軽井沢
テンプレート:Otheruseslist 軽井沢(かるいざわ)は、長野県佐久地方にある地名である。一般的に長野県北佐久郡軽井沢町[[[:テンプレート:座標URL]]36_21_32.91_N_138_38_10.11_E_scale:10000 旧軽井沢地区]や軽井沢町全体を指す。土着の読み方では「かるいさわ」で、アクセントは平板型である。
語源
軽井沢という地名は、長野県以外にも秋田県大館市、千葉県鎌ケ谷市、神奈川県横浜市西区、青森県八戸市松館など各地に存在する。語源については、古語・方言で荷物を背負って運ぶことを「かるう」ということから、峠に続く谷間のことを呼んだという説や、枯井沢(水の枯れた沢)という説がある[1]。
歴史
江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。また、浅間山を望む景勝地としても有名であった。
※ 関連 江戸← 坂本宿 - 碓氷峠 - 軽井沢宿 - 沓掛宿 - 追分宿 - 小田井宿 →京
江戸時代が終わり明治時代に入ると、一旦は宿場町としての機能を失って没落した。しかしその後、1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーがたまたま訪問し、高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在し、故郷のトロントと似ていると感じた。
1888年(明治21年)、ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門のあっせんによって大塚山に別荘を設け、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものである。後に移築され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。
同年には信越本線の長野方面が開通して軽井沢駅が設けられた。さらに1893年(明治26年)には碓氷峠を越える区間も開通し、東京と直結した。その後、ショーと一緒に訪れた帝国大学教師ディクソン夫妻が「亀屋旅館」の佐藤万平に洋食を教え、1894年(明治27年)に軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)ができた。その後、1899年(明治32年)には「軽井沢ホテル」、1906年(明治39年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになった。
1918年(大正7年)には、堤康次郎による西武資本が、沓掛区有地坂下ほか山林60万坪を3万6千円(1坪5銭)で買収し、開発に参入した。1945年(昭和20年)には東急資本も開発に参入し、その後は東京後背地のリゾート地として発展した。
また、星野温泉の星野嘉助による星野遊学堂(1921)を中心とした文化活動や、中西悟堂と星野によるエコツーリズム「ピッキオ」の活動も軽井沢のリゾート地としての基礎を築いた一要因に挙げることが出来る。この理念は現在、星野リゾートが受け継いでいる[2]。
避暑地として
軽井沢周辺の標高は1000メートル前後であり、年平均気温は7.8℃で、札幌の平均気温(8.5℃)よりも低い。そのため避暑地として知られている。
ジョン・レノンが、ビートルズ解散後の1970年代中期から、亡くなる1980年まで、毎年のように夏に家族連れで長期間滞在していたことや、避暑地の中にある「軽井沢会テニスコート」が、1958年に皇太子明仁親王(当時)と正田美智子の出会いの場所になったことなども、広く知られている。また、ビル・ゲイツが軽井沢に別荘を建てることを予定している。
広い意味での軽井沢
よく知られた地名であるため、周辺の自治体においても「軽井沢」を名乗る場所や施設名が多数存在する。北側の群馬県長野原町には北軽井沢の地名があり、同様に群馬県嬬恋村などは「奥軽井沢」とも呼ばれる。軽井沢町の西に隣接し同じ北佐久郡に属する御代田町には「西軽井沢」の地名が存在し、施設や事業所などの名称としてもよく使われる(西軽井沢ケーブルテレビなど)。
脚注
関連項目
- 碓氷峠
- 軽井沢宿
- 北佐久郡軽井沢町
- 軽井沢温泉
- 軽井沢駅
- 旧軽井沢メインストリート
- 長野新幹線
- しなの鉄道線
- 西武高原バス(軽井沢周辺の路線バス、軽井沢から新宿駅・池袋駅、羽田空港・横浜駅を結ぶ高速バス)
- 草軽交通(軽井沢駅~草津温泉間の路線バス)
- JRバス関東(軽井沢駅~横川駅間の路線バス)
- 千曲バス(新宿駅・池袋駅~軽井沢間の高速バス、大阪・京都~軽井沢間の夜行高速バス「千曲川ライナー」)
- 中山道
- 草軽電気鉄道(現在の草軽交通)
- 堀辰雄
- 転地療養
- 前田郷
- 軽井沢検定