ノロドム・シハヌーク
ノロドム・シハヌーク នរោត្ដម សីហនុ | |
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任期 | 1991年10月23日 – 1993年9月23日 |
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任期 | 1982年 – 1991年7月17日 |
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任期 | 1975年4月17日 – 1976年4月2日 |
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任期 | 1960年4月3日 – 1970年3月18日 |
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出生 | |
政党 | サンクム
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テンプレート:Sister ノロドム・シハヌーク(テンプレート:翻字併記、1922年10月31日 - 2012年10月15日)は、カンボジア国王(在位:1941年4月25日 - 1955年3月2日、1993年9月24日 - 2004年10月7日)、政治家。
「シアヌーク」という表記は "h" の音を発音しないフランス語式の読み方で、原音に一番近い読み方は「ノロードム・シーハヌ」である。
目次
生涯
即位
カンボジア王族ノロドム・スラマリットとシソワット・コサマック妃の息子として、当時フランス領インドシナの一部であったカンボジアのプノンペンで生まれ、同じくフランス領インドシナの一部であったベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)に留学中の1941年、祖父のシソワット・モニヴォン国王(コサマック妃の父)の崩御に伴い、請われて帰国し、18歳で即位した。
カンボジアの王家はノロドム王(在位1840年 - 1904年)を祖とするノロドム家とシソワット王(在位1904年 - 1927年、ノロドム王の弟)を祖とするシソワット家に分かれ、王位継承に当たって両家の間で争われた。しかし、1941年当時カンボジアを含むフランス領インドシナの最高実力者であったフランス領インドシナ総督テンプレート:仮リンクの裁定により、シハヌークの即位が決定した。
この背景には、シハヌークがノロドム、シソワット両家の血筋を引いている(シハヌークは両国王の曾孫にあたる)ことと、まだ若年のため宗主国フランスの意向に沿うだろうという思惑があったためと見られている。
独立宣言
フランス本土からドイツ軍が放逐され、後ろ盾を失ったヴィシー政権が崩壊した後の1945年3月に、インドシナ半島に進駐していた日本軍によってフランス軍が駆逐され、インドシナ政府が解体されると、シハヌークは、隣国ベトナム(保大帝)、ラオス(シーサワーンウォン)と相前後してカンボジアの独立を宣言した。
シハヌークは当初ベトナムと同時に「独立宣言」をするよう調整するつもりであったが、その連絡がうまくいかず、結局はベトナムの独立から2日遅れの13日の独立となった。カンボジアは、フランスの支配に入る前はベトナムの圧迫を受けていたため、ベトナムへ強い対抗意識を持っていた。6月にベトナムがコーチシナ等の旧フランス直轄地の回収を宣言すると、カンボジア側もコーチシナの約半分の領有を主張し、日本へ仲介を依頼している。
しかしそれから2ヶ月後の8月15日に日本が第二次世界大戦に敗戦すると、シハヌークは3月13日をカンボジアの独立の日としながらも、ベトミンの侵略を恐れて、一旦フランスの帰還を制限つきで認めた。そしてアメリカ合衆国を始めとする諸外国を歴訪してカンボジアの現状と独立を国際世論に訴える戦法に出た。その結果、1949年にフランス連合内での独立が認められたが、警察権・軍事権は依然としてフランスの手に握られていた。
これに満足しないシハヌークは離宮に籠もり、「完全に独立が達成されるまで首都・プノンペンには戻らない」と宣言、国内でも都市部を中心に独立を求める反仏デモが大きく盛り上がった。国王の強硬な姿勢に驚いた上に、第二次世界大戦で植民地を維持し続ける国力も失ったフランスは遂にカンボジアの完全独立を認め、1953年11月9日、新生「カンボジア王国」が発足した。歓呼の声の中、プノンペンの王宮に凱旋したシハヌークは以後、「独立の父」として国民の尊敬を集めることとなった。
退位・政治家へ
独立運動を通じて自信を強めたシハヌークは1955年3月3日に退位し、父のノロドム・スラマリットが即位した。退位後のシハヌークは「殿下」の称号で呼ばれた。立憲君主国であるがゆえに権限に法的制限のある王位を離れたことで、活動範囲に制約のなくなったシハヌークは同年4月7日、政治団体「社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム、通称サンクム)」を結成し、その総裁として更に政治へ取り組みを表明した。
サンクムは同年の総選挙で圧勝して国会の全議席を制し、いわば「シハヌーク翼賛体制」ともいえる政治環境の中でシハヌークは首相兼外務大臣に就任した。また、1960年4月に父王が死去した後は王位を空位とし、シハヌークは新設の「国家元首」に就任して政治指導にあたった。
