細川澄元
テンプレート:基礎情報 武士 細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。
生涯
出生
延徳元年(1489年)、細川氏の庶流である細川義春(細川頼之の弟である細川詮春の子孫)の子として生まれた。父の義春は阿波守護を務めていたが、澄元が9歳の時に死去した為、祖父の成之に養育された。
澄元の生まれた阿波細川家(詮春流)は細川氏の支族であり、相伴衆の格式でもあった。一方で本家の細川京兆家当主細川政元は当時管領として幕府で重きを為していたが、独身を貫き子が無かった為、摂関九条家からの養子・聡明丸(のちの細川澄之)を家督継承者としていた。しかし、政元は聡明丸と折り合いが悪く、文亀3年(1503年)5月に聡明丸を廃嫡し、六郎(澄元)を養嗣子として迎え入れた[1][2]。同年に元服、第11代将軍・足利義澄より偏諱を受けて澄元と名乗る。この際に京兆家の家督継承者に付けられる「元」の字を与えられていることから政元より嫡子(後継者)と見なされていたことがわかる(逆に廃嫡された聡明丸改め澄之には「之」の字が与えられている)。
こうして政元の後継者となった澄元は永正3年(1506年)から永正4年(1507年)にかけて、政元の命令で澄之と共に丹後の一色義有を攻めたが、敗北している[3]。
永正の錯乱
政元の後継者は一応澄元となっていたが、澄元を養子にした後に更に細川氏の一族である野州家より細川政春の子・高国を養子に迎えるなど、3人の後継者候補が並立する状態となってしまっていた。そんな中、永正4年6月23日、政元が香西元長や薬師寺長忠ら澄之の支持者によって暗殺されたことがきっかけとなって永正の錯乱が発生した。澄元も翌24日に澄之の家臣に屋敷を襲われ、三好之長と共に近江青地城に逃れ、甲賀の山中為俊を頼って逃走した[4]。そして近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、2日には将軍・足利義澄に対して細川家の家督継承を承認させたのである[5]。
ところが澄元は若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなり始め、澄元は之長と対立して一時は阿波に帰国しようとした[6]。この時には足利義澄の説得もあって帰国はとどまっている。8月27日に家臣の赤沢長経を大和へ派遣、大和を制圧した。
このような京都における一連の内乱が、周防に流れていた第10代将軍(前将軍)・足利義尹(義材より改名)のもとに知らされると、義尹は大内義興に擁立されて上洛を開始する[7]。澄元は義興との和睦を画策したが[8]、同じく政元の養子で澄之討伐に協力した細川高国が大内方に寝返ったため、決裂してしまった。
両細川の乱
永正5年(1508年)4月、高国が京都に侵攻を開始する。この時、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正、河内の畠山尚順らも呼応したために澄元は敗北し[9]、之長や将軍・足利義澄と共に4月9日に山中為俊を頼って近江に逃れた[10]。そして6月、足利義尹が大内義興に擁されて上洛すると、やがて将軍職に復帰した義尹によって澄元の家督は剥奪され[11]、代わって高国の家督継承が承認されることとなった。8月に大和に残った赤沢長経も畠山尚順に討たれた。
ところが大内義興と義尹が対立し始めたため、澄元と之長は永正6年(1509年)に京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北(如意ヶ嶽の戦い)し澄元と之長は阿波に逃走する[12]。
永正8年(1511年)には義澄、義兄弟の細川政賢(細川典厩家当主)と連携して深井城を攻め(深井城の合戦)、一方では鷹尾城を攻め(芦屋河原の合戦)、その後京都に侵攻し船岡山の戦いとなる。しかし船岡山の戦い以前に義澄が病死したこともあって、大内義興の反撃を受けて大敗を喫し、政賢は戦死し、澄元は摂津に逃走した[13]。
永正15年(1518年)8月、大内義興が周防に帰国すると、永正16年(1519年)に澄元と之長は摂津に侵攻(田中城の戦い)する。永正17年(1520年)1月に入ると、澄元に呼応して山城で土一揆が発生し、さらに将軍・足利義稙(永正8年(1513年)、義尹より改名)も澄元に通じて裏切ったため、細川高国は単独で近江坂本に逃れた。これにより、澄元政権が成立する[14]。
ところが5月、高国は大軍を集めて京都に侵攻する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず[15]、之長は等持院の戦いで敗北し捕らえられて自害させられ、澄元も摂津伊丹城に敗走し、政権は短期間で崩壊した。そして失意のうちに病に倒れた澄元は、まもなく高国の攻撃を受けて播磨に逃走し、最終的には永正17年(1520年)6月10日に阿波勝瑞城にて死去した[16]。享年32。
子孫
澄元の死後、嫡男の晴元が家督を継いだ。晴元は三好之長の孫・元長と共に再び畿内へ上陸し、高国を討ったが、高国の養子・氏綱(政賢の義孫)との戦いが続き、その最中に元長の子・長慶が氏綱方についた為、敗北している。子孫は豊臣家中を経て三春藩の家老となった(曾孫の細川元勝の項を参照のこと)。
注釈
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉14頁。
- ↑ 澄元が選ばれた背景として、澄元の父である義春が明応3年(1494年)に山城守護職を伊勢貞陸と争って敗れて以来、死ぬまで政元に反抗的な態度を取り続けていたため、京兆家(細川氏本家)と阿波細川氏の結合を回復させる動きがあったとされている(古野貢「室町幕府―守護体制と細川氏権力」(初出:『日本史研究』510号(2005年)/改題所収:「京兆家-内衆体制」古野『中世後期細川氏の政治構造』(吉川弘文館、2008年)第二部第四章)。
- ↑ 敗北の理由は、澄之が敵の一色方と内通して落城を装い、兵を退いたためである。澄之は自身が廃嫡されたことを許せるはずもなく、のちの政元・澄元の暗殺計画に黒幕として関わることとなる。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉17頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。
- ↑ (『宣胤卿記』)『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉19頁。
- ↑ 澄元は義澄に義稙との和睦を勧めた。『三好長慶』〈人物叢書〉19頁。
- ↑ 他に奈良元吉、天竺上野介、寺町通隆、香西国忠、香川元綱、長塩元親などが高国に呼応したが、これは澄元が彼らを疑って重用しなかったためという。『三好長慶』〈人物叢書〉20頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉20頁。
- ↑ 家督剥奪に関しては5月6日ともいう。『三好長慶』〈人物叢書〉21頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉21頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉21頁 - 23頁。
- ↑ 『三好長慶』〈人物叢書〉24頁 - 30頁。
- ↑ 高国は4万に対して澄元は5000(2000とも)ほどだったという。『三好長慶』〈人物叢書〉30頁。
- ↑ (『応仁後記』『細川系図』『細川両家記』『諸家系図纂』)『三好長慶』〈人物叢書〉34頁。