米津通政
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米津 通政(よねきつ みちまさ、寛延3年(1750年) - 文政2年6月13日(1819年8月3日))は江戸時代後期の大名。武蔵国久喜藩の第5代藩主、のち出羽国長瀞藩の初代藩主。久喜藩の第4代藩主米津政崇の長男。正室は本多忠可の養女(近藤英用の娘)。子は米津政懿(長男)、娘(中山信敬の養女、角倉玄匡の妻)など。官位は従五位下、出羽守、播磨守。
幼名は勘兵衛。明和4年(1767年)、父の隠居で家督を継ぐ。寛政10年(1798年)7月6日、所領の6400石を出羽長瀞に移されたため、米津氏は久喜藩から長瀞藩となった。通政は藩政において、農業を奨励して荒地を開発し、藩法である14か条を制定した。
寛政11年(1799年)12月8日、家督を長男・政懿に譲って隠居し、文政2年(1819年)6月13日に70歳で死去した。墓所は東京都東久留米市幸町の米津寺。