若松市政
テンプレート:Infobox プロレスラー 若松 市政(わかまつ いちまさ、1942年1月1日 - )は、日本の元プロレスラー、マネージャー、現政治家(北海道芦別市議、現在4期目[1])である。北海道函館市出身。
来歴
中学卒業後電気技師の資格を取得し電気技術者を務めた後に「自分を試す」ということで港湾荷役作業者へ転職した後、1972年に国際プロレスに一般社員として入社。リング運搬や会場整備の傍らトレーニングに励み、翌1973年9月29日、31歳にして大位山勝三との試合でプロレスラーとしてのデビューを飾る。1981年に国際プロレスが崩壊すると貯めた資金を元手にカナダへ渡り、大剛鉄之助のブッキングで悪役マネージャーのショーグン・KY・ワカマツ(Shogun KY Wakamatsu)として活躍[2]。ヒロ・サイトー、ザ・コブラ、バッドニュース・アレン、ロン・スター、マイク・ショーなどのヒール勢をマネージメントし、彼らと組んで試合にも出場、ミスター・ヒト、アーチー・ゴルディー、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ブレット・ハートとも対戦した[3][4]。
日本に帰国後、1984年8月よりストロング・マシーン軍団の悪役マネージャーとして新日本プロレスに参戦し悪党人気を博し、マシーン軍団解散後はアンドレ・ザ・ジャイアント、ケンドー・ナガサキ、ミスター・ポーゴの悪役マネージャーを務めた。1990年のSWS設立に際しては選手獲得等に動いたと言われ、SWS旗揚げ後は同団体内の道場である「道場・檄」の道場主に就任、ブッカーとして活躍、レスラーとしてもリングに上がっている。SWS崩壊後は、他のプロレス団体に参戦しつつ、1994年北海道に「道産子プロレス道場 元気」を設立した。
また高野拳磁が主宰していたPWCにも協力。何かを念じただけで相手が吹き飛ばされる「空気投げ」を実現させた。次第にその「宇宙パワー」は増強されていき、リング上で座禅を組み腕を広げただけで相手を悶絶させ、ついには指一本触れることなく失神に追い込んで勝利したこともある。公式記録は「大いなる宇宙のパワーによりKO勝ち」。
1999年、芦別市の市議会議員選挙において当選、市会議員となった。その後は目立ったプロレス活動はしていないが、北海道でのインディー興行で挨拶したり、「道場・檄」時代からの縁で畠中浩旭の「ASIAN SPORTS PROMOTIONS」興行に選手として参戦して、健在ぶりをアピール。
2007年12月31日に後楽園ホールで行われたプロレスサミットでは、芸タッグランブルに大日本プロレスのグレート小鹿とのタッグで出場し、勝利を収めた。
エピソード
- 悪役マネージャーとしてブレイクしたが、元来非常に真面目な人物である。国際プロレス時代にはレスラーとしてデビューした後も資材運搬やレフェリングを行い、資金や人材面で苦労した団体のために尽力していた。1980年には海外修行が予定され、7月20日の「'80ビッグ・サマー・シリーズ」芦別大会で菅原伸義との壮行試合が行われたが、国際プロレスがすでに経営難であることを分かっていた若松は海外修行を断り、国内に残留してレスラーと営業の二足のわらじで団体の立て直しに奔走することになった[5]。
- 国際プロレス時代は、結婚後は北海道に妻子を残し、単身赴任状態で埼玉県大宮市にあった合宿所に住み込みながら巡業に参加していた[6]。
- 1976年9月13日早朝、大分県での資材運搬中に、台風のための土砂崩れにより家財道具を持ち出している家族に遭遇した。トラックを停めて作業を手伝ったところ、偶然、災害取材に来ていたNHKスタッフがその姿を見つけて、「プロレスの選手も地元民に応援して、必死の作業を続けております」と現場中継し、若松の姿が全国で放映された。しかし、本人は夢中で作業を手伝っていたため、後日関係者から聞かされるまで、放映されたことを知らなかったらしい。
- 1981年3月25日、東京12チャンネル(現:テレビ東京)によるテレビ中継最後のシリーズとなった「'81スーパーファイトシリーズ」最終戦岩手県陸前高田大会終了後に急性膵臓炎でダウンし緊急入院。4月2日に退院したが、その足で宣伝カーで一関市に乗り込んで次期シリーズである「'81ビッグチャレンジシリーズ」(5月13日に一関市体育文化体育館で開催)のポスター貼りをやった上で、単身運転し続けて東京まで戻った。
- 新日本プロレス参戦時には、白や赤のコスチュームにサングラス、手にはムチと拡声器をトレードマークに暴れ回り、観客から巨大な「帰れ!」コールを受けるのが常だったが、それを逆手にとってコスチュームの背中に「K A E R E」の五文字を刺繍した。悪役ではあるがコミカルなキャラクターで、試合中は拡声器を通じて観客に悪役然としたセリフをがなり続け、「ハゲ」と野次られると「お前もいつかハゲるんだ!」と切り返すなどトークに軽妙さがあった。またアントニオ猪木に言い放った「お前を倒すのに3分もいらねぇ、5分で充分だ!」という台詞は語り草になっている。
