崇仁親王妃百合子
テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 テンプレート:日本の皇室 崇仁親王妃百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ、1923年(大正12年)6月4日 - )は、日本の皇族で、三笠宮崇仁親王の妃。旧名、高木百合子(たかぎ ゆりこ)。身位は親王妃。皇室典範における敬称は殿下。勲等は勲一等宝冠章。お印は桐(きり)。皇室会議予備議員。公益社団法人日本赤十字社名誉副総裁。
2004年の高松宮妃喜久子の薨去に伴い、現在存命中の女性皇族の中では最年長者となった。
略歴
1941年(昭和16年)、女子学習院本科(現学習院女子中等科・高等科)を卒業。同年10月3日、納采の儀を経て婚約。同年10月22日、結婚の儀。2年6ヵ月後の1944年4月26日に第一女子・甯子内親王が生まれる。その後、寬仁親王、桂宮宜仁親王、容子内親王、高円宮憲仁親王が誕生。
皇室では、1963年から[1]1967年まで皇室会議の予備議員を務め、1991年より皇室会議の議員を務めたが[2]、2007年9月より再び予備議員となった[3]。
政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「崇仁親王妃百合子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であってもホームページなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「三笠宮妃」の表記も用いられる。
宮内庁の発表(2007年7月10日)によると大腸癌が見つかり、同日、聖路加国際病院で摘出手術を受け、手術は無事成功して順調に回復中である。
栄典
家系
高木家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、江戸時代は河内国丹南藩1万石の大名であった。母・邦子は入江為守子爵の娘で、弟に侍従長・エッセイストとして有名な入江相政がいる(百合子の叔父にあたる)。入江家は藤原北家の支流・冷泉家の流れを汲み、中世の大歌人藤原俊成や藤原定家を祖先とする歌道の家だった。
なお、父の高木正得は華族制度廃止に落魄し、1948年(昭和23年)7月8日、遺書を残して失踪、11月1日に東京都と山梨県の県境にある西多摩郡氷川町(現・奥多摩町)の七ツ石山の中で白骨死体となって発見された(周囲の状況から首つり自殺を遂げたものとされた)。遺書にはインフレ等による生活苦がつづられており、生活力の無い華族が一市民として敗戦後の混乱する社会に放り出されたことによる悲劇として世間の同情を誘ったという。
子女
- 第1女子-甯子内親王(やすこ:1944年(昭和19年) - ) - 近衛忠煇夫人
- 第1男子-寬仁親王(ともひと:1946年(昭和21年) - 2012年(平成24年))
- 第2男子[5]-宜仁親王(よしひと:1948年(昭和23年) - 2014年(平成26年)) - 桂宮
- 第2女子[6]-容子内親王(まさこ:1951年(昭和26年) - ) - 裏千家家元・千宗室夫人
- 第3男子[7]-憲仁親王(のりひと:1954年(昭和29年) - 2002年(平成14年)) - 高円宮
脚注
テンプレート:Imperial-stub- ↑ 1963年(昭和38年)9月19日宮内庁告示第6号「皇族たる皇室会議の議員及びその予備議員の互選において当選した件」
- ↑ 1991年(平成3年)9月10日宮内庁告示第7号「皇族たる皇室会議の議員及び予備議員の互選において当選した件」
- ↑ 2007年(平成19年)9月12日宮内庁告示第9号「皇族たる皇室会議の議員及びその予備議員の互選において当選した件」
- ↑ 『官報』第4438号、「叙任及辞令」1941年10月23日。
- ↑ 1948年(昭和23年)2月11日宮内府告示第3号「崇仁親王妃百合子殿下御分娩親王御誕生」
- ↑ 1951年(昭和26年)10月23日宮内庁告示第11号「内親王御誕生の件」
- ↑ 1954年(昭和29年)12月29日宮内庁告示第8号「崇仁親王妃百合子殿下親王御出産」