フォード・コスワース・DFVエンジン
フォード・コスワース・DFVエンジン(Ford cosworth DFV engine)はフォードの資金提供を受けたコスワースによって製作されたフォーミュラ1 (F1) 用エンジン。DFVエンジンはF1で一線を退いてからもF3000用のエンジンとして長きに渡り用いられた。F1での通算成績は155勝。
目次
性能・主要諸元
- V型8気筒エンジン、DOHC4バルブ、自然吸気2,993cc
- バンク角 90度
- ボア×ストローク 85.6×64.8mm
- 最大出力 408hp/9,000rpm(1967)、415hp/9,500rpm(1968)、430hp/10,000rpm(1969-1970)、510hp/11,200rpm(後期)
- 最大トルク 33.8kg·m/8,500rpm(初期)、37.3kg·m/9,000rpm(後期)
- 重量 161kg(初期)、154kg(後期)
記録
- F1での優勝回数 155回
- 初優勝 1967年オランダGP
- 最後の優勝 1983年アメリカ東GP(エンジン名はDFY)
- ドライバー ミケーレ・アルボレート
- コンストラクター ティレル・フォード
- 総合優勝(ドライバー)12回
- 1968年,1969年,1970年,1971年,1972年,1973年,1974年,1976年,1978年,1980年,1981年,1982年
- 総合優勝(コンストラクター)10回
- 1968年,1969年,1970年,1971年,1972年,1973年,1974年,1978年,1980年,1981年
- ただし、ドライバー、コンストラクターのタイトルはエンジンメーカには与えられない。
歴史
DFVエンジンの誕生
DFV は、1966年のレギュレーション変更でエンジン排気量が以前の1.5Lから2倍の3.0Lに拡大された事への対応で新規開発された。
準備期間が短かったため、各コンストラクターは大排気量レーシングエンジンの確保に苦労し、フェラーリはスポーツカーで使用中のV型12気筒(V12)をスケールダウンして流用、ホンダも V12 と適合する車体(ホンダ・RA273)の開発に手間取り、シーズン開始に間に合わず途中からの参戦になった。
また BRM は、180度 V8(水平対向ではない)を2段重ねにしたH型16気筒を持ち込んだが、重量過大と信頼性欠如で苦戦した。クーパーに至っては1960年に撤退したマセラティの直列6気筒 2.5L を再使用したが、親企業の交代による混乱もあり通用しなかった。
ブラバムは軽量なトヨタ・クラウンエイト用アルミブロックも検討したが強度不足で却下し、ローバー・P6 やレンジローバー用に輸入されていたオーストラリアの GM ホールデンの OHV V8 スモールブロックを基に、レプコのフランク・ハラムと、フリーのエンジン技術者フィル・アービングがクロスフローの SOHC ヘッドを架装したエンジンを自主製作した。軽量でトルクがあり信頼性の高いレプコ・ブラバムは、ライバル達の混乱を後目に1966~1967年シーズンを連覇したが、専用開発中の 3.0L レーシングエンジンが本格化するまでの暫定的なものでしかなかった。
初年に BRM H16 のトラブル多発に懲りたロータスの総帥コーリン・チャップマンは、同社のエンジン部門に居たマイク・コスティンとキース・ダックワースが分家の形で独立した、新興エンジンメーカーのコスワースに 3.0L F1 専用エンジンの開発を依頼。ダックワースは、当時 F2 用に開発中の直列4気筒 1.6L の「 FVA(Four Valve type A)」エンジンを結合して V8 化したものを、FVA と平行開発する構想を持っており、名称は「Double Four Valve」の頭文字を取り「DFV」となった。
ところが当時コスワースは資金難で、開発費を負担してくれるスポンサーを求めていた。1963年からロータスはイギリス・フォードのコーティナに同社製 DOHC エンジンを搭載したホットバージョン、ロータス・コーティナを受託生産しており、チャップマンが英フォードで懇意のウォルター・ヘイズらにコスワースへの協力を打診した結果、DFVの開発費を提供することになり、DFV にはフォードのバッジネームが付いてフォード・コスワース・DFVの名で呼ばれた。また米フォード本社は当時モータースポーツに高い関心を寄せており、F1 進出のためフェラーリの買収を企図したもののエンツォ・フェラーリに拒否され失敗したばかりで、英フォードの DFV 計画にも積極的であったという。
