川内 (軽巡洋艦)
川内 | |
艦歴 | |
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発注 | 1920年計画 |
起工 | 1922年2月16日三菱造船長崎造船所 |
進水 | 1923年10月30日 |
就役 | 1924年4月29日 |
その後 | 1943年11月2日戦没 |
除籍 | 1944年1月5日 |
性能諸元 (竣工時) | |
排水量 | 基準:5,195トン 常備:5,595トン |
全長 | 162.15m |
全幅 | 14.2m |
吃水 | 4.8m (常備) |
機関: | パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸 90,000馬力 |
最大速 | 35.3ノット |
乗員 | 440名 |
兵装 | 50口径14cm単装砲7門 61cm連装魚雷発射管4基8門 40口径8cm単装高角砲2門 九三式機雷56個 |
装甲 | 水線64mm、甲板29mm |
搭載機 | 1機 |
川内 (せんだい)は、14隻建造された日本海軍の5500トン型軽巡洋艦の最終型(3番目)である川内型軽巡洋艦の1番艦。艦名は2等巡洋艦の命名慣例に従って、九州南部を流れる川内川(せんだいがわ)にちなんで名づけられた。
目次
艦歴
初期
1922年2月16日、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて起工。1923年10月30日進水。1924年4月29日竣工。
就役してすぐ、揚子江での哨戒任務に就いた。1937年に発生した第二次上海事変では巡洋艦「出雲」と共に中華民国軍を撃退するなど重要な役割を果たした。その後、日中戦争における中国南部への日本軍の輸送を掩護した。
南方作戦
1941年11月20日、川内は第3水雷戦隊(司令官:橋本信太郎少将)の旗艦となった。
同年12月の真珠湾攻撃の際は、イギリス領マラヤに侵攻する陸軍第25軍(司令官:山下奉文中将)の輸送を護衛した。
12月7日23:45、川内と3水戦所属の第19駆逐隊((綾波・磯波・敷波・浦波)はマレーシア・コタバルへの砲撃を開始した。オーストラリア空軍ハドソン爆撃機7機の攻撃を受け、輸送船1隻が沈没、2隻が損傷した。
テンプレート:Main 12月9日、潜水艦伊65が、イギリス海軍テンプレート:仮リンク(戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスおよび駆逐艦)を発見したと報告した。その電文は川内を経由して、南遣艦隊旗艦鳥海に座乗する司令長官小沢治三郎中将に届けられた。しかし、受信状態が悪く解読するのに90分もかかり、しかも、その報告はZ艦隊の向きを誤っていた。翌10日、Z艦隊は日本の第22航空戦隊の九六式陸上攻撃機・一式陸上攻撃機の攻撃を受け、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスが沈没した。
12月19日、コタバル北北東10海里の南シナ海で、輸送護衛中の川内が潜航中のオランダ海軍の潜水艦O20に発見された。11:15、川内の九四式水上偵察機がO20を爆撃し[1]、綾波・夕霧が爆雷を投下した。その夜、O20が充電のために海面に浮上した際、機関の排煙で位置を見つけられ、浦波により沈められた。
1941年12月末と1942年1月に、さらに3回のマレーへの輸送の護衛を行った。4度目の輸送護衛の際、1月10日に米潜水艦シードラゴンが輸送船団を発見し、2発の魚雷を発射したが、全て外れた。
テンプレート:Main 5度目の輸送護衛の際、1月26日に川内の輸送船団はシンガポールの北80海里の地点で英駆逐艦サネットとヴァンパイアの攻撃を受けた。英海軍の放った魚雷は全て外れた。暗夜の中、川内が14cm砲で、天霧、初雪、白雪が12.7cm連装砲で応戦し、サネットが沈没した。
2月から3月にかけて、スマトラ島への日本軍の上陸の掩護と、イギリス軍・オランダ軍の艦船がシンガポールから逃げ込んだシーレーン及びマラッカ海峡での掃討を行った。3月末、陸軍第18師団をアンダマン諸島ポートブレアへ輸送した。4月末、補修のため佐世保へ帰投した。
ミッドウェー海戦
