1982 FIFAワールドカップ

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テンプレート:国際サッカー大会情報ボックス 1982 FIFAワールドカップテンプレート:Lang-en-short)は、1982年6月13日から1982年7月11日にかけて、スペインで開催された第12回目のFIFAワールドカップである。芸術の国にふさわしく、大会ポスターはパブロ・ピカソと並ぶ巨匠・ジョアン・ミロが作成し、開会式はミロの絵をピッチに人文字で描くというものであった。

予選大会

テンプレート:Main

出場国

出場選手は1982 FIFAワールドカップ参加チームを参照。

大陸連盟 出場
枠数
予選大会
予選順位
出場国・地域 出場回数 備考
UEFA 1+13 開催国 テンプレート:ESPf 2大会連続6回目
欧州予選 1組 1位 テンプレート:FRGf 8大会連続10回目[1]
2位 テンプレート:AUTf 2大会連続5回目
2組 1位 テンプレート:BELf 3大会ぶり6回目
2位 テンプレート:FRAf 2大会連続8回目
3組 1位 テンプレート:URSf 3大会ぶり5回目
2位 テンプレート:TCHf 3大会ぶり7回目
4組 1位 テンプレート:HUN1957f 2大会連続8回目
2位 テンプレート:ENGf 3大会ぶり7回目
5組 1位 テンプレート:YUGf 2大会ぶり7回目
2位 テンプレート:ITAf 6大会連続10回目
6組 1位 テンプレート:SCOf 3大会連続5回目
2位 テンプレート:NIRf 6大会ぶり2回目
7組 1位 テンプレート:POLf 3大会連続4回目
CONMEBOL 1+3 前回優勝国 テンプレート:ARG1812f 3大会連続8回目
南米予選 1組 1位 テンプレート:BRA1968f 12大会連続12回目
2組 1位 テンプレート:PERf 2大会連続4回目
3組 1位 テンプレート:CHIf 2大会ぶり6回目
CONCACAF 2 最終予選 1位 テンプレート:HONf 初出場
2位 テンプレート:SLVf 3大会ぶり2回目
CAF 2 最終予選 1組 1位 テンプレート:ALGf 初出場
2組 1位 テンプレート:CMRf 初出場
AFC/OFC 2 最終予選 1位 テンプレート:KUWf 初出場
2位 テンプレート:NZLf 初出場

本大会

概要

大会の方式は1978年大会までのものから2次リーグ制について細かな変更が施された。参加国数は24チームに増加し、1次リーグは4チームずつ6グループに分けられた。各グループの1位と2位が2次リーグに進出し、3チームずつ4グループに分けられた。各グループの1位チームが決勝トーナメントに進出した。この方式が用いられたのは、この大会のみであった。イタリアが決勝で西ドイツを3対1で破り、3回目の優勝を遂げる。この優勝でイタリアはブラジルと優勝回数で並んだ。得点王はイタリアのパオロ・ロッシであり、6得点を決めた。大会のMVPに贈られるアディダスゴールデンボール賞にもロッシが選ばれた。

前回優勝国のアルゼンチンは開幕戦となったベルギー戦を0対1で落としたが、その後はディエゴ・マラドーナらの活躍もあって連勝し2次リーグへの進出を決めた。しかし、2次リーグではイタリア、ブラジルが同居する激戦区のグループCに組み込まれ、2連敗を喫して姿を消した。マラドーナはブラジル戦で執拗なマークに苛立ったあまり、相手選手の腹を蹴る反則行為で一発退場となった。また前回得点王のマリオ・ケンペスは冴えないプレーに終始した。

この大会の序盤は1次リーグ・グループ6に入ったテレ・サンタナ率いるブラジル代表が話題をさらった。第2戦以降ジーコファルカンソクラテストニーニョ・セレーゾという、当時世界トップレベルのミッドフィルダーを4人揃えた布陣で挑み、その卓越したパスワークとコンビネーションから「黄金の中盤」と賞賛され優勝候補の筆頭と目された。しかし、2次リーグ最終戦のイタリア戦ではイタリア得意のカウンター攻撃の餌食となり、ロッシのハットトリックで2対3とよもやの敗戦、決勝トーナメント進出目前で姿を消す事になった。

イングランドは3大会ぶりの出場となった。1次リーグ・グループ4ではブライアン・ロブソンやトレバー・フランシスといった若手選手の活躍もあって全勝。2次リーグでも2試合を無失点に抑えながら、無得点に終わったため勝利を得ることが出来ず、西ドイツの後塵を拝して無敗のまま準決勝進出を逃した。エースのケビン・キーガンを緒戦の負傷で欠いた事が最後まで響く形となった。

