ユリウス・シュトライヒャー
テンプレート:政治家 ユリウス・シュトライヒャー(Julius Streicher、1885年2月12日 – 1946年10月16日)は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に所属していたドイツの政治家。反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Stürmer)』の発行人。
目次
略歴
ナチ党入党まで
1885年、ドイツ帝国領邦バイエルン王国南部のフラインハウゼン(de:Fleinhausen)に生まれる。父は教師のフリードリヒ・シュトライヒャー(Friedrich Streicher)。母はその妻アンナ(Anna)。一家はカトリック家庭で、シュトライヒャーは九子だった。父と同様に小学校の教師となり、1909年にニュルンベルク市に移住した[1]。彼は第一次世界大戦前はドイツ社会民主党(SPD)の党員だった[2]。 1913年にはパン屋の娘のクニグンデ・ロート(Kunigunde Roth)と最初の結婚し二人の息子をもうけているが、1943年に妻と死別した。
一次大戦時は陸軍に従軍。戦功をたてて一級鉄十字章を授与され、少尉まで昇進した。戦後、反ユダヤ主義団体に次々と参加した。反ユダヤ主義政党ドイツ社会主義党(de:Deutschsozialistische Partei)に入党したが、シュトライヒャーの粗暴な反ユダヤ主義宣伝は同党の指導者たちにも不快感を持たせ、いざこざを起こすようになった。シュトライヒャーは1921年に部下たちを引き連れて同党を離党することとなった。
ナチ党初期の活動
1922年10月にミュンヘンでアドルフ・ヒトラーの演説を聞いたシュトライヒャーはヒトラーの虜となった。シュトライヒャーはその場で聴衆をかき分けて進み、「自分の党に属する2000人の党員を贈り物として捧げたい」とヒトラーに申し出たといわれる[3]。部下たちとともにナチ党に入党したシュトライヒャーは、ニュルンベルクに最初のナチ党支部を創設、同支部の支部長に就任した[1]。さらにシュトライヒャーのイニシアチブの下にフランケン地方の町々に13のナチ党支部が創設されていった[4]。
ヒトラーへの強い忠誠心と北バイエルンの党建設の功績でヒトラーはシュトライヒャーに多大な信任を寄せていた。彼は北バイエルンにおけるヒトラーの総統代理に任じられていた[5]。1920年代前半のシュトライヒャーはナチス中枢の幹部であったといえる。
しかしシュトライヒャーは政敵と争いを起こす事が多く、よく裁判沙汰になり、党に厄介事をもたらす事が珍しくはなかった。ポルノグラフィーに夢中になったり、常に犬鞭を持ち歩くといった奇妙な習慣のために評判の悪い人物であった[4]。
1923年5月には悪名高い反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Stürmer)』(突撃兵の意)を創刊している。『シュテュルマー』は著名な歴史学者であったハインリッヒ・フォン・トライチケの言葉「ユダヤ人は我々ドイツ人の災いである」を毎号各ページの下段に掲げるほか、読者の感情を逆なでするような過激な見出しを用いて、たとえば猟奇的な性的犯罪などをでっちあげて掲載し、ユダヤ人を誹謗中傷した。あまりに下品で俗悪な内容に他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ批判の声が上がっていた。戦時中の連合国のプロパガンダにも『シュテュルマー』紙はナチの悪徳ぶりを示す証拠として盛んに利用された。『シュテュルマー』の発行部数は1923年には2500部だったが、1935年には6万5000部になり、1937年には50万部に達している[6]。
ミュンヘン一揆後のナチ党解散期
1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、一揆は失敗。シュトライヒャーも拘留され、ニュルンベルク市から教職の停職処分を受けた。しかしすぐに釈放され、政治活動を再開した。ヒトラーの代理アルフレート・ローゼンベルクによって設立されたナチ党の偽装組織「大ドイツ民族共同体」に参加。まもなくヘルマン・エッサーとともに同組織の指導者となった。更にかつての突撃隊員を集めて「帝国鷲民族同盟」を組織した。大ドイツ民族共同体は他のナチ残党が創設したグループより過激な集団で、より激しい反ユダヤ主義、議会政治反対思想、労働者寄りの政策を掲げていた[5]。
1924年8月にナチ残党勢力が集まって開いたヴァイマル大会でエーリヒ・ルーデンドルフがヒトラー不在の間の指導者である事が確認され、また選挙のための統一政党「国家社会主義自由運動」が創設されることとなった。しかし議会政治に反対するシュトライヒャーの大ドイツ民族共同体はこれと対立するところが多かった。大ドイツ民族共同体は労働者を中心に支持されていたため、一時ドイツ共産党と同盟を結ぼうともしているが、共産党が反ユダヤ主義思想に反対したため、決裂している[7]。
