお世辞ととれる程に称賛し合った。ちなみに、この両軍司会は過去最高齢である。都はるみに対しアンコールを希望する際に、「私に1分間時間をください」と発言する(詳細は『第35回NHK紅白歌合戦』の項を参照)。その翌1985年は白組初出場のC-C-B笠浩二のヘアスタイルを真似ることで視聴者から顰蹙を買い、これを最後に白組司会を退くこととなった(この他にも、制作現場に対しても容赦ない介入を行い、スタッフからの反発を招いたことや、視聴率が大幅にダウン<1985年は1984年から13%も下回る66.0%であった>したことも3年で交代となった理由とされている)。奇しくも1986年大晦日は自身の母親の葬儀の日となった[6]

怒りのメッセージ事件

1989年4月にNHK退職後として初のレギュラー番組『鈴木健二の人間テレビ』(ytv)で教授役として司会を務めたが、半年で終了した。職人気質で現場を戦いの場と言う鈴木本人は、そのことに対して不信感を募らせ、最終回収録には参加せず(最終回は総集編)、制作局のytvのスタッフに怒りのメッセージを送ったと言うエピソードがある。

「目線」の造語

目線」は、世間に定着している言葉であるが、元々は鈴木が造語したものとされる。鈴木は、何故人はテレビカメラの前に立った時に、緊張しているように見えてしまうのかということについて、研究を行った。研究の結果、カメラの一点を見るために目が固定してしまうから、緊張しているように見えてしまうというものであった。この際に「目線」という言葉が生み出され、それまで主流であった「視線」の言い換えとして、世間に幅広く浸透することになった。

驚異の記憶力

台本は決してスタジオには持ち込まず、全て丸暗記した。また、スタジオの入口で渡された台本は、3回目を通すだけで丸暗記できるという逸話も残されている。ただし、台詞については、台本に書かれている記述以外に、自分で取材した資料の検討を行い、推敲を重ねた上で、自分の言葉に置き換えて放送に臨んでいた。こうした姿勢は、「台本を見ながらそのまま放送する番組程、視聴者にとってつまらないものは無く、アナウンサーとしてもプロとは言えない。また、他人の書いた台本に書かれたことは、例え完璧に調査したものであっても50%の事実でしかなく、それに自分で調べた事実を加えることで100%以上の事実にして、初めて自分の言葉で話す事が出来る。ましてや、何が起きるか分からない中継放送では、台本自体不要である」と言う持論によって導き出されたものであった。こうした芸当は「職人芸」と呼ばれ、「最後の職人アナウンサー」と言われた。

この取材のため、番組内容に関する資料は自費で購入していた。その費用は1か月あたり6万円以上であったという。また、東京アナウンス室の机の上には約800冊の資料が積まれており、「サワルナ!崩れます。積み上げるためには高等技術が必要です。」と赤インクで書かれた張り紙がしてあった。このように、自分で一生懸命に資料を読み、興味・関心を持って資料の内容を理解しようとする姿勢が、驚異の記憶力に結び付いているという(出典:グラフNHK 1981年12月号「特集・クイズ面白ゼミナール」)。

その他

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脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:NHK紅白歌合戦 白組司会
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木 健二」
  2. 現在は一般職は60歳、役員職は現在と同じ57歳である。ただしその後も嘱託職員扱い(最大65歳まで)、ないしは定年・嘱託終了後も日本語センターへの移籍という形で継続して勤務するアナウンサーもいる
  3. 3.0 3.1 3.2 想い出の東北大学、そしていま、みちのく - 2002年の鈴木の講演録
  4. なお、番組の最後に写真で顔出ししているが、それでも異例の出来事である。
  5. 『紅白50回』、85頁。
  6. 『紅白50回』、87頁。