1次リーグ・グループ2の西ドイツ対オーストリア戦では八百長ぎりぎりの談合試合が行われ、物議を醸すこととなった。アルジェリアに第1戦で負けている西ドイツは欧州予選同組で2勝しているオーストリアに勝利することが突破への必要十分条件であったが、西ドイツの勝利が2点差以内ならば両チーム揃って得失点差でアルジェリアを上回り、次のラウンドに進めることが分かっていた。アルジェリアは既に前日で最後の試合を終えており、次のラウンドの進出に影響を与えることは出来なかった。西ドイツは試合開始早々に1点を決め、その後両チームはロングボールの応酬を行い、結果的に得失点差でアルジェリアが脱落することになった。前回大会の2次リーグ・グループB最終戦アルゼンチン対ペルーで起こった八百長疑惑に加え今回の件が重なったことでFIFAは危機感を強め、以後のワールドカップではグループリーグ突破の可能性の有無にかかわらず、同一組の最終戦は同時刻・別会場で開催されることになった。

1次リーグ・グループ3ではハンガリーエルサルバドルに10対1という大差で圧勝した。この試合でハンガリーが挙げた10得点は、「チーム1試合最多得点」として2010年現在でも破られていない。だが、ハンガリーはアルゼンチンに完敗を喫した上にベルギーに土壇場で同点に追いつかれドローに終わり、1次リーグで敗退した。エルサルバドルは1970年大会に続き3連敗で大会を去った。

開催国のスペインはチーム状態が整わず、地元贔屓のジャッジ(ホームタウンディシジョン)に助けられて1次リーグ・グループ5を2位で何とか突破したものの、最後まで精彩を欠き2次リーグで敗退。北アイルランドは当時世界最高のGKと謳われていたパット・ジェニングスの活躍もあってグループ5を首位で通過したが、強豪が集う2次リーグではフランスに大敗するなど6失点を喫して敗退した。

初出場国の中でも特に健闘が光ったのはこの大会より出場枠が2に増えたアフリカ勢のアルジェリアカメルーンであろう。前者は上述のように緒戦で西ドイツを2対1で破る金星を含む2勝1敗、後者は3戦3引き分けながらGKトーマス・ヌコノの獅子奮迅のセービング連発により3試合をイタリア戦の不運な1失点に抑える堅守によって、両者とも西ドイツ、イタリアといったヨーロッパの強豪国を得失点差・総得点差まで追い詰める見事な戦いぶりで世界を驚かせた。

この大会では前回優勝国のアルゼンチンを始め南米勢は全て2次リーグまでに姿を消し、ベスト4は全て欧州勢で独占された。

この大会のベストマッチの一つとして挙げられるのは、準決勝の西ドイツ対フランス戦である。西ドイツのGKハラルト・シューマッハーが、シュートを放とうとしていたフランス代表のパトリック・バチストンと交錯、バチストンは気絶し負傷退場を余儀なくされた[2]。このシーンではPK、カードの提示どころか反則さえも取られることなく、ゴールキックから再開された。しかし、これを除けばゲーム自体はワールドカップ史上屈指の好試合であり、1対1で迎えた延長戦で一時は3対1と離された西ドイツが3対3に追いつき、結果的にPK戦を5対4で制した西ドイツが勝者となった。この大会で初めてPK戦が導入され西ドイツは最初のPK戦勝利チームになった。これ以降、西ドイツはワールドカップのPK戦に全て勝利している。西ドイツはこの準決勝で力を使い果たし、決勝戦はロッシら攻撃陣が尻上がりに調子を上げてきたイタリアに敗れた。

イタリアは70年の準優勝、前回のベスト4から今回の優勝と一見すると順調のように思えるが、その道程は決して楽なものではなかった。ヨーロッパ地区予選でもユーゴスラビアに次ぐグループ2位での通過であった。大会が始まってからもロッシら攻撃陣が振るわず同代表史上初めて1次リーグを勝利なしで終え、3分で総得点数で辛うじてカメルーンを1点上回り2次リーグ進出という苦しい試合ぶりであった[3]。2次リーグでは優勝候補ブラジル、前回優勝国アルゼンチンが同居する最激戦区のグループCに組み込まれた。しかし、ここからイタリアの快進撃が始まった。まずアルゼンチンを2対1で破り、最大の難関ブラジル戦を迎える。ここまで無得点のロッシが点取り屋の本領を発揮しハットトリックの活躍で3対2の勝利を収め決勝トーナメントへ。準決勝でもロッシの活躍でポーランドを2対0と一蹴したイタリアは、決勝で西ドイツを相手にロッシの先制点を皮切りに3点差をつけ、終盤に1点を返されるが3対1で快勝し、3度目の優勝を勝ち取ったのである。

