尼子十勇士
尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)とは、戦国大名尼子氏滅亡後、尼子氏の復興に勤めたとされる10人の勇士である。この10人は、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した勇力の優れた人物という[1][2]。山中鹿之助(山中幸盛)を筆頭とするが、その構成員は幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。また、名前の最後に皆「介(助)」が付くことから「尼子十勇十介」ともいう。
十勇士の成立
尼子十勇士は、明治時代に立川文庫から発刊された『武士道精華 山中鹿之助』によって有名になったが、立川文庫の創作ではない。それ以前から、その存在は知られていた。 しかしながら、幸盛が活躍していた当時の史料には「尼子十勇士」の名称は見られない。
十勇士の存在がいつ頃から信じられえていたか定かでないが、史料に初めて出てくるのは、延宝5年(1677年)に発行された『後太平記[3]』である。ただし、十勇士と明記されている人物は、五月早苗介(助)[注 1]、寺元生死助[注 2]、横道兵庫介[注 3]、山中鹿之助幸盛[注 4]の4人だけであり、その他の人物が十勇士であったかどうかは判断できない。
十勇士すべての名が史料に出てくるのは、享保2年(1717年)に刊行された『和漢音釈 書言字考節用集[4]』である。この書は、日常語の用字、語釈、語源などを示した、いわゆる国語辞典のようなものである。そのため、この時代に「尼子十勇士」という名称が一般的に通用するものであったことが分かる。正徳3年(1713年)10月、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、幸盛の死を哀れみ建立した墓碑[注 5]にも「尼子十勇」の文字が刻まれている。明和4年(1767年)に湯浅常山が発行した戦国武将の逸話集、『常山紀談 [5]』にも10名の勇士の名が連ねてある。
しかし、これら史料は、幸盛以外の人物の記載は乏しく、十勇士の面々がどういった性格で、どんな活躍をしたか等を知ることができなかった。十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙[6]』である。
この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画[7][8]や歌舞伎の上演[9]、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納される[10]など、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。
明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝[11]』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助[12]』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。昭和26年(1951年)には『大百科事典』にも掲載された[13]。現在は、『広辞苑[14]』にもその項目がある。
構成員
尼子十勇士の構成員は、山中幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。
年 | 史料 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
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延宝5年(1677年) | 後太平記[3] | 山中 鹿之助 幸盛[注 4] | 五月 早苗介(助)[注 1] | 秋宅 庵助[注 6] | 尤 道理助[注 6][注 7] | 寺本 生死助[注 2] | 薮中 荊助[注 7] | 植田 稲葉助[注 7] | 今川 鮎助[注 7] | 横道 兵庫介[注 3] | 柴橋 大力介[注 8] | 大谷 古猪介[注 8] | 穴内 狐狸介[注 8] |
享保2年(1717年) | 書言字考[4] | 山中 鹿助 | 秋宅 庵助 | 寺本 生死助 | 尤 道理助 | 今川 鮎助 | 薮中 荊助 | 横道 兵庫助 | 小倉 鼠助 | 深田 泥助 | 植田 草苗助 | ||
明和4年(1767年) | 常山紀談 [5] | 山中 鹿之介 | 藪原 茨之介 | 五月 早苗之介 | 上田 稲葉之介 | 尤 道理之介 | 早川 鮎之介 | 川岸 柳之介 | 井筒 女之介 | 阿波 鳴戸之介 | 破骨 障子之介 | ||
文化8年(1811年) | 絵本更科草紙[6] | 山中 鹿之助[注 9] | 大谷 古猪之助[注 10] | 早川 鮎之助[注 11] | 横道 兵庫之助[注 12] | 寺本 生死之助[注 13] | 五月 早苗之助[注 14] | 高橋 渡之助[注 15] | 秋宅 庵之助[注 16] | 薮中 茨之助[注 17] | 荒波 碇之助[注 18] | ||
天保9年(1838年) | 清水寺の絵馬 [10] | 山中 鹿之助 | 秋上 伊織之助 | 横道 兵庫之助 | 寺本 生死之助 | 植田 早苗之助 | 今川 鮎之助 | 小倉 鼠之助 | 尤 道理之助 | 薮中 荊之助 | 深田 泥之助 | ||
江戸時代(19世紀) | 歌川芳虎の浮世絵 [7] | 山中 鹿之助[注 19] | 大谷 古猪之助[注 20] | 早川 鮎之助[注 21] | 横道 兵庫之助[注 22] | 五月 早稲之介[注 23] | 高橋 渡之助[注 24] | 秋宅 庵之助[注 25] | 寺本 生死之助[注 26] | 薮中 茨之助[注 27] | 荒波 錠之助[注 28] | ||
江戸時代(19世紀) | 豊原国周の浮世絵 [8] | 山中 鹿之助 | 大谷 古猪之助 | 早川 鮎之助 | 横道 兵庫之助 | 皐月 早苗之介 | 高橋 亘之助 | 秋宅 庵之助 | 寺本 生死之助 | 薮中 茨之助 | 荒波 碇之助 | ||
文久3年(1863年) | 城安寺の絵画[15] | 山中 鹿之助 幸盛 | 秋上 伊織之助 | 横道 兵庫之助 | 寺本 生死之助 | 植田 早苗之助 | 今川 鮎之助 | 小倉 鼠之助 | 尤 道理之助 | 薮中 荊之助 | 深田 泥之助 | ||
明治16年(1883年) | 尼子十勇士伝[11] | 山中 鹿之助[注 9] | 大谷 古猪之助[注 10] | 早川 鮎之助[注 11] | 横道 兵庫之助[注 12] | 寺本 生死之助[注 13] | 五(皐)月 早苗之助[注 14] | 高橋 渡之助[注 15] | 秋宅 庵之助[注 16] | 薮中 茨之助[注 17] | 荒波 碇(錠)之助[注 18] | ||
