ホテルニュージャパン火災
テンプレート:Infobox wildfire ホテルニュージャパン火災(ホテルニュージャパンかさい)は、1982年(昭和57年)2月8日に、東京都千代田区永田町のホテルニュージャパンで起こった火災事故。33人の死者を出した。
概要
火災は、1982年(昭和57年)2月8日の午前3時24分に発生。主に火元の9階と10階が中心に同日12時半過ぎまで9時間にわたって燃え続けた。炎は7階にまで達しており、延焼面積は約4,200平方メートルに達した。ホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12、日本人11、韓国人8、アメリカ人1、イギリス人1[1])・負傷者34名を出す大惨事となった。東京消防庁の調べでは、出火の原因は9階938号室に宿泊していたイギリス人の男性宿泊客[2]の寝タバコが原因であった。廊下での焼死など火災による死者が多かったが、有害ガスを含んだ煙から逃れるために窓から飛び降りて命を落とした人も13人いた。なお、9階と10階の生存者の中には火災で非常口から避難ができず、シーツをロープ替わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。
この火災では日本時間午前3時24分出火[3]、12時36分の鎮火まで、およそ9時間に渡って都心を真っ赤に染めるように燃え続けた。 この日の宿泊客は442人。うち9階と10階に宿泊していたのは103人で、この多くは台湾や韓国からの札幌雪祭りツアー(61人)の宿泊者だった。
延焼範囲が広がった原因
- ホテルニュージャパン側が、度重なる消防当局の指導にもかかわらず、スプリンクラー設備などの消防設備を一切設置しなかったこと
- 火災報知機も故障したままの放置状態だったこと
- ホテル館内放送設備も故障のまま、また使用方法の誤り(非常放送用のテープを回そうとしたがベルトが切れて回らず、マイクもヒューズが切れていて放送できなかった)[4]
- 宿直ホテル従業員の少なさ、ホテル従業員の教育不足による初動対応の不備(最初に現場に到着した社員はマスターキーを持っていなかった。屋内消火栓の使用を試みたが、開閉バルブを解放していなかったため使えなかった等)
- 客室内の防火環境不備(可燃材による内装、間仕切りの一部が木製だった、など)
- 防火扉が多数閉鎖しなかった。
といった、安全性を軽視した杜撰な経営と、複合的要素による火災との調査が発表された。またスプリンクラー設備の配管が何処にも設置しておらず、天井に散水孔の部材を接着していただけの偽装であったこと、客室壁内部の空洞施工が原因でフラッシュオーバーと呼ばれる現象が発生したことも被害が拡大した原因であった。
消防の対応
東京消防庁では、第一報となる3時39分のタクシー運転手からの119番通報を受け、消防車など21台、救急車1台を出場させたが、「上階が激しく延焼し、要救助者が多数発生している」という現場からの報告を受けて矢継ぎ早に部隊を増強、午前4時2分には最高ランクの出場態勢である「火災第4出場」を発令、さらに基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」と、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」をあわせて、ポンプ車48台、はしご車12台を始めとする123隊(101個消防隊、22個救急隊)を投入、消防総監が「警防本部指揮隊車」(東京消防庁にだけある、指揮車の中で最も大きく重装備の車種)を使って現場最高指揮を執るという、全庁を挙げての消火活動を行った[5]。
また、この火災が起きた翌朝に日本航空350便墜落事故が発生し、相次ぐ惨事に東京消防庁やマスコミは対応に追われた。
火災後の顛末
これらホテルニュージャパン火災における数々の違法運営により、オーナーの横井英樹社長は業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決が確定(1993年11月25日最高裁)した[6]。横井社長は火災発生現場で報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」などと現場の状況を全く鑑みない、緊張感のない発言をしたことに加え、「悪いのは火元となった宿泊客」と責任を転嫁するコメントを発言した。また火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したとされる[7]。このような対応が国民からの厳しい非難を呼んだ[8]。後に、現場に突入した当時東京消防庁永田町特別救助隊隊長であった高野甲子雄に“口止め料”として贈賄を図り、これに激怒した高野に追い返されたことも明らかになっている。(高野はこの時外国人客の救助作業中炎に飲まれ喉元に大やけどを負う負傷をしていた。)
その他
- 犠牲者の中にはフォークバンドの高石ともや&ザ・ナターシャー・セブンのマネージャー・プロデューサーであった榊原詩朗がいる。ザ・ナターシャー・セブンは1984年に主要メンバーが脱退し翌1985年に活動を停止した。
- 日本中央競馬会所属の調教師だった西塚十勝は東京滞在時の定宿にしており、火災当日は火災現場となった9階にチェックインしていたが、チェックイン後に飲食のためなどに外出し、そのまま深夜まで戻らなかったため、難を逃れた。
- ビートたけしは火災当日にホテルニュージャパンに宿泊しようとしたがたまたま持ち合わせがなく、やむを得ず新宿に在住していた高田文夫に借金し、新宿プリンスホテルに宿泊したため難を逃れた[9]。
- 23年後の2005年(平成17年)3月に品川同性愛者殺害事件を起こした犯人は、当日大学受験での宿泊中に火災に遭遇し、受験票と筆記用具を部屋に置いたまま避難している。
脚注
関連項目
- ホテルニュージャパン
- 池之坊満月城火災(ホテルニュージャパン同様に消防より防火設備の不備を指摘されながら、改善しなかった)
- 大型スーパー・イクア・ボラーニョス大火災
外部リンク
- テンプレート:PDFlink - 消防防災博物館による。
- テンプレート:PDFlink - 火災の概要、火災後建物内の写真など。
- ホテル・ニュージャパン火災 - ざ@永田町。出火時の写真など。