得点王となったロッシの名がクローズアップされたが、当時40歳の名GKディノ・ゾフガエターノ・シレアアントニオ・カブリーニクラウディオ・ジェンティーレらディフェンス陣、中盤のジャンカルロ・アントニョーニマルコ・タルデッリブルーノ・コンティら名手の存在、マスコミの批判にも耐えて、ロッシを起用し続けた代表監督エンツォ・ベアルツォットの勝利でもあった。

得点取消

この大会では、「一度は認定された得点の取り消し」という事態が起きた。

6月21日に行われた1次リーグ・グループ4のフランスクウェート戦、3対1でフランス優勢の状況にあった後半40分の出来事である。フランス選手アラン・ジレスの放ったシュートがクウェートのゴールネットを揺らし、主審が一旦はゴールを宣言した。しかし、クウェート側から「スタンドから笛が聞こえたのでプレーを止めた」という執拗な抗議がなされ、さらに、観戦中だったクウェートのファハド王子(当時)がピッチに乱入し何事かを審判に告げたところ、「不測の事態が起こった」という理由によって、フランスの得点は取り消され、3対1のままでの試合再開となったのである。結局、試合そのものはフランスがその後に1点追加して4対1で大勝しており、この不可解な判定が試合結果やグループ4の最終順位に直接の影響を及ぼすことは無く、その意味では事なきを得たものの、試合・審判の公正を揺るがすのみならず、レフェリー、ひいてはワールドカップやFIFA自体の権威が問われる一大不祥事であり、ワールドカップの歴史を見渡しても前代未聞の汚点としてサッカー史に残ることになった。

当然ながらこの一件は問題視され、後日、ウクライナ人Myroslav Stupar主審が資格停止処分を受け、ファハド王子とクウェートサッカー協会に対してもペナルティが科せられた。なお、後にこの問題の当事者であるファハド王子もクウェート侵攻の際にイラク軍によって射殺されており、当時ファハド王子が何を語ったのかは現在に至るまで明らかにされていないが、21世紀に至ってハンドボールなど多くのスポーツで問題視される事になった、中東産油国の莫大なオイルマネーが競技を統括する国際団体に流入することで発生する、国際スポーツにおける競技の公正確保・審判の権威維持にまつわる諸問題、いわゆる「中東の笛」にも繋がる問題の一つとされる[4]

会場一覧

14都市で、17のスタジアムが会場として使用された。

マドリード バルセロナ ビーゴ
サンティアゴ・ベルナベウ ビセンテ・カルデロン カンプ・ノウ デ・サリア バライドス
収容人数: 90,800人 収容人数: 65,000人 収容人数: 93,053人 収容人数: 43,667人 収容人数: 31,800人
150px 150px 150px 150px 150px
エルチェ ア・コルーニャ ヒホン オビエド アリカンテ
ヌエボ リアソル エル・モリノン カルロス・タルティエレ ホセ・リコ・ペレス
収容人数: 39,000人 収容人数: 34,617人 収容人数: 25,885人 収容人数: 20,000人 収容人数: 30,000人
150px 150px 150px 150px
ビルバオ バリャドリード バレンシア サラゴサ マラガ
サン・マメス ホセ・ソリージャ ルイス・カサノバ ラ・ロマレーダ ラ・ロサレダ
収容人数: 40,000人 収容人数: 30,500人 収容人数: 49,092人 収容人数: 34,596人 収容人数: 45,000人
150px 150px 150px
セビージャ
ラモン・サンチェス・ピスフアン ベニト・ビジャマリン
収容人数: 56,000人 収容人数: 52,500人
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結果

1次リーグ

グループ 1


チーム







1 テンプレート:POLf  4 3 1 2 0 5 1 +4
2 テンプレート:ITAf  3 3 0 3 0 2 2 0
3 テンプレート:CMRf   3 3 0 3 0 1 1 0
4 テンプレート:PERf    2 3 0 2 1 2 6 -4

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イタリアが総得点でカメルーンを上回り2次リーグ進出

グループ 2


チーム







1 テンプレート:FRGf   4 3 2 0 1 6 3 +3
2 テンプレート:AUTf   4 3 2 0 1 3 1 +2
3 テンプレート:ALGf  4 3 2 0 1 5 5 0
4 テンプレート:CHIf  0 3 0 0 3 3 8 -5

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西ドイツオーストリアが得失点差でアルジェリアを上回り2次リーグ進出

グループ 3


チーム







1 テンプレート:BELf  5 3 2 1 0 3 1 +2
2 テンプレート:ARG1812f  4 3 2 0 1 6 2 +4
3 テンプレート:HUN1957f  3 3 1 1 1 12 6 +6
4 テンプレート:SLVf 0 3 0 0 3 1 13 -12

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グループ 4


チーム







1 テンプレート:ENGf 6 3 3 0 0 6 1 +5
2 テンプレート:FRAf 3 3 1 1 1 6 5 +1
3 テンプレート:TCHf  2 3 0 2 1 2 4 -2
4 テンプレート:KUWf  1 3 0 1 2 2 6 -4