明治44年(1911年) | 立川文庫 [12] | 山中 鹿之助 幸盛[注 29] | 大谷 古猪之助 幸虎[注 30] | 早川 鮎之助 幸高[注 31] | 横道 兵庫之助 幸晴[注 32] | 寺本 生死之助[注 33] | 皐月 早苗之助[注 34] | 高橋 渡之助[注 35] | 秋宅 庵之助[注 35] | 薮中 茨之助[注 35] | 荒波 碇之助[注 36] | ||
昭和8年(1933年) | 読史備要[16] | 山中 鹿介 | 秋宅 庵介 | 横道 兵庫介 | 早川 鮎介 | 尤 道理介 | 寺本 生死介 | 植田 早苗介 | 深田 泥介 | 薮中 荊介 | 小倉 鼠介 | ||
昭和60年(1985年)? | 広瀬少年剣士会[17] | 山中 鹿介 | 秋上 庵介 | 横道 兵庫介 | 寺本 生死介 | 植田 早苗介 | 小倉 鼠介 | 早川 鮎介 | 薮中 荊介 | 深田 泥介 | 大谷 古猪介 | ||
平成10年(1998年) | 広辞苑 [14] | 山中 鹿介 | 秋宅 庵之介 | 横道 兵庫之介 | 早川 鮎之介 | 尤 道理之介 | 寺本 生死之介 | 植田 早稲之介 | 深田 泥之介 | 薮中 荊之介 | 小倉 鼠之介 |
人物の信憑性
構成員の名前はすべて駄洒落じみたものとなっており、その実在性が疑問視されていた。しかし、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物もいる。また、十勇士が活躍していた当時の資料にその名が確認でき、存在の可能性を否定できない人物もいる。
実在する人物
次の3名は、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物である。
- 山中幸盛[18](山中鹿之助、山中鹿助、山中鹿之介、山中鹿介)
- 秋上宗信[19](秋宅庵助、秋上伊織之助、秋宅庵之助、秋宅庵介、秋上庵介、秋宅庵之介)
- 横道秀綱[20](横道兵庫介、横道兵庫助、横道兵庫之助、横道兵庫之介)
実在の可能性がある人物
現存する当時の書状等では存在が確認できないが、軍記史料や江戸時代初期の書状等にその名が記載され、実在の可能性がある人物もいる。
- 五月早苗介(五月早苗之助、植田稲葉助、植田早苗助、上田稲葉之介、植田早苗之助、五月早稲之介、皐月早苗之介、皐月早苗之助、植田早苗介、植田早稲之介、植田早稲之介)
- 元亀元年6月8日、吉川元春から掘立壱岐守宛への書状に、「上田早苗助」が同年6月3日に佐陀勝間城を攻撃して討ち死にしたと記載される[21]。
- 尼子氏の家臣の知行高を記した文書、『尼子家分限牒(あまごけぶんげんちょう)』に「五月早苗之介」の名前がある[22]。備中国の内、8,013石を所領した。
- 『雲陽軍実記』に「五月早苗介」の名が記載されている[23]。
- 藪中荊助(薮原茨之介、藪中茨之助、藪中荊之助、藪中荊介、藪中荊之介)
- 寺本生死助(寺本生死之助、寺本生死介、寺本生死之介)
- 井筒女之介
脚注
出典
参考文献
- 槇島昭武『和漢音釈 書言字考節用集 第十巻 数量、性氏』(1717年)
- 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第六巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
- 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第七巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
- 湯浅常山 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一~七』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2010年) ISBN 978-4-585-05441-2
- 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 初編 巻一之~五』(群玉堂河内屋 1811年)
- 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 後編 巻一之~五』(群玉堂河内屋 1812年)
- 栗杖亭鬼卵 著・一峰斎馬円 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 三編 巻一之~五』(河内屋茂兵衛 1821年)
- 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 上巻』(春陽堂 1883年)
- 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 中巻』(春陽堂 1883年)
- 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 下巻』(春陽堂 1883年)
- 雪花散人『武士道精華 山中鹿之助』(立川文明堂 1911年)
- 東京帝国大学史料編纂所 編著『読史備用』(内外書籍 1933年)
- 新村出 編『広辞苑-第五版』(岩波書店 1998年)
- 妹尾豊三郎『尼子盛衰人物記』(広瀬町観光協会 1985年)
- 島根県立古代出雲歴史博物館『戦国大名 尼子氏の興亡-平成二十四年度企画展』(島根県立古代出雲歴史博物館 2012年)
- 香川景継『陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
- 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
- 小瀬甫庵『太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
- 岡谷繁実『名将言行録(一)〔全8冊〕』(岩波書店 1943年) ISBN 4-00-331731-9
- 広瀬町教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』(広瀬町教育委員会 2003年)
- 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(下巻)』(広瀬町教育委員会 2003年)
- 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社 1989年) ISBN 4-404-01648-4
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