那智 (重巡洋艦)

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那智
艦歴
発注 大正12年度艦艇補充計画
起工 1924年11月26日
進水 1927年6月15日
就役 1928年11月26日
その後 1944年11月5日戦没
除籍 1945年1月20日
性能諸元
排水量 基準:10,902トン、公試:13,281トン
全長 203.76m、水線長:201.63m、垂線間長:192.48m
全幅 19m、水線幅:17.86m
吃水 10.97m
機関 ロ号艦本式12基、艦本式タービン4基、13,0000馬力
最大速 35.6ノット
航続距離 7,000(14ノット時)
乗員
兵装
航空機 水偵3機(射出機:呉式2号1型1基、後に呉式2号5型2基)

軍艦 那智(なち)は、日本海軍重巡洋艦妙高型重巡洋艦の2番艦である。那智級と表記された事もある[1][2]。命名の由来は和歌山県那智山に依る[3]艦内神社熊野那智大社から分祀された。

艦歴

1924年(大正13年)11月26日、呉海軍工廠にて起工[4]。当初、進水は1926年(大正15年)10月中旬を予定していた[5]1927年(昭和2年)6月15日、梨本宮守正王列席のもと進水[6]1928年(昭和3年)11月26日竣工[7]。起工は「妙高」より1ヶ月遅れたが、竣工は8ヶ月早まった事になる[8]佐世保鎮守府所属[9]

同年12月4日、横浜沖での御大礼特別観艦式に参加する[10]。「那智」は最新鋭1万トン級巡洋艦として世界に紹介された[11]。「那智」の栄誉は続いた。1929年(昭和4年)5月下旬~6月上旬、東京(横須賀)、八丈島、大島、和歌山、大阪、神戸、東京(横須賀)を昭和天皇が行幸する事になり[12]、その御召艦として「那智」と戦艦「長門」が指定される[13]。当時の「那智」には高等官27名、判任官159名、兵566名、計752名が乗艦していた[14]。5月28日午前10時、横須賀軍港にて昭和天皇が「那智」に乗艦し、午後6時に八丈島にて戦艦「長門」に移乗した[15]。以後、6月8日の神戸出港まで「那智」は御召艦「長門」の供奉艦として行動を共にした[16]

1932年(昭和7年)には第一次上海事変で警備に従事。

日中戦争では1937年(昭和12年)8月20日から24日まで上海上陸作戦に参加。

1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が始まるとパラオに進出し、ダバオメナドアンボン島マカッサルなどの攻略作戦を支援する。

1942年(昭和17年)2月17日スターリング湾を出撃しチモール島デリークーパン攻略を支援。22日スターリング湾に帰投し、24日ジャワ島攻略作戦支援のため出撃。27日、28日スラバヤ沖で連合軍艦隊と交戦(スラバヤ沖海戦)。3月10日北方部隊に編入。4月11日、厚岸に入港し第5艦隊旗艦となる。5月26日アリューシャン作戦のため大湊を出航。

1943年(昭和18年)3月7日から13日、アッツ島への輸送作戦に参加。22日、2度目の輸送作戦で幌筵島を出撃。27日にはアッツ島沖海戦に参加し、米重巡洋艦「ソルトレイクシティ」 (USS Salt Lake City, CA-25) などと交戦するが攻撃を受け小破し戦死11名、負傷21名の損害を出す。

9月6日20時56分ごろ、大湊から幌筵島に向かっていた「那智」に向けてアメリカ潜水艦「ハリバット」 (USS Halibut, SS-232) が魚雷3本を発射し、うち2本が後部煙突直下と艦尾に命中した。しかし、この魚雷は2本とも不発に終わり、へこみと若干の浸水が生じたこと以外は何もなかった。