ナチ党再入党後
ヒトラーが出獄し、1925年2月にナチ党を再建すると直ちに参加して再びヒトラーの指揮に服した。1925年にヒトラーから「ニュルンベルク=フュルト」大管区指導者に任じられた。さらに1929年からはそれが拡張された「フランケン」大管区の指導者に就任した[8]。また1929年にはバイエルン州議会議員選挙に当選している[9]。
ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスの指示の下、選挙戦でナチ党が政権を掌握できるようフランケン地方における宣伝に全力を尽くした。しかし彼が一番激しく行ったのはやはり反ユダヤ主義だった。『シュテュルマー』紙面やビラや演説で反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論を展開した。シュトライヒャーの党指導や扇動のせいでニュルンベルクのナチ党事務所はドイツでも有数の暴力的反ユダヤ主義の拠点と化した[9]。
1932年12月から1933年1月にかけてはフランケン突撃隊指導者ヴィルヘルム・シュテークマン(de:Wilhelm Ferdinand Stegmann)が大管区指導者シュトライヒャーに対して反乱を起こしている。フランケン地方の突撃隊員の大部分がシュテークマンに従ったため、シュトライヒャーは一時危機に陥ったが、ヒトラーが介入してシュテークマンに自己批判させて収束させた[10]。
ナチ党政権取得後
1933年1月30日には選挙で大勝したナチ党政権が誕生し、ヒトラー内閣が発足したが、シュトライヒャーには閣僚職は与えられず、党のフランケン大管区指導者職にとどまった。アメリカで起こったドイツ製品不買運動を受けて、1933年3月にヒトラーはシュトライヒャーを「ユダヤ人の残虐行為・ボイコット扇動から防衛するための委員会」の委員長に任じた。シュトライヒャーは1933年4月1日の突撃隊員によるユダヤ人商店街へのボイコット運動を指揮した。しかし依然として経済危機の状況にあったドイツ経済が更に悪化することを恐れたヒトラーはボイコットを一日で終了するよう命じている[11][12]。1934年には突撃隊の名誉隊員となり、突撃隊中将の階級を与えられた[13]。1938年には子供向けの反ユダヤ本『毒茸(Der Giftpilz)』を発刊している。
シュトライヒャーは、ヘルマン・ゲーリング夫人のエミー・ゲーリングがユダヤ人と交友関係がある事を知るや彼女を攻撃し、彼女がユダヤ人の店で商品を買った写真を『シュテュルマー』に掲載した。そればかりか1940年2月にはゲーリングは性的不能者であり、彼の娘エッダは人工授精で生まれたなどと『シュテュルマー』に書きたてた。ゲーリングは、以前から『シュテュルマー』の扇情的な反ユダヤ主義の論調に反感を抱き「そのうちの二・三号しか読んでいないが、部下に運転手・使用人には読ませない様にさせてる。全くもって不愉快千万な新聞だ」[14]とまで言い切っていたが、ここに至って大管区指導者6名からなる査問委員会を設置してシュトライヒャーを捜査させた。彼の関わっていた不正行為が次々と発覚し、査問委員会は「シュトライヒャーは人間の指導者として不適格」との結論を下した。ついにヒトラーにも見捨てられ、フランケン大管区指導者を罷免されたのであった[15][16]。『シュテュルマー』はその後も民間新聞として続き、1945年2月1日まで発行された[6]。しかし党の後援を失った『シュテュルマー』の発行部数は大きく落ちた。大管区職辞任以降にはニュルンベルクに近いプライカーショフの酪農場で暮らし、その経営にあたっていた。彼は20歳以上年下のアデーレ・タッペ( Adele Tappe)というブロンドの女性と再婚した[17]。
シュトライヒャーの妻アデーレによると、シュトライヒャーは1944年5月と7月にヒトラーからゲッベルスとライを介してもう一度「党の古参闘士」として戻ってほしいという要請が受けたが、断ったという[18]。
逮捕
敗戦後の1945年5月23日、ザイラーと名乗って画家としてベルヒテスガーデン近くの村で潜伏生活をしていたところを、アメリカ軍空挺第101師団に発見されて逮捕された[19][15]。シュトライヒャーがニュルンベルク裁判の際に弁護士に訴えたところによると、シュトライヒャーは拘禁中にユダヤ人と黒人によって拷問されたという[20]。
他のニュルンベルク裁判被告人達と同様にまずルクセンブルクのバート・モンドルフに送られた。その後、1945年8月にニュルンベルク裁判にかけるためにニュルンベルク刑務所へ移送された[21]。
なおシュトライヒャー所有のプライカーショフの農場はアメリカ政府の決定によりユダヤ人難民たちに譲られている[17]。ユダヤ人難民たちはここをイスラエルの農業共同体に移る準備をするキブツとしている[22]。
ニュルンベルク裁判
