人種差別
人種差別(じんしゅさべつ、テンプレート:Lang-en)とは、人間を外観的特徴(肌の色など)や民族、国籍などに基づいて区分し、その特定の人々に対して嫌がらせや差別することである。世界的、歴史的に、各種の事例が存在している。
目次
定義
- 人種差別撤廃条約は、1条の1で「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定義している。ただし、1条の2には「この条約は、締約国が市民と市民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優先については、適用しない」とあり、国籍の有無による区別は人種差別にはあたらないとしている。
- 社会学者ロバート・マイルズは、レイシズムを以下のように定義した。
- 肌の色など恣意的に選び出された特徴を重要な基準として選択し(segregation)、この特徴により人間集団をカテゴライズし(racialization)、否定的/肯定的な評価を付与し、 一定の人間集団を排除/包摂(exclusion/inclusion)していくイデオロギー。
- ステレオタイプな他者像(representation of the Other)をともなう。
- 分類の基準となる特徴は、一般に形質的なもの(例 肌の色、髪の型、頭の形)だが、見て直ぐに分からない生まれつきの現象(例:血統)も重要な特徴として選ばれることがある。
- 国際連合教育科学文化機関(UNESCO)は、1951年に「人種の優劣には根拠がない」、「人種混交が生物学的に不利な結果をもたらすという証拠もない」という内容の、「人種と人種差別の本質に関する声明」を出している。
以上から、市民的及び政治的権利に関する国際規約は、第20条第2項で「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める。
歴史事例
ヨーロッパ
テンプレート:See also ローマ時代を古代欧州と定義するかは、欧州懐疑論者からしばしば聞かれる疑問である。仮に含めた場合、北アフリカの属州に居住する住民を通じて一定の異人種間の交流が見られたが、属州アフリカの大多数の住民はコーカソイド系のベルベル人であって、中南部の黒人種との交流はごく限定的なものであった。封建的無秩序といえる中世時代においては身近な貴族同士の対立が一番の関心事で、次に宗教的対立がより重要な課題であり、次いで民族対立が垣間見えるといった程度であった。なお肌の白さが優位性の印と考えられるようになったのは後世の話である。古代ローマ時代のガリアやゲルマンは文明の中心地であった地中海世界や中東から離れた未開地であり、ローマ人にとって後年には北方人種と定義された金髪碧眼の風貌は蛮族の象徴のように書かれた。
大航海時代以後の西欧人が新大陸のインディアン、サハラ砂漠以南のネグロイドを差別したことは歴史上では顕著である。また、同じ西欧人であってもアイルランド人など差別を受けた歴史をもつ民族も多い。風説などにより、一方の人種が生物学的に原始的であるとしたり、知能が劣る・野蛮であるとして、野生動物のように考えていた時代もある。大航海時代以後の西欧人は近代的な軍隊により世界の大半を侵略、植民地化していった。植民地支配を正当化するため西欧人の優勢が主張され「優等人種である白人が、劣等人種である非白人に文明を与えるのは義務である」とされた。この優位性は、「白人こそが最も進化した人類である」という価値観さえ生む結果となった(ラドヤード・キップリング『白人の責務』、セシル・ローズの“神に愛でられし国・イギリス”思想、ヒュー・ロフティング『ドリトル先生』シリーズの『アフリカゆき』『航海記』など)。この考え方は次第に肥大し、学術分野においても各人種間に特徴的な差異を「一方の人種が劣っている証拠」とする説が発表され、優生学の名で正当化された。この中にあって進化論は大いに捻じ曲げられ、後の文化人類学発達を大きく妨げたと考えられる。
反ユダヤ主義を掲げたナチスは、「セム人種」や「ユダヤ人種」という生物学的分類を主張し、主に民族的・宗教的な分類であるユダヤ人を生物学的にも区別しようとした。
アフリカ
サハラ砂漠以南のアフリカに集中的に居住していた黒人は古代においてアラブ人やペルシア人の奴隷として扱われた時期があり、人種差別の対象であった。イスラム圏の偉大な哲学者であるイブン・ハルドゥーンでさえも黒人を差別の対象としている。アッバース朝時代には南イラクの大規模農業で使役していた黒人奴隷が過酷な労働環境に不満を抱き反乱を起こしている(ザンジュの乱)。なおヨーロッパからアフリカを見た用語としてブラックアフリカがある。