ダックワースはマルチバルブの考察を更に進め、バルブ挟み角の小さいペントルーフ型燃焼室による高圧縮化・急速燃焼と、シリンダー内の縦の渦流(タンブル流)を利用した充填効率の向上により、レーシングエンジンで高出力と低燃費を両立させる事に初めて成功、これを DFV に適用した。
デビュー
1967年にロータスの新型ロータス・49でオランダGPから実戦投入されたDFVは、フェラーリ、ホンダ、ウェスレークの V12 に比べて出力では若干劣ったが、トルクバンドが広く小型軽量で低燃費、ストレスメンバーとしての搭載を前提にしていた事からシャシーとの相性も良く、初戦にも関わらずグラハム・ヒルがポールポジションを獲得、決勝レースでは同ロータスのジム・クラークが優勝し、DFV はデビューウィンをPPで飾ってF1の世界に新風を巻き起こした。
DFV の期待以上の活躍を喜んだフォードは、独占供給継続を望むロータスを振り切り、翌1968年シーズンから DFV の市販を開始した。同年ロータスは初のメイクスタイトルを獲得したが、その後は DFV の1ユーザーの立場になり、優位性を失った。
DFV絶頂期
フォードがDFVエンジンを市販し始めたことは、F1の勢力図に大きな変動をもたらした。低予算のコンストラクターがDFVと市販のシャーシーを購入し、数名のメカニックを雇っただけのチーム形態でグランプリへ参加することを可能にした。さらにV8というコンパクトなエンジン形式を採用した事により、V12などの多気筒エンジンに比べはるかにメンテナンス性に優れていた。こうしたコンストラクターとしてマクラーレン、ティレル、ウィリアムズ、アロウズなどがある。
こうしたコンストラクターが増えたことで、相対的にワークスがGPに踏みとどまっている必要性が薄くなってきたため、ワークスの撤退が相次ぎ、BRMが撤退すると一時期はフェラーリ以外は全て、DFVユーザーという状態になった。
技術面に関しては、エンジンとシャーシーにおいてマシーンの平均化が進んだ事から、他のコンストラクターに打ち勝つ要素として、空力に対してのR&Dが進んだ。今日私達が目にするような整流機能やダウンフォースを得るためのウィングがマシンに取り付けられるようになったのもDFVエンジンが市販されたのと同じ1968年のことである。またウィングカーや右に示すような6輪車など非常にユニークなクルマも造られた。
DFVはエンジンの性能が高く、F1の勢力図を大きく塗り替えた。DFVは改良を重ねられ1991年までの長きにわたり参戦し、F1から撤退するまでに実に155勝を挙げた(1987年からは3.5L化された)。これほどの成功を収めたレーシングエンジンは他になく、DFVはまさしくグランプリに輝く金字塔である。
DFVのライバル
DFVは1968年から1974年までの7年間ドライバーズとコンストラクターズのタイトルを独占し続けた。この間ほぼ唯一の非DFVコンストラクターであるフェラーリはグランプリの隅に追いやられ続けた。1960年代を通してフェラーリは経営が悪化しフィアットの傘下に入るなど最も低迷した時期になった。
フェラーリがDFVに対してコンペティティブになれたのは、1970年代に入って水平対向12気筒エンジン、ティーポ015 3.0L F12、通称ボクサーの開発に成功してからだった。以降1970年代の終わりにルノーがターボエンジンを持ち込むまでボクサーのみがDFV唯一のライバルであり続けた。1974年にニキ・ラウダがフェラーリに加入すると、翌75年にはドライバーズとコンストラクターのタイトルを奪回することに成功した。これに対抗するため、細部の仕様変更(マグネシウム鋳造パーツの採用等含む)を施した発展型DFVが1977年にマクラーレン、ロータス、ティレル、ウルフに供給された。
低迷と復活