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グループ 5


チーム







1 テンプレート:NIRf  4 3 1 2 0 2 1 +1
2 テンプレート:ESPf 3 3 1 1 1 3 3 0
3 テンプレート:YUGf  3 3 1 1 1 2 2 0
4 テンプレート:HONf 2 3 0 2 1 2 3 -1

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スペインが総得点でユーゴスラビアを上回り2次リーグ進出

グループ 6


チーム







1 テンプレート:BRA1968f  6 3 3 0 0 10 2 +8
2 テンプレート:URSf  3 3 1 1 1 6 4 +2
3 テンプレート:SCOf  3 3 1 1 1 8 8 0
4 テンプレート:NZLf   0 3 0 0 3 2 12 -10

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ソビエト連邦が得失点差でスコットランドを上回り第2ラウンド進出

2次リーグ

グループ A


チーム







1 テンプレート:POLf 3 2 1 1 0 3 0 +3
2 テンプレート:URSf 3 2 1 1 0 1 0 +1
3 テンプレート:BELf 0 2 0 0 2 0 4 -4

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ポーランドが得失点差でソビエト連邦を上回り決勝トーナメント進出

グループ B


チーム







1 テンプレート:FRGf 3 2 1 1 0 2 1 +1
2 テンプレート:ENGf 2 2 0 2 0 0 0 0
3 テンプレート:ESPf 1 2 0 1 1 1 2 -1

テンプレート:Footballbox


テンプレート:Footballbox


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グループ C


チーム







1 テンプレート:ITAf 4 2 2 0 0 5 3 +2
2 テンプレート:BRA1968f 2 2 1 0 1 5 4 +1
3 テンプレート:ARG1812f 0 2 0 0 2 2 5 -3

テンプレート:Footballbox


テンプレート:Footballbox


テンプレート:Footballbox


グループ D


チーム







1 テンプレート:FRAf 4 2 2 0 0 5 1 +4
2 テンプレート:AUTf 1 2 0 1 1 2 3 -1
3 テンプレート:NIRf 1 2 0 1 1 3 6 -3

テンプレート:Footballbox


テンプレート:Footballbox


テンプレート:Footballbox


決勝トーナメント

テンプレート:Round4-with third

準決勝


テンプレート:Footballbox


テンプレート:Footballbox


3位決定戦


テンプレート:Footballbox


決勝


テンプレート:Footballbox


優勝国

テンプレート:Winners

得点ランキング

順位 選手名 国籍 得点数
1 パオロ・ロッシ テンプレート:ITAf 6 
2 カール=ハインツ・ルンメニゲ テンプレート:FRGf 5
3 ジーコ テンプレート:BRA1968f 4
ズビグニェフ・ボニエク テンプレート:POLf
5 パウロ・ロベルト・ファルカン テンプレート:BRA1968f 3
アラン・ジレス テンプレート:FRAf
ラースロー・キッシュ テンプレート:HUN1957f
ジェリー・アームストロング テンプレート:NIRf

表彰

個人賞

選手名 国籍 備考
ゴールデンボール(大会MVP) パオロ・ロッシ テンプレート:ITAf 優勝
シルバーボール パウロ・ロベルト・ファルカン テンプレート:BRA1968f ベスト12
ブロンズボール カール=ハインツ・ルンメニゲ テンプレート:FRGf 準優勝
ゴールデンシューズ(得点王) パオロ・ロッシ テンプレート:ITAf 6得点

ベストイレブン

ポジション 選手名 国籍
GK ディノ・ゾフ テンプレート:ITAf   
DF オスカー テンプレート:BRA1968f
ガエターノ・シレア テンプレート:ITAf    
クラウディオ・ジェンティーレ テンプレート:ITAf  
アントニオ・カブリーニ テンプレート:ITAf  
MF アラン・ジレス テンプレート:FRAf  
パウロ・ロベルト・ファルカン テンプレート:BRA1968f   
ズビグニェフ・ボニエク テンプレート:POLf  
ジーコ テンプレート:BRA1968f
FW パオロ・ロッシ テンプレート:ITAf   
ピエール・リトバルスキー テンプレート:FRGf  

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

テンプレート:Navbox
  1. 旧ドイツ時代を含む。
  2. 後に脊髄を折る重傷であったことが判明する。
  3. ワールドカップ史上1次リーグで1勝もしない国が優勝した例は今大会のイタリアだけであり、スロースターターぶりと余裕ぶりは有名となった。
  4. なお、ファハド王子は北京オリンピックにおけるハンドボール競技で無効とされたアジア予選を仕切っていたアジアハンドボール連盟会長であるアフマド王子の父であり、同連盟の初代会長でもある。