大航海時代以降はヨーロッパ人が黒人を奴隷として使役した。ヨーロッパ人は主に西〜中央アフリカに住む黒人を奴隷として使役してきた。ヨーロッパ人及びアフリカ人の奴隷商人が戦争などで狩集め、ヨーロッパ人に購入された黒人は奴隷船の船倉に積み込まれ、新大陸等の市場へ輸送された。奴隷船船倉の条件は過酷であったので市場に着く前に命を落とす黒人もかなりの割合にのぼった。奴隷市場では商品として台の上に陳列され、売買された。彼ら黒人奴隷は人格を否定され、家畜と同様の扱いであった。軽い家内労働に従事できる者や奴隷身分から解放される者はごく少数だった。こうしたヨーロッパ人による奴隷制度は、1888年にブラジルが奴隷制度を廃止するまで続いた。こうして奴隷労働に支えられて成り立った世界的な商品がサトウキビと綿花であった。「新大陸」での極度に集約的な大量生産のために奴隷が好都合だった。テンプレート:See also
北米
アメリカ合衆国は領土拡大の際の邪魔者として、インディアンを徹底的に排除する政策を採った。トーマス・ジェファーソンはインディアンの保留地(Reservation)への囲い込みを推し進め、アンドリュー・ジャクソンは「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と合衆国議会で演説した。軍人のフィリップ・シェリダンの「よいインディアンとは死んだインディアンの事だ」という発言や、ウィリアム・シャーマンの「インディアンを今年殺せるだけ殺せば、来年は殺す分が少なくて済む」といった発言は、合衆国の民族浄化の姿勢をよく表すものである。
「インディアン強制移住法」の違法を合衆国最高裁が認め、「インディアンは人間である」と判決文に添えたのは1879年になってようやくのことである。それ以後もインディアンは「Colored(色つき)」として1960年代までジム・クロウ法の対象とされたのである。
南米
スペイン人侵入後の南米は、マヤ、アステカなどの征服地で彼らの国家を武力で滅ぼし、虐待・大量虐殺によって植民地支配し、インディアン、インディオを差別の中に置いた。
スペイン領では、ラス・カサスらキリスト教伝道師がインディアン保護に奔走するが、これは、結果的に労働力の代替としての黒人奴隷導入につながる。近代以降も白人、混血、インディアン(インディオ)で社会階層が分かれている国家が少なくない。
アジア
黄色人種は白人社会からは卑屈で劣った人種だと思われながらも、勤勉さや教育熱心な文化が評価され、確実に白人社会に食い込んでいったこともあり、20世紀後半以降は一方的な搾取を受ける事態には至っていない。北米やイギリスなどにおける東アジア系移民の学歴や生活水準は有色人種の中にあって高く、平均して白人をしのぐことすら珍しくない。その現れとして、アメリカの大学選考においてアファーマティブ・アクションによる優遇は無く、むしろ不利に設定されている。
一方、20世紀前半のアメリカやカナダでの中国系移民や日系移民の境遇をみると、苦力などの奴隷的境遇に落とされたり、また苦労して経済的地位を築いた後も黄禍論を背景とした排斥の動きに遭遇したという歴史がある。特に日系人は太平洋戦争中は市民権を停止され強制収容所に収容されるに至った。同じように米国と交戦していた他の枢軸諸国出身者やその子孫はほとんど制限をうけることはなかったため、有色人種の日本人に対する人種差別とみなされている。テンプレート:See also
日本
日露戦争後の日本は、非ヨーロッパ系国家として唯一の列強であり、欧米帝国主義から自分たちの権利を守るため人種差別反対の立場をとることが多かった[1]。 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、世界ではじめて人種差別撤廃条項を提案するも、イギリス・アメリカなどの議長拒否権により不成立に終わっている。
第二次世界大戦では人種差別を国是とするナチス・ドイツと軍事同盟を結んだが、欧州人でもキリスト教徒でもない日本人はナチスのユダヤ人迫害には非協力的だった。むしろ、満州国にユダヤ人自治州を作る河豚計画が存在し、日独伊三国同盟成立後も五相会議にてユダヤ人を迫害をしない旨をとりきめ、他の枢軸国・占領地域のようにユダヤ人迫害に協力することはなかった。そのため欧州から脱出するユダヤ人にとってソ連→満洲→米国他へのルートは重要なものとなっていた。ただし猶太人対策要綱にあるように、外交的な配慮からユダヤ人の保護に積極的に関与することは無くなっていく。杉原千畝は数千のユダヤ人にビザを発給してその生命を救ったが、これはあくまでも彼の個人的な判断によるものである[2]。