ニュルンベルク刑務所に収監されていた際にも、全裸で手足をバタバタさせる怪しげな体操を日課にしたり、便器の水で顔を洗ったり、子供に向かってわいせつな言葉を吐いたり、奇怪な行動が目立った[23][24]。また「アイゼンハワーはユダヤ人」だの「ジャクソンはジェイコブソンから改名した」だの「飛行船ヒンデンブルクの炎上はユダヤ人の陰謀」だのと性懲りもなくユダヤ陰謀論を唱え続け、看守のみならず他の被告人達からも忌み嫌われた[24]。何しろ、法廷でシュトライヒャーの隣に座っていたヴァルター・フンクが「私はもう十分に罰せられていますよ…。なにしろ毎日隣に座らされるのですから…。」[25]と嘆くくらいだった。一方、シュトライヒャーは自分が他の被告からのけ者にされているのはゲーリングのせいだと思い込んでいた[23]。
シュトライヒャーの弁護人は彼が精神障害者であるとして精神鑑定を依頼した。精神分析医チームはシュトライヒャーをユダヤ人に対してのみ強迫観念を持つ偏執狂であると結論した。ただし精神そのものは正常と鑑定され、裁判から下りることは認められなかった[26]。
被告人達の心理分析官グスタフ・ギルバート大尉はニュルンベルク裁判の被告全員を対象にウェクスラー・ベルビュー成人知能検査を行った。シュトライヒャーのIQ値は106で、被告の中では最低であった(またシュトライヒャーは高齢のために数値を水増し調整されており、素点のIQはこれより15から20低かった)[27][28]。この試験の中で彼は「2ペニヒの切手を7枚買って50ペニヒ払ったら、お釣りはいくら?」という問題を解くのに1分もかかっている。シュトライヒャーは「こんな子供向けの問題で俺を煩わせるなよ。微積分の問題をやらせてみろ。」などと語った[28]。
1946年4月の反対尋問でシュトライヒャーはイギリスのマーウィン・グリフィス=ジョーンズ(en)検事から追及された。グリフィス=ジョーンズ検事はかつてシュトライヒャーが「ユダヤ人は吸血鬼のように暴利を貪る高利貸民族」と書いたことを指摘し、「これは民族的憎悪を説きすすめているものではありませんか?」と質問したが、シュトライヒャーは平然と「いいえ。憎悪を勧めた物ではありません。事実を書いただけです」などと述べた[17]。
さらにシュトライヒャーは、「『デア・シュテュルマー』紙の記述は、ユダヤ人迫害を目的としているのではなく、ドイツ以外の場所にユダヤ人のための故国を作ってあげようという思いがあってのものでした」などと主張して、言い逃れを図った。グリフィス=ジョーンズ検事はシュトライヒャーが書いた記事を次々と引用することでこの主張を崩した。
文章を引用し終えたグリフィス=ジョーンズ検事は、皮肉たっぷりに「このような言葉を我々は、ユダヤ人にユダヤ人国家を与えよ、という意味に理解せねばなりませんか?」[29]とシュトライヒャーに問い質した。それに対してシュトライヒャーは「それらは具体的目的のない、単なる感情的文筆家としての意見にすぎない」「反ユダヤ主義の言葉遊びにすぎない。」「記事の上で書くのと実際に実行するのは大きな隔たりがある。」などと述べてなお言い逃れを図ったが、このような苦しい言い訳では判事の心証を変えることはできなかった。シュトライヒャーの反論はすべて無駄な試みに終わった[30]。
1946年10月1日、他の被告人達とともに裁判長ジェフリー・ローレンス卿により判決が言い渡された。まず被告人達が全員そろう中で一人ずつ判決文が読み上げられた。シュトライヒャーは携帯食をかじりながら判決を聞いていた[31]。
ジェフリー卿により読み上げられたシュトライヒャーの判決文は「ドイツ人の思想を反ユダヤ主義という病毒で汚染し、ドイツ人のユダヤ人に対する迫害を刺激した。」「東ヨーロッパでユダヤ人が最も苛烈な環境の中で殺戮されている時、その虐殺・抹殺を教唆扇動したことは、政治的および人種的迫害にあたる」として、彼を「人道に対する罪」で有罪とした[32][33][29]。さらにその後に個別に受けた量刑判決では、シュトライヒャーは絞首刑を宣告された[34]。
彼は判決について、「ユダヤ人の勝利」とコメントし、さらにニュルンベルク裁判そのものを「プーリームの祭り(ユダヤ人の例祭)」と表現した[33]。
処刑
1946年10月16日に入ったばかりの深夜、他の死刑囚10人と共に彼の絞首刑が執行された。絞首場では、服を着る事を拒否してパンツ一枚の姿で「ハイル・ヒトラー!」と叫びながら暴れまわって周囲のひんしゅくを買った。しかし最後は看守のアメリカ兵たちにより処刑台の前に引きずり出された[35]。
最期の言葉は、「1946年プーリームの祭り!そして神の下へ!(死刑執行人のジョン・C・ウッズ軍曹に向かって)今にボリシェヴィキがお前等を殺しに来るぞ!私は神の下にある。神父様!(ウッズによって顔にマスクをかけられた後)アデーレ!愛しのアデーレ!」だった[36][37]。
シュトライヒャーの足元の落とし戸が開き、彼の体がその下へ消えた。しかし彼は即死せず、死刑執行後も長い事呻くはめとなった[38][37]。