デビューから10年近くも経ち、DFVもフェラーリやアルファロメオのパワフルな水平対向12気筒エンジンに苦戦を強いられることが多くなった。 その頃、DFV誕生の立役者であるロータスがグランプリに革命を起こす。 ロータスが1977年に投入したロータス・78はグラウンド・エフェクト・カーの先駆けとなり、以降グランプリは強力なダウンフォースが得られるグラウンド・エフェクト・カーが主流となる。 フェラーリやアルファロメオの大型の水平対向12気筒エンジンはサイドポンツーンから抜ける気流を乱し十分なグラウンド・エフェクトを得ることができなかった。 一方、DFVはいわゆる「葉巻型」のロータス・49のために開発された経緯からモノコック径とほぼ同じサイズであり、グラウンド・エフェクト・カーに最適なエンジンとして競争力を取り戻した。
DFVの退潮
DFVに終焉をもたらしたのはターボエンジンの登場であった。F1のレギュレーションにはそれ以前から過給器付き(規則の原文は'supercharged')エンジンの規定が設けられていたが、それに目をつけたルノーが1977年にターボエンジンを持ち込んだ。ターボはスーパーチャージャーではないが、使用が黙認された[1]。初期のルノーはターボエンジン特有の「ターボラグ」に悩まされ、またエンジンブローも頻発したため、DFVユーザーの敵にはならなかった。しかし、1979年フランスグランプリで初優勝を挙げた頃から、各メーカー、チームは次第にターボエンジンの潜在力と性能に目を向けるようになっていった。
1980年代に入ると、ルノーに続いてBMWがターボエンジンの供給を開始した。翌1981年にはフェラーリがターボエンジンへの切り替えに踏み切り、1983年にはホンダとポルシェもターボエンジンの供給を開始した。大メーカーがターボエンジンの供給を始めると、次第にDFVが活躍する幅は狭くなっていった。各チームは戦闘力に勝るターボエンジンを求めるようになり、ターボエンジンを得られずDFVを使用するチームは徐々に下位に沈んで行った。
それでも1982年のグランプリではDFVエンジンを搭載したウイリアムズのケケ・ロズベルグが総合王者になったが、DFVの栄光もここまでであった。翌1983年のシーズンではフラットボトム規制が施行され事実上グラウンド・エフェクト・カーは参加できなくなったこともあり、BMWターボエンジンを搭載した、ブラバムを駆るネルソン・ピケが総合王者になり、DFVエンジンは遂に王座から陥落した。
グランプリからの退場
コスワースもDFVの改良を続け、1983年にはDFVのショートストローク版と、それを基に更に改良を施したDFYを投入した。このエンジンはデトロイトで開催されたアメリカ東GPでティレルのミケーレ・アルボレートのドライブにより勝利を挙げることに成功した。しかし、この優勝がDFVシリーズにとっての155勝目、すなわち最後の優勝となった。
DFV(DFY)は競争力に欠けるようになり、1985年の中盤までにはDFV(DFY)を使用していたチームも全てターボエンジンに切り替えられた。第10戦のオーストリアGPでティレルのマーティン・ブランドルがDFYを使用し、予選不通過に終わったのを最後に、3000ccのDFV(DFY)はF1から姿を消した。
1987年に自然吸気車の排気量上限が3500ccになると、コスワースはDFVの排気量を上げたDFZエンジンでF1に復帰するが、DFZとその改良モデルのDFRでは勝利を挙げることは無かった。
コスワースが再びF1で勝利を収めるのは、新設計のHBエンジンを使用した1989年日本GP(アレッサンドロ・ナニーニ)、チャンピオンを獲得するのはさらに新たなエンジンであるZETEC-Rエンジンを使用した1994年(ミハエル・シューマッハ/ベネトン)のことである。
DFVの発展形エンジン
F1で一時代を築き上げたDFVエンジンは、F1での活躍の場を失ってからも、様々な手を加えられながら他のカテゴリで使われ続けた。
F3000
先ず、F2に代わって1985年から始まったF3000エンジンとして使用され始めた。中でもヤマハは独自にDFVエンジンを5バルブ化したコスワース・ヤマハOX77エンジンを開発し、1988年には鈴木亜久里が全日本F3000選手権のチャンピオンを獲得するのに貢献した。 また全日本F3000ではそれ以降もケン・マツウラレーシングサービスチューンのDFVが活躍を続け、1991年には片山右京、1993年には星野一義がチャンピオンを獲得している。
インディカー
