朱元璋
テンプレート:基礎情報 中国君主 朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅこうそう)と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。
生涯
紅巾の乱
元末の天暦元年(1328年)、濠州の鐘離(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって妊娠し、朱重八が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられた(もしくは輩行でそのように呼ばれた)。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした(流行病で家族を失った説もある)。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。
至正11年(1351年)、白蓮教徒の集団が各地で反乱を起こし、紅巾の乱が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱重八は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じたという。朱重八は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の馬皇后である。
朱重八が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱重八の人相が悪かったとも言えるだろう。朱重八は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。
この時期、のちに功臣第一となる徐達や勇猛で知られる常遇春や後の謀臣・李善長と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。
江南の統一
至正15年(1355年)に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため(朱元璋による陰謀との説もある)、朱元璋はそれらの軍を吸収し至正16年(1356年)、集慶路(現在の南京)を占領し、応天府と改めた。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から劉基、宋濂ら名望家がやって来るようになった。
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた陳友諒が大漢国をうち立て、湖北から江西の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の張士誠も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた江南の覇権を争うことになった。至正20年(1360年)、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。至正23年(1363年)3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを鄱陽湖の戦いと言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。
至正24年(1364年)、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。至正26年(1366年)に朱元璋は韓林児を応天府に呼び寄せたが、その途中で韓林児は水死した(朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる)。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。至正27年(1367年)、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。
至正28年(1368年)正月、応天府(現在の南京)にて朱元璋は即位し、元号を洪武とし、国号を大明とした。
北伐
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け北伐を行わせた。当時元軍の主力であるココ・テムルの軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の順帝は抵抗を諦め首都大都を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元は漠北へ撤退し北元となった。洪武4年(1371年)に紅巾の残党である四川の大夏国を滅ぼし、洪武14年(1381年)には段氏の雲南を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。洪武20年(1387年)の遠征で北元最後の主力であったマンジュリア軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。
即位後の政策
国家組織
洪武帝は独裁権力の確立を目指し中書省を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、宦官の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した(詳細に関しては「明」の項を参照)。
民政
洪武帝は重農政策を打ち出し、大商人を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や銅銭・紙幣の発行、民間における銀の通貨としての使用を禁じた。一方で洪武13年(1380年)には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。
重農政策のもと、洪武4年(1371年)には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、洪武14年(1381年)に全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)、賦役黄冊(戸籍台帳)を作り、里甲制(村落の自治的行政制度)・衛所制(兵農一致による軍事制度)を実施した。洪武27年(1394年)には工部の官吏と国子監の学生を総動員して治水事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の堤防を修繕したという。
官吏、知識人の弾圧
洪武14年(1381年)、文字の獄と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて薛祥ら功臣が殺され、かつて洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の「道」、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。
洪武15年(1382年)には「空印事件」(「空印の案」とも)と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙(空印)を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。鄭士利という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。
洪武18年(1385年)には郭桓の案が起こる。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明代には試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。
大粛清
テンプレート:Main 洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。皇太子に選ばれたのは長男の朱標であったが、朱標は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。
