偶像崇拝
偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)とは、偶像を崇拝する行為である。「偶像崇拝」の用語そのものが改革派教会の特徴であり、そのバズワードであると言われる[1]が、改革派教会以外でも「偶像崇拝」の用語を用いることがある。
旧約聖書
旧約聖書では、イスラエルの神は預言者モーセに神の指で書かれた石の板二枚、十戒を授け、偶像崇拝を禁じた。(出エジプト記31:18)。ゆえに、アブラハムの宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラームの諸宗教では偶像崇拝は禁忌とされており、神を可視化してはならない。
新約聖書
新約聖書で「偶像礼拝」と訳されるギリシャ語のεἰδωλολατρία(ガラテヤ5:20、第一コリント10:14、コロサイ3:5、第一ペテロ4:3)の語は、キリスト教の文献にしか出てこない[2]。
キリスト教
使徒ヨハネの弟子であるポリュカルポスはスミルナ教会の監督であったと伝えられる。ポリュカルポスはヨハネの黙示録2:10にある「死に至るまで忠実であれ」を読んだ。ポリュカルポスはこの言葉どおりに、皇帝を拝む偶像崇拝を拒み、火あぶりにされた後に刺し殺され、殉教した。[3][4]
日本のキリスト教
1932年5月5日に上智大学の学生の一部が靖国神社の参拝を拒否したため、「カトリック、否、全キリスト教そのものが日本の国体と相容れない邪教である。その信者やその活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師などはそれぞれの母国から派遣されたスパイである。」とのバッシングを受けるという上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こった。そのためカトリック教会は「祖国に対する信者のつとめ」を出し、神社参拝を行うようになった。[5][6][7]
プロテスタントでも日本基督教団などエキュメニカル派の一部は他宗教に対して比較的寛容であり、戦前より神社参拝、宮城遥拝、国民儀礼、玉串奉奠、焼香などの行為を行っていたが、戦前の美濃ミッションや中田重治監督指導時のホーリネス、戦後の福音派などは、これらの行為が聖書に反する偶像崇拝であるとして、これらの行為を禁じていた。[8][9][10][11][12][13]
日本キリスト改革派教会の常葉隆興は日本基督教団の結成式で行われた宮城遥拝は、「偶像礼拝であり、神に対して死に値する罪であった。」とした。また日本キリスト改革派は1951年の第6回大会で「すべての神道神社は偶像であり、我々はそれを礼拝する事を拒絶する。神棚、仏壇その他どのような宗教的事物に対しても頭を下げて礼をしない。」と決議した[14] 。
中央神学校のチャップマン教授は、日本の教会が神社参拝に対して明確な態度を取れなかったのは、旧約聖書の知識を欠いていたからだと指摘した[15][16]。また、日本の教会は自由主義神学の高等批評によって信仰が骨抜きにされており、植村神学が簡易信条主義であったことから、異教の偶像崇拝に対して抵抗する力を持たなかったと指摘する者もいる[14]。
福音派など聖書信仰の教会は1959年11月18日の日本宣教百年記念聖書信仰運動大会において、偶像崇拝の罪を、神の御前に悔い改め、告白した。「我らは過去百年間、キリスト者として、個人生活的にも、亦国民生活的にも、一切の偶像崇拝を廃棄すべき聖書の命令に応えることに於いて、欠けたところの多かったことを神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白する。」
脚注
- ↑ 『リフォームド神学事典』いのちのことば社 p.115
- ↑ 尾山令仁『ガラテヤの諸教会への手紙』p.285-286
- ↑ 『ポリュカルポス殉教伝』The Martyrdom of Polycarp: The contemporary account of his death in the letter to the Smyrnaeans.
- ↑ 尾山令仁『ヨハネが受けたキリストの啓示(黙示録)』羊群社
- ↑ 西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』サンパウロ
- ↑ カリタス・ジャパン『ひびき-非暴力による平和への道』2006
- ↑ 石黒イサク他『それでも主の民として』いのちのことば社
- ↑ 『神社参拝拒否事件記録』美濃ミッション
- ↑ 小野静雄『日本プロテスタント教会史』聖恵授産所出版
- ↑ 奥山実他『教会成長シンポジウム』新生運動
- ↑ 尾山令仁『今も生きておられる神』プレイズ出版
- ↑ 尾山令仁『信仰生活の手引き』いのちのことば社
- ↑ 滝元明『千代に至る祝福』CLC出版
- ↑ 14.0 14.1 ジョン・M.L.ヤング『天皇制とキリスト教』(日本における二つの帝国)燦葉出版社,The two empires in Japan by John M. L. Young
- ↑ 中央神学校史編集委員会『中央神学校の回想-日本プロテスタント史の一資料として』
- ↑ 中村敏 『日本における福音派の歴史』いのちのことば社 p.41