シハヌークの政策は「王制社会主義」と称されたもので、仏教の保護と王制による指導のもと、社会主義的な政策を打ち出していった。また、外交面では厳正な中立政策を守り、冷戦の続く中、東西両陣営から援助を引き出すことに成功するなど、隣国ベトナムやラオスが戦火に巻き込まれる中、国内は平和を維持していたが、政界では左派・右派の対立が絶えず、シハヌークが必要に応じて左派の重用と弾圧を繰り返したため、ポル・ポトやイエン・サリ、キュー・サムファンといった左派の指導者はジャングルに逃れ、武力闘争に走ることとなった。
国外追放
ベトナム戦争中の1970年3月、首相兼国防相のロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク(シハヌークの従兄弟)などが率いる反乱軍が軍事クーデターを決行、議会は外遊中のシハヌーク国家元首の解任、王制廃止と共和制施行を議決し、国名は「クメール共和国」と改められ、ロン・ノルが大統領に就任した。
クーデターは、アメリカがシハヌークを北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線と近い「容共主義者」として疎ましく思い、親米派のロン・ノルを支援して追放させたと言われている。シハヌークはカンボジア領内に南ベトナム解放民族戦線の補給基地や北ベトナムから南ベトナムへの人員物資補給路であるホーチミンルートの存在を許し、一方で1969年を通してアメリカのカンボジア爆撃を公に非難し、1970年1月にはアメリカ軍と南ベトナム軍の攻撃で多数の民間人死者が出た何千件もの報告を含む政府公式白書を公表していた。また南ベトナムのフルロも軍基地などで反乱を起こした後、しばしカンボジア領に逃げ込んだ。
クーデター後、ロン・ノル政権は、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、クメール領のベトナム系住民を迫害・虐殺・追放した。また、ロン・ノルはアメリカ軍と南ベトナム軍に南ベトナム解放民族戦線を追撃するためのクメール領内侵攻を許し、さらにこれまで局部的であったアメリカ軍の空爆は人口密集地域を含むクメール全域に拡大された。これにより数十万人の農民が犠牲となり、わずか一年半のうちに200万人が国内難民と化した[1]。とくに東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた[2]。農村インフラは破壊され、食糧輸出国だったクメールは食糧輸入国に転落した。こうした状況はクメールの一層の不安定化を招き、クメール・ルージュの勢力拡大に有利となった。
ポル・ポトへの協力
追放されたシハヌークは、当時アメリカとソビエト連邦の両方と対立していた中華人民共和国の北京に留まり、中華人民共和国からの全面的な協力を得て亡命政権「カンプチア王国民族連合政府」を結成し、ロン・ノル政権打倒を訴えた。
1970年3月末にはコンポンチャムでシアヌークを支持する暴動が起きたが武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2~3万人の農民が共産主義の影響を受けていた[3]。その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州で同様の蜂起が起こった。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮の金日成らの説得により彼らと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。
シハヌークは名目上、統一戦線のトップではあったが、王制を始めとする封建体制の徹底破壊を目指すポル・ポトとその一派にとって、シハヌークは彼らの信念とは相容れない存在であり、両者の関係は最初から緊張をはらんでいたといえる。
アメリカが南ベトナムを見捨て、クメールを含むインドシナ半島から完全撤退したこともあり、1975年4月に中華人民共和国からの武器援助を受けたクメール・ルージュは遂にクメール全土を制圧した。クメール共和国は崩壊し、ポル・ポト派はシハヌークを国家元首とする共産主義国家「民主カンプチア」の成立を宣言した。シハヌークは平壌から帰国した。1979年までに深刻な飢餓とマラリア、虐殺により100万人以上のカンボジア人が死んだとも言われる。
この間、表向きは元の地位に返り咲いたかに見えたシハヌークだったが、実態は何ら権限を与えられず、クメール・ルージュがお膳立てした地方視察(そこでシハヌークは変わり果てた祖国の姿を目の当たりにする)以外はプノンペンの王宮に幽閉同然の身となった。同居を許されたのは第6夫人のモニク妃と2人の間に生まれた2人の王子(シハモニ、ナリンドラポン)及び僅かな側近、従者だけであった。他の家族のうち、国内に残っていた者は地方に追放され、その結果、5人の子供と14人の孫が虐殺された。当初は、シハヌーク自身も殺されそうになったものの、中華人民共和国政府が政治的理由からポル・ポトらに圧力をかけたために殺されずに済んだ。しかし、王宮内でもポル・ポト信奉者と化したナリンドラポンが両親を非難し続け、シハヌークは「いつ殺されるか」という強迫感も相まって、精神的に追い詰められていった。
シハヌークは病気療養を理由に海外出国を望んだがクメール・ルージュに拒絶された。それでも彼は懇請を続けた結果、1976年4月に国家元首の辞任が認められ(後任の国家元首〔国家大幹部会議長〕はキュー・サムファン)、以後王宮内に幽閉されたシハヌークは外の様子を知る事ができなくなり、国際社会には消息が伝えられなくなった。
