吉田善吾

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テンプレート:基礎情報 軍人 吉田 善吾(よしだ ぜんご、明治18年(1885年2月14日 - 昭和41年(1966年11月14日)は、日本海軍軍人海軍大将正三位勲一等海軍大臣連合艦隊司令長官を歴任した。

経歴

佐賀県出身。農業、峰与八の四男。米屋、吉田祐次郎の養子となる。旧制佐賀中学校に進み、「誠友団」と名づけた交友団体に加入。古賀峯一はこの時以来の友人であり、同会には下村湖人もいた[1]海兵32期を192名中12番で卒業。すでに日露戦争は開戦しており、「韓崎丸」で訓練を受けた後、「春日艦長加藤定吉)附として日本海海戦に参戦した。吉田が選んだ海軍兵科将校としての専門は水雷で、第一水雷戦隊参謀などを務めている。海軍大学校は第一選抜で合格し、塩沢幸一嶋田繁太郎とは海兵、海大とも同期である。戦艦金剛」、「陸奥」の各艦長連合艦隊参謀長海軍省軍務局長、練習艦隊司令官、第二艦隊司令長官などを歴任。昭和12年(1937年12月1日からは連合艦隊司令長官を務めるが、昭和14年(1939年8月30日阿部内閣海軍大臣に就任。米内内閣第2次近衛内閣でも留任した。昭和15年(1940年)に大将に昇進。軍事参議官支那方面艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを経て、昭和20年(1945年6月1日予備役となる。

海軍大臣

吉田は部下の使い方があまり上手ではなかった[2]。同期の山本五十六は、吉田の大臣就任に際し、吉田の将来を危惧し海軍次官留任を申し出たが、山本は連合艦隊司令長官として海上に出ることとなった。しかし後任の住山徳太郎は山本や井上成美のように強力に吉田を補佐できるタイプではなかった[3]。閣内でも外相蔵相がともに三国同盟反対だった米内の海相当時と違い、第2次近衛内閣の松岡洋右外相は熱心な三国同盟推進派であり、吉田は心労をつのらせる。周囲は辞任を勧めたが、吉田は自らの辞任が国際関係に悪影響を及ぼすことを避けるべく、職務に励み続けた[4]。しかし限界を迎え、日独伊三国同盟の締結直前に病気により辞任した。自殺未遂という説もある[5]。後任の海軍大臣及川古志郎は三国同盟に同意した。なお吉田は消極的ではあったが、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」や、出師準備の発動を認めている[6][7]

家族・親族

年譜

出典

  1. 『最後の砦』p.124
  2. 『井上成美』資料pp.302-303
  3. 『五人の海軍大臣』「吉田善吾」
  4. 『回想の海軍ひとすじものがたり』pp.119-120
  5. 『日本海軍、錨揚ゲ』「第14話 米内・山本・井上トリオ」
  6. 『新版 米内光政』pp169-175
  7. 『四人の軍令部総長』「永野修身」

参考文献

  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版 ISBN 4-8295-0003-4
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 半藤一利横山恵一、秦郁彦、戸高一成『歴代海軍大将全覧』中公新書ラクレ ISBN 4-12-150177-2
  • 実松譲『新版 米内光政』光人社、1975年
  • 実松譲『最後の砦 提督吉田善吾の生涯』光人社、1979年
  • 福地誠夫『回想の海軍ひとすじ物語』光人社 ISBN 4-7698-0374-9
  • 井上成美伝記刊行会編『井上成美』同刊行会
  • 吉田俊雄『五人の海軍大臣』文春文庫 ISBN 4-16-736002-0
  • 吉田俊雄『四人の軍令部総長』文春文庫 ISBN 4-16-736004-7

関連項目

先代:
永野修身
連合艦隊司令長官
第25代:1937 - 1939
次代:
山本五十六
先代:
米内光政
海軍大臣
1939年 - 1940年
次代:
及川古志郎

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