自殺したゲーリングを含めて、シュトライヒャーら死刑囚11人の遺体は、アメリカ軍のカメラマンによって撮影された(裸の状態と衣服着用した状態の二枚)。撮影後、木箱に入れられ、アメリカ軍の軍用トラックでミュンヘンへ運ばれ、そこで火葬された。遺灰はイーザル川の支流コンヴェンツ川に流された[39]。
シュトライヒャーは職業軍人ではなく、党幹部の中でも軍事的決定からは遠ざけられていたため、ポーランド侵攻・ソ連侵攻などを含めて一切の軍事行動の計画に関与してはいない。また、ユダヤ人に対するホロコーストを直接指示したり、その具体的計画の立案に関わったこともない。しかし、その後のニュルンベルク裁判においては、連合国側の検察官によって彼の反ユダヤ的扇動行為がドイツ政府によるホロコーストの計画、実施を誘導することとなったと厳しく断罪され、その主張が認められた結果、絞首刑の判決が下された。ただしこの判決に対しては、今もなおその種の扇動行為のみを具体的罪状として死刑判決を下すことが正当・妥当であったかどうかといった点に関する議論がなされている[40]。
語録
シュトライヒャーの発言
- 「同棲している場合、男性の精液は、その一部または全部が相手の女性に吸収され血液に流れ込む。アーリア人女性が一度でもユダヤ人男性と同棲すれば、その女性の血は永遠に汚されてしまう。彼女は純粋なアーリア人の子供を二度と産めなくなるのである」(『シュテュルマー』紙の記事)[25]
- 「これ(ポルノ)はユダヤ人から買い入れたのだ。奴らがどんな如何わしい物を読んでいるかを示す目的で集めているのだ。」(ポルノを収集する理由について)[25]
- 「ドイツの土地は、権力を握っている国際ユダヤ人に売却されたり、抵当にとられたりしている。」(1927年、アンスバッハで行った演説)[41]
- 「数年前、『シュテュルマー』紙がマダガスカル島へのユダヤ人移送がユダヤ人問題解決の一つの可能性であると書いた時、我々はユダヤ人やその仲間たちに嘲笑された。非人間的であると言われた。だが今日我々の提案はすでに外国の政治家も論じているではないか。日刊紙の報道によればフランス外相デルボスがワルシャワで行った協議で、ポーランドはユダヤ人の一部をマダガスカルへ移す事が出来ないかと提案したそうである。いずれにせよ、新生ドイツは救済へ至る途上にある。ドイツが救済されれば、世界が救済されるだろう。永遠なるユダヤ人からの救済である」(1938年1月)[42]
- 「ユダヤ人将校は、"ついにシュトライヒャーを捕まえたぞ。この犬!豚!俺が十歳の頃、お前は『デア・シュテュルマー』で人種的不名誉の見本として俺を載せやがった!両手を出せ!"と言うと、私の手に手錠をかけた。その夜一晩中、ユダヤ人から嘲弄された。食事もなかった。(略)黒人野郎が二人、私を裸にしてシャツを切り裂いた。私はパンツ一丁にされた。つながれていたのでパンツが下がっても上げられず、素っ裸になった。四日間も素っ裸にされた。(略)数時間おきに黒人野郎が拷問に現れた。私の乳首を火のついた煙草であぶったり、性器をひっぱたいたりした。彼らは私の口をこじ開けて唾を吐きいれた。私は『ユリウス・シュトライヒャー、ユダヤ人の王様』と書かれた看板を首から吊るされ、歩き回らされた。(略)毎日ユダヤ人記者が来る。私の裸の写真を取る。彼は"あんた、後どれくらい生きてられると思ってる?"と言った。私は痛みで声も出せなかった。たえずアデーレのことを考える」(逮捕後、ユダヤ人と黒人に暴行されたと称するシュトライヒャーの弁)[26][20]。
- 「ユダヤ人か。全部ユダヤ人の名前じゃないか。裁判官もユダヤ人なんだろう?わかっているぞ。」(弁護人候補者名簿を見せたイギリス軍将校に向かって)[43]
- 「私は、ユダヤ人についてはユダヤ人自身よりも詳しい。きみ(グスタフ・ギルバート)がユダヤ人だということは、前々から声の調子で分かっていた。最初は確信が持てなかった。だが、他の人間が教えてくれたので、声を聴いてみたところ、やはりそうだと分かったのだ。」(1946年1月24日)[44]
- 「私はある意味ではユダヤ人を称賛している。なにしろ、これほど小さい集団でありながら、常に世界の支配者として君臨してきたのだから。たとえば、キリストはユダヤ人だった。ドイツが敗北した今、ソ連ではユダヤ人のボリシェヴィズムが勢力をふるっている。スターリンは名目上の指導者にすぎない。彼の背後にはユダヤ人がいる。そして、北米に根付いているのはユダヤ人の民主主義だ。」(同上)[44]
- 「待ってくれ!私はユダヤ人虐殺とは何の関係もない。1940年以降の私は農場主として暮らした。私が何も知らないからには、ヒトラーは1941年以降にユダヤ人の絶滅を決意したのだろう。私はヒトラーが正しかったというつもりはない。私はマダガスカルであれパレスチナであれ、どこかにユダヤ人の国を作ってそこへ移住させる政策には賛成だったが、絶滅政策についてはその限りではない。400万人のユダヤ人虐殺-この裁判では500万人とも600万人ともされているが、それは宣伝にすぎない。多くても450万人を超えていないはずだ。-によって、ユダヤ人は殉教者になってしまった。ユダヤ人虐殺のせいで各国で順調に発展していた反ユダヤ主義運動は何年も後戻りした。」(1946年4月6日、ホロコーストについて聞かれて)[45]