1978年1月、ポル・ポトはカンボジア東部からベトナム領内を越境攻撃し現地住民を虐殺した。1978年12月25日、ベトナムはヘン・サムリンやフン・センを指導者とする越境難民をカンプチア救国民族統一戦線として親ベトナムの軍を組織、カンボジア国内の反ポル・ポト派とも連携し、カンボジア国内に攻め込んだ。1979年1月7日にカンボジアに侵攻したベトナム軍がプノンペンに迫ると、ポル・ポト首相はシハヌークを呼び出し、国際連合安全保障理事会においてベトナム軍の不当性を訴えるよう要請した。シハヌークはようやく、家族や側近と共にカンボジアを出国したのである(イエン・サリ、キュー・サムファンはシハヌーク単独での出国を主張したが、ポル・ポト自身が家族同行を許可したという)。
しかしベトナムの影響を強く受けたヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)が成立し、クメール・ルージュ軍およびポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、タイ領内からの越境攻撃も行いつつ、以後も反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。1981年9月4日にポル・ポトとシアヌークおよび右派自由主義のソン・サンの3派による反ベトナム同盟を結んだ。
王制復活
その後1989年にベトナム軍はカンボジアから撤退し、1992年3月に、国際連合による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が平和維持活動を始め、1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、シハヌークの次男ラナリット王子の率いるフンシンペック党が第一党となった。なおポル・ポト派はこの選挙に参加せず、新しい連立政権と戦い続けたが9月には制憲議会が新憲法を発布、新憲法では立憲君主制を採択し、シハヌークが国王に再即位した。
1994年にクーデター未遂事件が発生したが、これを最後に国内はおおむね平定された。1998年4月には、中華人民共和国や北朝鮮からの支援も途絶え、カンボジアの辺境にわずかに残ったポル・ポト派支配地域のみを統治していたポル・ポトが死んだことが明らかとなり、この地も平定された。
退位
2004年10月29日に退位し、息子のノロドム・シハモニ王子(母は第6夫人モニニヤット王妃)が国王となった。以降は自身の癌治療のため、数ヶ月毎に北京を訪れる生活を送っていたが[4]、2012年10月15日に心不全のため逝去[5]。テンプレート:没年齢。
国葬
2013年2月1日から一連の国葬の儀式が始まり、2月4日には日本の秋篠宮や各国の首脳などが参列し、秋篠宮はシハモニ国王やフン・セン首相を弔問した。儀式は7日まで行われた[6]。
評価
カンボジアの混乱した歴史の中、シハヌークは2度に渡り王になり、1種類の大統領、2種類の首相のほか、職名のないカンボジア国家元首など、多数の地位と同様に様々な追放された政府のリーダーになった。そこで、ギネスブックは、シハヌークを「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家である」と認定している。
また、カンボジアで発行されている複数のリエル紙幣で肖像が使用されている。
家族
- パット・カニョル妃(1920年 - 1969年、後に離婚)
- ボパ・デヴィ王女(1943年 - )元文化芸術相
- ラナリット王子(1944年 - )元下院議長
- シソワット・ポンサンモニ妃(1929年 - 1974年、1951年離婚)
- ユワニヤット王子(1943年 - )
- ラクウィウォン王子(1944年 - 1973年)
- チャクラポン王子(1945年 - )ヘン・サムリン政権で副首相を務めた。
- ソリヤ・ルアンシー王女(1947年 - 1976年)
- カンタ・ボパ王女(1948年 - 1952年)
- ケマヌラク王子(1949年 - 1975年)
- ボトゥム・ボパ王女(1951年 - 1976年)
- シソワット・モニケッサン妃(1929年 - 1946年)
- ナラディポー王子(1946年 - 1976年)
- ノロドム・ノルレアク妃(1927年 - 1955年)
- マニヴァン・ファニウォン妃(1934年 - 1975年)
- ソチェアタ・スジャータ王女(1953年 - 1975年)
- アルンラズメイ王女(1955年 - )
- ノロドム・モニニヤット・シハヌーク妃(旧名:パウル・モニク・イッジ妃、1936年 - )
- シハモニ王子(1953年 - )現国王
- ナリンドラポン王子(1954年 - 2003年)
関連項目
脚注
外部リンク
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- ↑ ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房
- ↑ エール大学 US Bombing Points in Cambodia 1965-73:http://www.yale.edu/cgp/us.html
- ↑ Los Angeles Times 30.March.1970
- ↑ Sihanouk Delays Return From China
- ↑ シアヌーク前国王死去 カンボジア国民統合の象徴 共同通信社 47NEWS 2012年10月15日閲覧
- ↑ カンボジアでシアヌーク前国王の国葬 NHK NEWSWEB 2013年2月5日閲覧