レイテ沖海戦

1944年(昭和19年)10月14日、台湾沖航空戦での過大な戦果報告により大損害を与えたと考えられた米機動部隊攻撃のため、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊(第五艦隊、司令長官志摩清英中将、通称志摩艦隊)に対し台湾東方へ進出し、「好機をとらえて敵損傷艦の補足撃滅及び搭乗員の救助に当れ」と命令、豊田副武連合艦隊司令長官も「敵機動部隊はわが痛撃に敗退しつつある。基地航空隊と第二遊撃部隊は全力を挙げて残敵を掃討せよ」と命じる[17]。15日、志摩艦隊旗艦「那智」は重巡洋艦「足柄」などとともに瀬戸内海を出撃した。一方、米軍のハルゼー提督は暗号解読により日本艦隊(志摩艦隊)が出撃したと知ると、損傷巡洋艦2隻に空母を含む護衛部隊をつけ、偽装電報を発信して日本艦隊を誘因しようとした[18]。しかし日本艦隊の動きが鈍い事を知ると、艦隊戦闘に向けての準備をやめ、レイテ上陸支援に専念するよう命じた[19]。16日、連合艦隊司令部は米軍機動部隊が健在である事にようやく気付き、志摩艦隊に台湾の馬公に入港するよう命じる[20]。17日、志摩艦隊(那智)は奄美大島薩川湾に入港、18日出航、20日馬公に進出した[21]。翌21日、第二航空艦隊長官から駆逐艦3隻派遣の要請を受け、第二航空戦隊の高雄~マニラ輸送に協力するよう命じられていた志摩長官は第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)を派遣し、これにより志摩艦隊戦力は「那智」「足柄」「阿武隈」及び駆逐艦4隻(第七駆逐隊、・ 第十八駆逐隊不知火)に減少してしまう[22]。志摩艦隊は連合艦隊と南西方面艦隊の命令に振り回されており、その指揮系統は非常に複雑であった[23]。同日、志摩艦隊はレイテ湾に来襲したアメリカ軍攻撃のため出撃。23日夕刻にコロン湾に到着すると、24日午前2時に出港、西村艦隊の後を追うようにスリガオ海峡に向かったが、指揮系統の違う両艦隊の間で情報の交換は全く行われなかった[24]

25日日付変更直後、「那智」以下志摩艦隊はスリガオ海峡に突入。当初は、「曙」「潮」が2km先行して並列して進み、後方中央に「那智」「足柄」「阿武隈」「不知火」「霞」が単縦陣を形成して26ノットを発揮していた[25]。午前3時頃、西村艦隊と米艦隊との戦闘音や閃光を視認する[25]。直後、米軍魚雷艇の攻撃により「阿武隈」が3時24分に被雷落伍する。「那智」「足柄」及び駆逐艦4隻は単縦陣を成形して航行し、4時10分に海峡中央部で炎上する艦艇2隻を発見するが、それは分断された西村艦隊の戦艦「扶桑」であった[25]。さらに避退中の西村艦隊残存艦「時雨」から艦名を問われ、「われ那智」と返答する[26]。志摩長官は「那智のあとに続け」と命じたが、「時雨」は「われ舵故障中」と返答して、単艦で避退していった[26]。4時15分、「那智」のレーダーが方位25度、距離11kmに敵艦らしき目標2つを探知、「那智」「足柄」は各艦魚雷8本を発射した[26]。米軍はヒブソン島で日本軍の魚雷2本を発見しているため、「那智」「足柄」の魚雷は島に向けて撃ったとみられるが、雷跡を視認して報告した米軍駆逐艦部隊も存在する[26]。雷撃後の「那智」は炎上中の西村艦隊重巡「最上」の前方を通過しようとしたが、停止したと思われていた「最上」は速力8ノットで前進しており、「最上」は「那智」の右舷一番砲塔附近に衝突する[26]。「最上」は「那智」に対しメガフォンで舵故障と艦長副長戦死の状況を伝達した[26]

「那智」は艦首を損傷し、最大速力約20ノットに低下してしまう[26]。志摩長官は突入中止を決定、4時25分に「当隊攻撃終了、一応戦場を離脱して後図を策す」と打電する[26]。「那智」「足柄」は「扶桑」残骸のそばを通過、再び「時雨」と遭遇して合流を指示したが、「時雨」は続行できなかった[27]。「阿武隈」に対しては「不知火」が、「最上」に対しては「曙」が護衛を命じられた[28]。夜が明けると、志摩艦隊は米軍魚雷艇群、米軍水上艦艇、米軍機動部隊艦載機、米軍基地航空隊の反復攻撃を受け、「最上」「阿武隈」が沈没する。マニラを目指して避退中、志摩長官は栗田艦隊(第一遊撃部隊)から落伍・航行不能となっていた重巡洋艦「熊野」を発見し、「足柄」「霞」に救援を命じた[29]。「那智」「不知火」は14時にコロン湾に着、「熊野」「足柄」「霞」は16時28分にコロン入泊を果たした[30]

サミュエル・モリソンは著書「モリソンの太平洋海戦史」の中で本海戦について『日本海軍がこの戦闘で何をもって慰めとするかの答えはむつかしい。彼らの雷撃の技量は1943年の標準に及ばず、砲撃の効果もきわめて小さかった。シーマンシップさえ低下したことは那智と最上の衝突が示している。戦闘全体を通じて最も知的な行為は、志摩長官が避退命令を出したことだった。』と評している[31]

沈没

11月5日、「那智」はマニラ湾で米空母レキシントン」 (USS Lexington, CV-16) からの艦上機による空襲を受け多数の爆弾、魚雷の命中により沈没。乗員807名が戦死し、220名が救助された。

エピソード

兵装 

(新造時)

  • 50口径3年式20cm連装砲5基 10門
  • 45口径10年式12cm高角砲 6基
  • 留式7.7mm単装機銃 2基
  • 13式水上固定発射管 12門 (魚雷:8年式2号61cm 24本) 