洪武8年(1375年)には劉基が中書左丞相の胡惟庸に毒殺された。廖永忠も殺されている。洪武13年(1380年)には、胡惟庸の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは胡惟庸の獄と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に宋濂も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。洪武17年(1384年)には李文忠が毒殺された。洪武18年(1385年)に徐達が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の洪武23年(1390年)、事件を再び蒸し返して李善長ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた洪武25年(1392年)、皇太子朱標が早世した。洪武帝は朱標の子の朱允炆を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。洪武26年(1393年)には藍玉が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは藍玉の獄と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。洪武27年(1394年)には穎国公の傅友徳と王弼が殺された。傅友徳についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。洪武28年(1395年)には宋国公の馮勝が殺された。洪武29年(1396年)には監察御史の王朴、洪武30年(1397年)には欧陽倫が殺された。
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、洪武31年(1398年)に崩御した。享年71(満69歳没)。後を孫の朱允炆(建文帝)が継いだ。
宗室
父母
- 父 朱世珍(元の名(輩行での呼び方)は朱五四、後に仁祖淳皇帝とされる)
- 母 陳氏(後に淳皇后とされる)
后妃
- 皇后 孝慈高皇后馬氏
- 成穆孫貴妃
- 李淑妃
- 郭寧妃
- 恵妃
子
- 朱標、後の懿文太子、母は馬皇后
- 朱樉(木偏 + 爽 zh:朱樉)、後の秦愍王、母は馬皇后
- 朱棡、後の晋恭王、母は馬皇后
- 朱棣、後の燕王、永楽帝、母は馬皇后
- 朱橚(木偏 + 粛 zh:朱橚)、後の周定王(建文年間に廃位、永楽年間に復位)、母は馬皇后
- 朱楨、後の楚昭王、母は胡充妃
- 朱榑、後の斉王(木偏 + 専)(建文年間に廃位、永楽年間に復位)、母は達定妃(永楽年間に廃されて庶人となる)
- 朱梓、後の潭王、(胡惟庸の獄で妃の家である于氏が連座、追及を恐れ自焚死)、母は達定妃
- 朱杞、後の趙王(幼殤)、母は不明
- 朱檀、後の魯荒王、母は郭寧妃
- 朱椿、後の蜀献王、母は郭惠妃
- 朱柏、後の湘献王、母は胡順妃(建文年間に自焚死)
- 朱桂、後の代簡王(建文年間に廃位、永楽年間に復位)、母は郭惠妃
- 朱柍(木偏 + 央)、後の粛庄王、母は郜氏
- 朱植、後の遼簡王、母は韓妃
- 朱栴、後の慶靖王、母は余妃
- 朱権、後の寧献王、母は楊妃
- 朱楩、後の岷荘王(建文年間に漳州へ配流、永楽年間に復位)、母は周妃
- 朱橞(木偏 + 惠)、後の谷王、母は郭惠妃(永楽年間に廃されて庶人となる)
- 朱松、後の韓憲王、母は周妃
- 朱模、後の瀋簡王、母は趙貴妃
- 朱楹、後の安惠王、母は不明
- 朱桱、後の唐定王、母は李賢妃
- 朱棟、後の郢靖王、母は劉惠妃
- 朱㰘(木偏 + 彝)、後の伊暦王、母は葛麗妃
- 朱楠、母は不明
女
- 臨安公主
- 寧国公主、母は馬皇后
- 崇寧公主
- 安慶公主
- 汝寧公主
- 懐慶公主、母は成穆孫貴妃
- 大名公主
- 福清公主
- 寿春公主
- 十公主
- 南康公主
- 永嘉公主、母は郭恵妃
- 十三公主
- 含山公主
- 汝陽公主、母は郭恵妃
- 宝慶公主
- 福成公主
- 慶陽公主
家臣
定遠攻略(1353年)に参加した24将
徐達、湯和、費聚、呉良、呉禎、花雲、陳徳、顧時、耿再成、耿炳文、唐勝宗、陸仲亨、華雲龍、鄭遇春、郭興、郭英、胡海、張龍、陳桓、謝成、李新材、張赫、周銓、周徳興[1]
明の建国時(1368年)に重職を与えられた者
李善長、徐達、常遇春、馮宗異、胡廷端、廖永忠、李伯升、趙庸、王溥、楊憲、傅瓛、康茂才、張興祖、顧時、孫興祖、呉禎、耿炳文、鄧愈、湯和、劉基、章溢、文原吉、範顕祖[2]
洪武2年(1369年)の叙勲
侯爵:湯和、唐勝宗、陸仲亨、周徳興、華雲龍、顧時、耿炳文、陳徳、郭子興、王志、鄭遇春、費聚、呉良、呉禎、趙庸、廖永忠、兪通源、華高、楊璟、康鐸、硃亮祖、傅友徳、胡美、韓政、黄彬、曹良臣、梅思祖、陸聚[3]。
洪武9年(1376年)に認定された功臣
徐達、常遇春、李文忠、鄧愈、湯和、沐英、兪通海、張徳勝、胡大海、趙徳勝、耿再成、桑世傑[4]
功臣として太祖廟に祀られた者
徐達、常遇春、李文忠、鄧愈、湯和、沐英、胡大海、趙徳勝、華高、兪通海、呉良、曹良臣、呉復、孫興祖、馮国用、耿再成、丁徳興、張徳勝、呉禎、康茂才、茅成[5]
その他の武臣
邵栄、藍玉、謝再興、薛顕、仇成、王弼、胡深、葉升、張銓、金朝興、李新、濮英、何文輝、繆大亨、蔡遷、王銘、甯正、金興旺、丁玉、丁普郎、張志雄
その他の文臣
胡惟庸、宋濂、陶安、張昶、陳遇、秦從龍、葉兌、范常、潘庭堅、宋思顏、汪廣洋、夏煜、郭景祥、楊元杲、孔克仁、阮弘道、崔亮、詹同、陶凱、曾魯、任昂
人物・逸話
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- 洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して建文帝となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には靖難の変で建文帝と四男の朱棣が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった(若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう)。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、朝廷軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗北し、朱棣が即位して永楽帝となった。
- 現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。豊臣秀吉にも似たような話があるが、洪武帝の場合は本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。
- 文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で肉刑を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。
- 洪武帝と永楽帝が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝によって全て覆され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動くことになる。なお近年では、洪武帝の重農主義を彼個人の性格と並んで、長年の戦乱で貨幣体系が崩壊して一時的な自然経済への回帰現象の中で発生したという側面を指摘する歴史学者もいる。
- 明建国以前の1361年、応天府(南京)に宝源局(今日で言う造幣局)を設置して大中通宝を鋳造するが、その際に1貫=10両=100銭=400文という単位を導入した。これは当時の元の鈔が至元通行宝鈔5貫=中統元宝交鈔2.5貫=銅銭1貫(1000文)であったことに関係している。朱元璋は大中通宝の価値を理念上の貨幣価値である銅銭1貫=1000文(枚)に拘らず、当時最も通用していた現実的な通貨である中統元宝交鈔1貫と大中通宝400文(枚)を直接結び付けることで、自らの通貨を強引に元の通貨体系に織り込むと同時に、不足を補うための代替貨幣として元の鈔を使わせることで経済的な混乱を防止しながら自らの経済圏の確保を計ったのである。
- 歴代王朝が宦官や外戚の政治介入を招いて滅びたことから、彼らを重用しなかったという。
総合的な評価
趙翼は朱元璋を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。
現代中国への影響
登場作品
- 映画
- 『デブゴンの太閤記』(1978年、台湾)演:サモ・ハン・キンポー
- テレビドラマ
脚注
関連項目
参考文献
外部リンク
- 画师据实画像被杀 朱元璋奇特长相成谜(中国語) 2種類の肖像画が掲載されている
- 朱元璋-明の開国君主