- 「彼はジャクソンと名乗っているが、私に言わせれば、彼はジェイコブソンであってユダヤ人だ。外見からしても、すぐにそれと分かる。他の被告たちが彼はユダヤ人ではないと断言するので、私もしばらくはそう思っていた。しかし、ここ何カ月かの間に、彼の歩き方や顔を観察して、ユダヤ人だと分かった。おそらく、ドイツ系ユダヤ人の家系だろう。」(1946年4月6日、アメリカ検察官ロバート・ジャクソンについて)[46]
人物評
- 「この男こそ、私が監獄から出てきたとき、私の下にやって来て、無条件で私の権威に服した最初の一人だった。私が決して忘れる事のない人物、それがシュトライヒャーだ。彼には欠点もあるかもしれないが、こうした行動のできる人物は信頼できる。」(1925年3月、アドルフ・ヒトラー)[47]
- 「シュトライヒャーは好き勝手にふるまい、慎みも知らなければ考える事も知らないようだ。不愉快な同僚だ。私は誰とでも、極めて複雑な人間とでも仲良くやっていこうといつも心掛けているのだが、シュトライヒャーとだけはうまくいかない。彼のキチガイじみた反ユダヤ主義は私には厭わしい。シュトライヒャーの『シュテュルマー』を私は決して読まない。それは私の禁書目録に載っている。」(シュヴァーベン大管区指導者カール・ヴァール(de:Karl Wahl))[48]
- 「このニュルンベルクで、シュトライヒャーに鞭で打たれたという複数のジャーナリストにあった事があるので、彼はかつては冷酷な男だったのだろう。そのジャーナリスト達は強制収容所へ入れられており、当時私はヘスの助けを借りてようやく解放してやったのだ。シュトライヒャーの横領の噂についても、少なからず真実が含まれていると私は思っている。いま、私は彼の事が以前より少しよく分かる。彼は本当に馬鹿だと思う。だが、罪を犯した原因は彼にあるのではなく、彼に権力を与えた者、つまり総統にある。シュトライヒャーは頭は悪いが、自分を熱狂させる生まれついての能力を持っているのだろう。この種の愚か者はよく狂信的な目的に利用される。」(宣伝省ラジオ局長ハンス・フリッチェ)[49]
- 「ところで、あのお粗末なおっさんシュトライヒャーはなんで死刑なのかね?」「殺人を扇動したからだろ。」「しかし、それならフリッチェも同じ事なのに彼は無罪じゃないか。」(判決を聞いた記者たちの会話)[50]
参考文献
- 『ニュルンベルグ裁判記録』、時事通信社、1947年
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- ウェルナー・マーザー著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』西義之訳、TBSブリタニカ、1979年
- Charles Hamilton著『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』p238-239、R James Bender Publishing、1996年、ISBN 0912138270
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、原書房、1996年
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年
- ロベルト・S・ヴィストリヒ著、滝川義人訳、『ナチス時代ドイツ人名事典』、2002年、東洋書林、ISBN 978-4887215733
- ウォルター・ラカー著、井上茂子・木畑和子・芝健介・長田浩彰・永岑三千輝・原田一美・望田幸男訳、『ホロコースト大事典』、2003年、柏書房、ISBN 978-4760124138
- レオン・ゴールデンソーン著、小林等・高橋早苗・浅岡政子訳『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、河出書房新社、2005年
- レオン・ゴールデンソーン著、小林等・高橋早苗・浅岡政子訳『ニュルンベルク・インタビュー(下)』、河出書房新社、2005年
脚注
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テンプレート:Link GA- ↑ 1.0 1.1 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』28頁
- ↑ 『ニュルンベルグ裁判記録』138頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』(1996年版)38頁
- ↑ 4.0 4.1 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』29頁
- ↑ 5.0 5.1 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』30頁