(最終時)

  • 50口径3年式II号20cm(20.3cm)連装砲5基 10門
  • 40口径89式12.7cm連装高角砲 4基
  • 96式25mm連装機銃 10基 同 単装 28基
  • 92式4連装発射管 2基 (魚雷:93式酸素魚雷61cm 16本)
  • 2号1型電探 1基
  • 2号2型電探 2基
  • 1号3型電探 1基
  • E-27 逆探 (搭載数不明)

歴代艦長

艤装員長

  1. 新山良幸 大佐:1928年5月21日 - 1928年9月10日

艦長

  1. 新山良幸 大佐:1928年9月10日 -
  2. 大西次郎 大佐:1929年11月30日 -
  3. 平田昇 大佐:1930年12月1日 -
  4. 田畑啓義 大佐:1931年12月1日 -
  5. 大和田芳之介 大佐:1932年12月1日 -
  6. 祝原不知名 大佐:1933年11月15日 -
  7. 小松輝久 大佐:1934年11月15日 -
  8. 戸塚道太郎 大佐:1935年12月2日 -
  9. 福田良三 大佐:1936年11月16日 -
  10. 岩越寒季 大佐:1937年12月1日 -
  11. (兼)佐藤勉 大佐:1939年10月10日 -
  12. 八代祐吉 大佐:1939年11月15日 -
  13. 高間完 大佐:1940年11月15日 -
  14. 清田孝彦 大佐:1941年8月20日 -
  15. 曽爾章 大佐:1942年11月16日 -
  16. 渋谷紫郎 大佐:1943年9月10日 -
  17. 鹿岡円平 大佐:1944年8月20日 - 11月5日戦死

同型艦

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目


テンプレート:日本の重巡洋艦
  1. #軍艦模型制作許可願の件p.1、#20糎砲塔搭載の件p.1『那智級用二十糎砲塔ヲ…』
  2. #日本軍艦集 : 2600年版p.26『(足柄は)妙高と同型。世界に誇る那智級一萬頓重巡の最後に出来上つた艦である。』
  3. #寄贈品受領の件p.4『昭和弐年五月十日 和歌山県知事清水徳太郎→海軍大臣岡田啓介殿/目下海軍工廠ニ於テ建造中ニ係ル軍艦那智ハ其ノ艦名ヲ本県下熊野「那智」ノ地名ヲ選択セラレタルハ當ニ本県ノ誇リトスルノミニナラス大ニ光栄トスル所ニシテ県民等シク感謝措ク能ハサル次第ニ在之候(以下略)』
  4. #第2233号艦艇建造工程表交換の件p.2
  5. #軍艦那智工事予定概括表の件p.10
  6. #軍艦那智命名式次第書の件p.2、#守正殿下御行勤御予定の件p.8
  7. #軍艦那智工事予定概括変更の件p.19『呉鎮守府司令長官→海軍大臣(三.一一.二六)/那智竣工 今二十六日午前十時三十分授受ヲ了ス。』
  8. #ポケット海軍年鑑:日英米仏伊独軍艦集.1937,1940年版p.31
  9. #艦艇特務艦艇籍一覧表p.1
  10. #大礼参列艦船並に航空機p.1
  11. #御親閲当日式場の光景pp.1-2『(前略)第四列には世界最新の航空母艦たる加賀、第一航空戦隊旗艦赤城、同航空母艦鳳翔続いて最新式一万頓級巡洋艦那智其他第五戦隊旗艦衣笠以下巡洋艦八隻ヲ列シ(以下略)』
  12. #行幸に関する件pp.1-2
  13. #行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)pp.1-2
  14. #行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)p.10
  15. #行幸に関する件p.3
  16. #八丈島~大阪行幸関係2(1)pp.15-17
  17. #捷号作戦はなぜ失敗したのか75頁
  18. #捷号作戦はなぜ失敗したのか59頁
  19. #捷号作戦はなぜ失敗したのか61頁
  20. #捷号作戦はなぜ失敗したのか77頁
  21. #捷号作戦はなぜ失敗したのか130頁
  22. #捷号作戦はなぜ失敗したのか132頁
  23. #捷号作戦はなぜ失敗したのか141頁
  24. #捷号作戦はなぜ失敗したのか195頁
  25. 25.0 25.1 25.2 #捷号作戦はなぜ失敗したのか250頁
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 26.4 26.5 26.6 26.7 #捷号作戦はなぜ失敗したのか251頁
  27. #捷号作戦はなぜ失敗したのか252頁
  28. #捷号作戦はなぜ失敗したのか254頁
  29. #捷号作戦はなぜ失敗したのか406頁
  30. #捷号作戦はなぜ失敗したのか406頁
  31. #捷号作戦はなぜ失敗したのか265頁