長瀞藩
長瀞藩(ながとろはん)は、出羽国(明治以降は羽前国)村山郡(現在の山形県東根市大字長瀞)に存在した藩。藩庁は長瀞陣屋。
藩史
寛政10年(1798年)7月6日、譜代大名の米津通政が武蔵国久喜藩より長瀞に入ったことから立藩した。通政は武蔵国・下総国・上総国・常陸国にそれぞれ所領を持つ大名であった(所領合計は1万1000石)が、武蔵の所領6400石を出羽村山郡に移されたことから、長瀞藩が立藩することとなったのである。しかし1万石少々がやっとの小藩だった上、所領が5ヶ国にも散在していたため、城持大名にはなれず、長瀞に陣屋を置くだけであった。
初代藩主となった通政は治績に見るべきところもなく、寛政11年(1799年)12月に家督を子の米津政懿に譲って隠居し、文政2年(1819年)6月13日に死去した。第2代藩主・政懿は日光山の祭祀奉行や大坂定番を歴任し、嘉永6年(1853年)12月に死去した。その後、家督は養嗣子の米津政易(酒井忠器の十男)が継いだが、政易には嗣子が無く、弟の米津政明(忠器の十一男)を養嗣子として迎えて万延元年(1860年)5月9日に隠居した。
跡を継いだ政明のとき、藩内で攘夷討幕を叫ぶ声が高まり始める。政明は農民30余名を兵として取り立てて農兵を組織し、軍事改革を進めるなど、それなりの手腕を見せていたが、藩内をまとめるだけの力が無く、慶応元年(1865年)12月11日に子の米津政敏に家督を譲って隠居してしまった。
政敏が跡を継いだ翌年、東根山内で兵蔵騒動(村山世直し騒動)と呼ばれる事件が起こり、藩は混乱した。戊辰戦争後、政敏は版籍奉還を行なって長瀞藩知事となる。版籍奉還後、政敏は陣屋を長瀞から上総大網村に移したため、大網藩と改称され、政敏は翌1871年2月2日に大網藩知事となった(更に同藩は常陸国龍ヶ崎村に移って龍ヶ崎藩となる)。そして同年5月9日、長瀞領は山形県に編入されることとなった。
伝承のある2つの現存大手門
長瀞地区の禅会寺山門と長源寺山門が共に「長瀞城・大手門」を移築したものと伝えられている。この「長瀞城」というのが、陣屋で焼け残ったものか、江戸初期の城館のものなのかは調査が待たれる。
歴代藩主
- 米津家
1万1000石 譜代
幕末の領地
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