1942年5月29日、ミッドウェー攻略に当たり、川内の所属する第3水雷戦隊は連合艦隊に編入された。連合艦隊は南雲忠一中将率いる第一航空艦隊の後方600海里の位置に留まり、米軍に対し何の行動も行わなかった。1942年6月14日、何の戦闘もしないまま、川内は呉に帰投した。
ソロモン諸島での活動
1942年7月15日、第3水雷戦隊は南西方面艦隊へ配属され、7月31日にビルマ・テンプレート:仮リンクに到着した。しかし、米軍がガダルカナル島へ上陸したため、インド洋での作戦は中止され、マカッサル・ダバオ・トラック諸島を経由してニューブリテン島ラバウル・ブーゲンビル島ショートランドへの部隊の輸送を護衛した。9月8日、ツラギ島を砲撃した。9月12日、川内と駆逐艦敷波・吹雪・涼風はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を爆撃した。川内は1942年11月までソロモン諸島で活動を行い、第三次ソロモン海戦にも参加した。11月13日の第1夜戦は後方掩護に留まった。11月15日の第2夜戦では、戦艦ワシントンの主砲による砲撃を受けたが、命中しなかった。
1943年2月25日、ラバウルで第8艦隊(司令官:三川軍一中将)に配属され、4月までラバウル沿岸の哨戒を行った。5月に佐世保に帰投し、修理と改装を受けた。5番砲塔(14cm単装砲)は撤去され、3連装25mm高角機銃2基と21型電探が装備された。改装は6月25日に終わり、7月5日にトラック諸島に戻った。7月7日、伊集院松治少将が三水戦司令官に就任した。3月から5月まで、ブインやショートランドへの増員の輸送の掩護を行った。
コロンバンガラ島沖で、7月18日に米海兵隊のTBFアヴェンジャー雷撃機の、7月20日にB-25爆撃機の攻撃を受けたが、損傷を受けなかった。
テンプレート:Main 11月1日、ブーゲンビル島上陸のためタロキナへ向かう米軍の輸送船団を撃破するため、日本軍艦隊はラバウルを出航した。途中、川内がB-24爆撃機の夜間爆撃を受けたが、損傷を受けなかった。日付が変わって11月2日0時51分、敵艦隊から距離6900mの地点で駆逐艦時雨が回頭して8発の魚雷を発射した。川内も回頭したが、時雨と急接近した。川内は時雨との衝突を間一髪避けたが、敵艦隊からの集中砲火を浴びて航行不能となった。撃沈された初風を除いて、日本の艦隊はラバウルへ撤退した。戦場に取り残された川内は、午前5時30分、テンプレート:Coordの地点で右に傾斜して沈没した。荘司喜一郎艦長は、乗員を退避させたのち艦に留まり戦死した。
11月3日午後、伊集院司令官ほか三水戦要員と川内乗員併せて75人は潜水艦呂104に救助された。他に川内乗員47名と三水戦要員4名がセント・ジョージ岬に自力でたどり着き生還した。
川内は1944年1月5日に除籍された。
歴代艦長
艤装員長
- 亥角喜蔵 大佐:1923年12月1日 -
艦長
- 亥角喜蔵 大佐:1924年4月29日 -
- 伊地知清弘 大佐:1924年12月1日 -
- 中原市介 大佐:1925年7月2日 -
- 今川真金 大佐:1925年11月20日 -
- 相良達夫 大佐:1926年11月1日 -
- 伴次郎 大佐:1927年12月21日 -
- 間崎霞 大佐:1928年3月15日 -
- 和田専三 大佐:1928年12月10日 -
- 野原伸治 大佐:1929年5月1日 -
- 三木太市 大佐:1929年11月30日 -
- 岸本鹿子治 大佐:1930年12月1日 -
- 後藤輝道 大佐:1931年9月14日 -
- 高崎武雄 大佐:1932年12月1日 -
- 鈴木田幸造 大佐:1933年11月15日 -
- 吉田庸光 大佐:1934年7月4日 -
- 中村一夫 大佐:1934年11月1日 -
- 中島寅彦 大佐:1935年11月15日 -
- 山本正夫 大佐:1936年12月1日 -
- 木村進 大佐:1937年12月1日 -
- 伊崎俊二 大佐:1938年12月15日 -
- 久宗米次郎 大佐:1939年11月15日 -
- 島崎利雄 大佐:1941年7月25日 -
- 森下信衛 大佐:1942年4月25日 -
- 荘司喜一郎 大佐:1943年5月20日 - 11月2日戦死
同型艦
脚注
参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』
関連項目
外部リンク
- ↑ 木俣滋郎、『潜水艦攻撃』、光人社、2000年、ISBN 4-7698-2289-8、22ページ