板倉俊彦
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板倉 俊彦(いたくら としひこ、1946年1月24日 - )は、毎日放送の元アナウンサー。
来歴・人物
東京都生まれの千葉県育ちで、血液型はA型。早稲田大学卒業後の1968年に、アナウンサーとして毎日放送に入社した。同期入社のアナウンサーに、角淳一や青木和雄などがいる。ちなみに、フジテレビの元アナウンサー・松倉悦郎(現在は僧侶)とは、生年月日も出身大学も同じである。
毎日放送への入社当初から1980年代の前半までは、MBSラジオの『毎日放送日曜(土曜)競馬』で実況を務めていた[1]。また、テレビ(MBSテレビ)・ラジオを問わず報道番組や生ワイド番組なども担当した。
阪神・淡路大震災の発生(1995年)当時には、アナウンサーとしての活動を続けながら、アナウンサー室アナウンス第一部長を兼務[2]。1997年に広報室へ異動した後は、番組審議会事務局長を経て、2006年1月24日に定年で退職した。
なお、毎日放送在職中の2004年4月から2007年頃までは、社団法人デジタルラジオ推進協会大阪事務所事務局長を歴任[3]。地上デジタル音声放送のPRを目的としたMBSラジオのスポットCMにも自ら出演していた。また、PHP研究所の研修用ビデオ「報・連・相」にも登場していた。
エピソード
- 現在もMBSテレビで放送中のローカルニュース番組『MBSニュース』では、同局がNETテレビ(現在のテレビ朝日)の系列局であった1974年4月から、担当アナウンサーの顔出し出演を開始。その最初の放送として、板倉が『ANNニュース』(NET制作・ANN系列全国ネットのニュース番組)内のローカル差し替え枠(放送時間帯不詳)の担当を任された。当日は、『ANNニュース』が京都府知事選挙の開票速報をトップニュースで扱うことになったため、板倉が毎日放送千里丘放送センター(当時)内のニューススタジオから急遽同番組にも顔出しで出演。本番直前に自分の髪の乱れに気付いたため、スタジオ内のモニターを見ながら髪を櫛で梳いていたところ、その姿が全国向けトップニュースの冒頭に映るというハプニングに見舞われた[4]。
- 毎日放送の本社機能が千里丘放送センターにあった時期には、当時の自宅から同センターまでスクーターで通勤[5]。アナウンサー時代に公表していたプロフィールでは、自身を「ひょうきんニュース・キャスター」と名乗りながら、深夜に法定速度でスクーターを走らせることを趣味に挙げていた[6]。
- 1984年10月17日放送の『あどりぶランド』では、「肖像画が日本の紙幣に使われた著名人6名を現代に蘇らせる」との想定の下に、角・藤本永治・青木和雄・近藤光史・鎌田正明(いずれも当時は毎日放送アナウンサー)との共演で「旧札vs新札」という討論企画を実施。この企画によって、同局のアナウンサー室は同年度アノンシスト賞のグランダ・プレミオ(大賞)を受賞した[7]。
毎日放送アナウンサー時代の出演番組
- MBSニュース(随時)
- ファミリースタジオ230
- 大阪株式市況(キャスター)
- あどりぶランド(「板倉ちゃん」の愛称で親しまれた)
- わたしたちの近畿(ナレーター)
- すてきな出逢い いい朝8時(全国ネット、番組内の生CMに出演)
- 真珠の小箱
- 毎日新聞テレビ夕刊 ほか
- 毎日ニュース(随時)
- 毎日放送日曜(土曜)競馬(実況担当)
- MBSジャンボサタデー
- MBSグアムグアムリクエスト
- 歌謡ゴーゴーファイブ
- MBSラジオ大通り
- MBSイブニングレーダー(ニュースキャスター)
関連人物
脚注
テンプレート:Reflist- ↑ 『サンデー競馬中継 みんなの競馬』MBS競馬ヒストリーを参照
- ↑ 毎日放送編『阪神大震災の被災者にラジオ放送は何ができたか―「被災していない人への情報はいらない!」と言い続けた報道者たち』(同文社出版、1995年)より。ちなみに、同期入社の角も、当時はアナウンス第三部長であった。
- ↑ デジタルラジオ推進協会・大阪放送番組審議会議事録バックナンバー
- ↑ 毎日放送編・著『まるのまんま あどりぶランド』(シンコーミュージック、1987年)に記載の「私はこれで失敗しました 板倉アナの場合」より。板倉はこのハプニングについて、「まだ(本番前の)テストだと思っていた」「(京都府知事選挙の)開票が接戦で本番直前までニュース原稿が(スタジオに)届かず、キューシートさえ見る余裕すらなかった」と同書で釈明している。
- ↑ 前出『まるのまんま あどりぶランド』に記載の「板倉俊彦 スクーター通勤を上手に楽しむ法」より。
- ↑ 毎日放送編・著『This is こちらあどりぶランド』(八曜社、1986年)より
- ↑ 前出『まるのまんま あどりぶランド』より