ドイツ統一
テンプレート:ドイツの歴史 ドイツ統一(ドイツとういつ)とは、ドイツ人がホーエンツォレルン朝プロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世をドイツ帝国の皇帝として戴くことを決め、ドイツ人の統一国家を1871年に成立させたことを指す。
1990年に西ドイツと東ドイツの統一がなされて以来、「ドイツ統一」の語は特に日本国内においてはこれを意味して使用する場合が多くなっているが、ドイツなどでは「ドイツ統一」(テンプレート:Lang-de-short, テンプレート:Lang-en-short)とはあくまで1871年の統一のみを指す。歴史用語・政治用語としても1990年のものは「ドイツ再統一」(テンプレート:Lang-de-short, テンプレート:Lang-en-short)と呼ばれ、明確に区別されている。
前史
三十年戦争後、およそ300の領邦の寄せ集め状態となっていたドイツは、ナポレオン戦争でさらに国土を再編され、最終的にはウィーン議定書によって35の君主国と4自由市による「ドイツ連邦」(大ドイツ)となっていた。
1830年代になると、ドイツでも産業革命が進行しはじめ、産業資本家(ブルジョアジー)を中心にドイツ統一の機運が高まった。1848年の三月革命を機にウィーン体制が崩壊すると、ユンカー(地主貴族)も統一の不可避性を認識するようになった。フランクフルト国民議会ではドイツ統一について話し合われたが、大ドイツ主義と小ドイツ主義とがぶつかり、互いに相容れなかった。小ドイツ主義者は、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝戴冠の推戴をしたが、プロイセン内のナショナリズムの方が尊重され、ドイツ皇帝戴冠は拒否された。オーストリアも皇帝フェルディナント1世が退位、代わってフランツ・ヨーゼフ1世が即位し、脱落した。フランクフルト国民議会はその存在価値を失い、話し合いによる統一は失敗した。
鉄血政策
北部ドイツにおいて最有力国家であったプロイセン王国の首相オットー・フォン・ビスマルクは、「大ドイツ」最大の国家でありながら非ドイツ系住民を多数包含するオーストリア帝国を排除して、プロイセン中心(小ドイツ主義)の君主制によるドイツ統一を目指した。彼はいわゆる「鉄血演説」を行って、ドイツ統一のために軍備拡張政策を追求することを宣言した。これを「鉄血政策」と呼ぶ。
ビスマルクの強硬策
ドイツ最北部のシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国は、ドイツ連邦の加盟国ながら長年にわたりデンマークとの同君連合下にあったが、1864年にプロイセンはオーストリアと共にデンマークと戦い勝利し、これを奪い取った(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)。続いてビスマルクは1866年、その管理問題からオーストリアと戦い、勝利した(普墺戦争)。これによって、チェコ人やハンガリー人などを含む多民族国家オーストリアは、ドイツ統一から排除されることになり、ドイツ連邦は崩壊した。オーストリアはハンガリー人と妥協して、オーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させた。一方、ドイツ北部にはプロイセンを中心に22の領邦と3の自由市からなる北ドイツ連邦が成立し、小ドイツ主義でのドイツ統一に大きく近づいた。
普仏戦争
ビスマルクは、プロイセン中心のドイツ統一に反対するカトリックの強いバイエルンなど、南西ドイツ4領邦を新生ドイツに編入するため、宗教を超えた民族主義(ナショナリズム)の利用を考えた。当時、スペインの王位継承問題に、同じく関心を持っていたフランスとの関係を悪化させ、エムス電報事件を機に、フランス皇帝ナポレオン3世と開戦、勝利を収めた(普仏戦争)。民族主義(国民主義)が高まる中、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、プロイセン内のナショナリズム(国民意識)を尊重してドイツ統一を強く拒否した。しかし、宰相ビスマルクなどの後押しもあり、ヴィルヘルム1世は初代ドイツ皇帝となった。1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、ドイツ帝国(ドイツ国)の成立が宣言された。その後、プロイセン内の国民意識は急速に衰え、基本的に多民族社会であったプロイセンはドイツ帝国に組み込まれ、プロイセン国民はドイツ民族文化に同化される形となった。
ドイツ統一戦争
ドイツ帝国は戦争によって生まれた国家であり、その土台となった3つの戦争を総称して「ドイツ統一戦争」と呼ぶ[1]。
脚注
関連項目
テンプレート:Link GA- ↑ 中島浩貴「ドイツ統一戦争から第一次世界大戦」2011年、p21(『ドイツ死と戦争』彩流社)