- ↑ 6.0 6.1 『ホロコースト大事典』255頁
- ↑ 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』35頁
- ↑ 『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』p238
- ↑ 9.0 9.1 『ナチス時代ドイツ人名事典』105頁
- ↑ 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』338頁
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- ↑ マイケル ベーレンバウム著、石川順子訳、高橋宏訳、『ホロコースト全史』、1996年、創元社、52頁
- ↑ LeMO
- ↑ 金森誠也著『ゲーリング言行録 :ナチ空軍元帥大いに語る』(荒地出版社、2002年)165頁
- ↑ 15.0 15.1 『ニュルンベルク軍事裁判(上)』(1996年版)141頁
- ↑ 『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』p239
- ↑ 17.0 17.1 17.2 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)181頁 引用エラー: 無効な
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- ↑ 『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』67頁
- ↑ 20.0 20.1 『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』68-70頁
- ↑ 『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』76頁
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- ↑ 23.0 23.1 『ニュルンベルク軍事裁判(上)』(1996年版)140頁
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- ↑ 25.0 25.1 25.2 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)37頁 引用エラー: 無効な
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- ↑ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年、早川書房 166頁
- ↑ 28.0 28.1 『ニュルンベルク軍事裁判(上)』(1996年版)166頁
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- ↑ 37.0 37.1 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)、310頁
- ↑ 『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』395頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)、313頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)、324頁
- ↑ 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』70頁
- ↑ ヴォルフガング・ベンツ著、中村浩平・中村仁訳『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房、2004年)75頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(上)』(1996年版)、119頁
- ↑ 44.0 44.1 『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、184頁
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、191頁
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、192頁
- ↑ 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』56頁
- ↑ 『ヒトラー・権力への道:ナチズムとバイエルン1923-1933年』304頁
- ↑ 『ニュルンベルク・インタビュー(下) 』、99頁
- ↑ 『ニュルンベルク軍事裁判(下)』(1996年版)282頁