近年の事例
韓国は人種差別撤廃委員会の勧告を受け入れず、出入国管理法を改悪し移住労働者の権利を制限し、また移住労働者に対して偏見から暴言や暴行・労働搾取などをおこなっている。2012年に韓国国家人権委員会が発行した「漁業移住労働者人権状況実態調査」によれば、93.5%もの船員移住者は悪態や暴行を経験し、うち42.6%は暴行を経験していたと公表された。2014年2月14日にはインドネシアの船員が韓国人同僚から暴行され死亡する事件が発生している。国連人種差別撤廃委員会は2012年に韓国政府に対して差別撤廃禁止法などの制定を勧告したものの、韓国政府は履行しておらず「移住労働者は事業場も自由に変われない」「現代版の奴隷をつくりだして今も人種差別政策を施行している」(韓国・外国人移住労働運動協議会、イ・ジェサン運営委員長)とされる[3]。
ギリシャでは人種差別的な攻撃に関して有罪判決が下ることはほとんどなく、人種差別が横行しているとされる。ギリシャの経済危機があってから、彼ら移民はギリシャ人の不満のはけ口にされており、特に攻撃にさらされている[4]。
撤廃への国際的な試み
アメリカの南北戦争は、奴隷解放戦争としての性格を性格の一つとして帯びていた。多くの黒人奴隷に経済基盤を支えられ、奴隷解放に反対していた南部の各州が敗れると、制度としてのアメリカの奴隷は、撤廃・解放されたが、実質的な差別は、根強く残った。第二次世界大戦後の世界では、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師による公民権運動が多くのアメリカ市民に影響を残した。
第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議では、日本が「人種的差別撤廃提案」を行なった。イギリスやオーストラリアが強く反対する中で採決が行われ、結果11対5で賛成多数となったが、議長のアメリカ大統領・ウッドロウ・ウィルソンが例外的に全会一致を求めた為、否決された。
1963年11月20日、国際連合が「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際連合宣言」を採択。
1965年に国際連合が「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を採択、1969年に同条約が発効、1996年に日本で同条約が発効。
1976年に、「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める第20条の第2項を含む市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権規約)が成立した。同規約はまた第2条で“締約国は差別的言動を取り締まる法制が自国にない場合、然るべく整備する”、第5条で“差別を行なう自由や権利は何人にもない、本規約はそのような権利自由を認めない”と定める。
2001年、南アフリカのダーバンで開催された「国連反人種差別主義会議」(WCAR)では、南半球の国家代表たちによる人種差別、植民地主義、大西洋横断の奴隷売買、およびシオニズムに対する人種差別非難が相次いだ。会議は、パレスチナ人の権利保護要求、シオニズムに対する満場一致の非難を決議した。米国、イスラエルの代表団は、これに猛反発し、決議をボイコットした。
2009年4月20日からスイスのジュネーブで開催されたWCARでは、米国、イスラエルに加え、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、イタリア、スウェーデン、ポーランド、オランダがボイコットした。
脚注
- ↑ 『日本人とアフリカ系アメリカ人 ―日米関係史におけるその諸相―』 古川博巳、古川哲史 明石書店 ISBN 9784750319223 P79-86
- ↑ 渡辺勝正 『真相・杉原ビザ』 大正出版、2000年 ISBN 4-8117-0309-X テンプレート:要ページ番号
- ↑ レイバーネット「韓国:人種差別撤廃の日・韓国社会の「人種差別」深刻 2014.30.20[1]
- ↑ テンプレート:Cite news
参考文献
- 岡本雅享 監修『日本の民族差別』人種差別撤廃条約からみた課題 明石書店 2005年6月 ISBN 4750321397
- 金静美『水平運動史研究』民族差別批判 現代企画室 1994年1月 ISBN 4773893125