- 新日参戦時の1985年に「俺はKYワカマツだ 檄!」というレコードを出した事がある。レコードジャケットには「歌、若松市政」とあるが、内容はラップに近く、歌詞は「お前ら! 親孝行しろ」など真面目な内容だった。
- 新日参戦時、レスラーとしてメインを務めたことがある(猪木&上田組vsアンドレ&ワカマツ組)。その時実況をしていた古舘伊知郎には「シンデレラ中年」と呼ばれた。
- 新日参戦時、マネージャーであるにも関わらず試合中にリング上にあがることがあった。レフェリーである山本小鉄と殴り合いになり歯を折られた。レフェリーがマネージャーを殴るという前代未聞の出来事だった。
- リングネームの「KY」とは、カナダにKYという悪いジェネラルがいたらしく、それからスチュ・ハートが命名したものである[5]。
マシーン軍団
将軍KYワカマツとして手がけたレスラーの中で最も著名なのが「ストロング・マシーン」および「マシーン軍団」である。「ストロング・マシーン」は将軍KYワカマツに操られているとの設定で1984年8月24日に後楽園ホールに初登場。最初は一人だったが「増殖」し、戦慄の殺戮マシーン「ザ・ストロング・マシーン1号、2号」の二人組となり、最終的には1号から4号まで存在した。当時実況を担当していた古舘伊知郎はこのギミックがお気に入りだったのか、「悪の羊飼い」など数々の名言で形容されている。詳細は古舘伊知郎を参照。
1 - 4号の見分け方は、2号は胸毛が生えており、頭髪がちぢれ毛である、3号はシューズを深く隠すように着用している、4号は上半身がたるみ気味、などである。
1号の正体は平田淳嗣だが、外見上は全く同じで見分けがつかないため、試合中にレフェリーの眼を盗んで入れ替わるトリックプレイを得意とした。マシーン軍団初期には、平田と同じくカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにて海外修行を行っていたヒロ斎藤も行動を共にしていた。
2号は力抜山のリングネームで新日本に参戦し、国際プロレスにも出場したことのある韓国人レスラーの梁承揮(ヤン・スンヒー)。リングシューズが同じであることや、得意技であるコーナー最上段からのローリング・ソバットを国際プロレス時代に使用していたことなどにより、登場当時から力抜山正体説が有力視されていた。当時のリングアナウンサーである田中秀和も自身のブログにて、正体が彼であることを証言している。
3号は新日本のレフェリー、ミスター高橋が自著『流血の魔術 最強の演技』で、元国際プロレス(のちフリー)のヤス・フジイだったことを明かしている。長身の大型レスラーで、グラウンドや関節技を得意とする老練なレスリングをみせた。
4号はハワイ在住の日系人レスラー、ヒロ佐々木とされている。また、4号の正体は1人ではなく何人かの選手が入れ替わり、頭突きが強い選手は国際プロレスに参加していた韓国人レスラーの南海山、ラリアットを多用する選手は阿修羅・原という説もあった。いずれにせよ、若松が率いていたこともあり国際プロレス人脈である可能性が高い。
その後、1号が軍団を脱退し、スーパー・ストロング・マシーンと改名してベビーフェイスに転向。ほどなくして新日本プロレスを離脱し、マシーン軍団も一時消滅したが、1985年8月開幕の『チャレンジ・スピリット'85』において、アンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーン、マスクド・スーパースターがスーパー・マシーンに変身して若松と共闘。1シリーズのみの変身だったものの、このアングルは当時すでに新日本との業務提携を解消していたWWFにも注目され、ジャイアント・マシーンとスーパー・マシーンは「日本出身」という設定のもと、ビッグ・マシーン(ブラックジャック・マリガン)を加えた覆面ユニットとして1986年下期にWWFに登場している[7]。マネージャーはルー・アルバーノが務め、ハルク・マシーン(ハルク・ホーガン)、パイパー・マシーン(ロディ・パイパー)、クラッシャー・マシーン(クラッシャー・リソワスキー)、アニマル・マシーン(ジョージ・スティール)なども単発的にメンバーに加わった[7]。
マシーン軍団の増殖ギミックは、のちに新日マットを混乱させた海賊男や魔界倶楽部、さらには宇宙パワー、マミーなど、広くインディーにもみられる。
なお、前述のシングルレコード『俺はKYワカマツだ 檄!』のB面タイトルは『ストロング・マシーン We are No.1』である。こちらの曲は、マネージャー・若松に付きものの「カ・エ・レ! カ・エ・レ!」のコールで始まり、英語のラップ風歌詞の上から「ストロングマシーン! ウィーアーナンバーワン!」「ゴー・マシン・ゴー! ゴー・マシン・ゴー!」の若松のシャウト連呼がひたすら続くというもの。後半疲れたのかシャウトがトーンダウンする。2009年10月12日のNHK-FM「今日は一日プロレス・格闘技テーマ曲三昧」において、当時のIWGPヘビー級チャンピオンの中邑真輔のリクエストにより放送された。