またアメリカのCARTでもDFVエンジンをショートストローク化し、ターボチャージャーを装着したDFXが用いられ、さらに改良型のDFSも存在した。
グループC
1980年代のグループC用にも転用され、DFLという名前が付けられた。DFLには当初、DFVのボアアップ版の3.3L、ストロークアップ版の3.6L、ボア/ストロークアップ版の3.95Lの3種類が想定されていたが、実際には3.3Lと3.95Lの2種類が使われた[2]。 DFLの3.3L版には後にターボが付加されたが、このターボ版では強度に勝るDFX用のシリンダーが転用されていた。 DFLの3.3L版は、1987年のF1モナコGPにてレイトンハウス・マーチのスペアマシンにも搭載されている。
タスマン・チャンピオンシップ
1967年にオーストラリアとニュージーランドで行われた「タスマン・チャンピオンシップ」用に、DFVを54mmまでショートストローク化した2.5L仕様の「DFW」が製作され、ロータス49Tに搭載された。 DFWはタスマン・チャンピオンシップ終了後、全てDFVの標準ストロークへ戻されている。
F1
DFY
1983年シーズン中に投入されたエンジンで、ショートストローク版のDFVを改良したものである。ボア、ストロークは90.0mm×58.8mmである[3]。また、バルブ挟み角やポート形状などが変更され、ショートストローク版に対しては最高出力こそ変わらないものの中間回転域でのパワーに勝り、11,000rpmで520馬力を発生した[3]。
性能・主要諸元
- V型8気筒エンジン、DOHC4バルブ、自然吸気2,993cc
- バンク角 90度
- ボア×ストローク 90.0×58.8mm
- 最大出力 520hp/11,100rpm
- 最大トルク 38.7kg·m/9,000rpm
- 重量 139kg(初期)、132kg(後期)
DFZ
1987年にF1で自然吸気エンジンの規定が3.5Lとして復活すると、同年にDFVをベースとして排気量を拡大したDFZの市販を開始した。DFVのショートストローク版で使用された90mmのボアを持つブロックをベースとし、68.6mmのストロークを組み合わせたものだった。最高出力はさらに上がって575馬力となったが、ホンダやポルシェといったターボエンジン勢が軒並み1,000馬力近いパワーでしのぎを削っていたため、とても競走できるレベルではなかった。
このエンジンには、DFVで使用されていた機械式燃料噴射に代わり、電子制御式燃料噴射が採用された[3]。
DFR
DFRはDFZを基に改良を施したエンジンで、1988年にエンジンワークスチームであったベネトンに独占供給された。初期のテスト段階のエンジンには気筒あたり5バルブのヘッドが組み合わされていた[3]が、採用は見送られた。 DFRは1989年にDFZに代わって市販され、1991年まで使用された。この年を以って、DFVの系譜を継ぐF1エンジンは終焉を迎えた。
DFVが生んだ名チューナー
DFVが市販されたことで、よりポテンシャルを発揮できるよう、コスワースとは別個でエンジンのチューニングを行うようになった。これにより、ジョン・ジャッド、ハイニ・マーダー、ブライアン・ハート、ジョン・ニコルソンなどの名チューナーが生まれた。 特にジョン・ジャッドはエンジン・デベロップメント社(ジャッド)を、ブライアン・ハートはハート・エンジニアリング社を創業し、チューナーだけでなく独自開発のエンジンを送り出していった。
ジャッドはホンダと共同開発したインディ用V8をベースにして1988年に市販したV8自然吸気エンジン「CV」を皮切りに、「EV」、V10レイアウトの「GV」を供給、1993年からはヤマハとの共同でエンジンの開発を1997年まで行っていた。
ハート・エンジニアリング社は、F2でトールマンに供給した直4エンジンをベースにターボチャージャーを搭載したエンジンで1981年にトールマンとともに参戦した。すぐに専用設計の415Tを投入し、このエンジンは1985年まで供給された[4]。以降はDFRエンジンのチューニングがメインとなった。F1でDFR最後のシーズンとなった1991年はラルースに供給されるDFRをチューニングした。 1993年にはジョーダン向けにV10エンジンを新規開発し供給、1994年から1999年にかけてアロウズ・ミナルディなどにもV8やV10エンジンを供給した。