田中ケロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月2日 (土) 12:56時点におけるChampionship2006 (トーク)による版 (カテゴリ追加)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox プロレスラー

田中 ケロ(たなか ケロ、1959年1月6日 - )は、日本プロレスリングアナウンサー。本名・旧活動名は田中 秀和(たなか ひでかず)。愛知県稲沢市出身。愛称はケロちゃん[1]で、現在の活動名はこれに由来する。父親の転勤で日本各地を転々とし、高校時代は青森県弘前市で過ごす。

来歴

大東文化大学在学中より、新日本プロレスでアルバイトをし、その後、正社員として入社する。1980年8月22日、品川プリンスホテル・ゴールドホール大会のジョージ高野 vs. 荒川真戦でリングアナデビュー。

現在のリングアナウンサーの主流となる紹介方法や言葉の抑揚は、先代のリングアナであった倍賞鉄夫(現・猪木事務所社長、倍賞千恵子美津子姉妹の末弟で猪木の元義弟)のスタイルに自己流を加えたものであるが、リングアナが目立つという新しいスタイルを作り上げたのは田中だと言える。

ドーム大会などでの試合の前口上は有名で、ファンのテンションを高め、試合を盛り上げる大きな要素のひとつである。

1987年12月27日両国大会において、度重なるカード変更などでファンの暴動があったときに、リング上で涙を流しながら土下座をして謝ったエピソードもあり、彼が新日本プロレスの一員としてプロレスを、当時の新日本を愛していたことは間違いない。

そのことは、新日本プロレス・プロレス界にとって画期的なマッチメイクである「蝶野正洋対三沢光晴戦」が行われる際、この試合はスポーツ界に対して大きな影響力をもたらすものであるとの信念から、この試合前の前口上において、「K-1! PRIDE! プロ野球! Jリーグ! いいか、よく見ていろ! これがプロレスのパワーだ! プロレスは、絶対に負けない!」と叫んだ。また、「蝶野正洋対小橋建太戦」の際においては「プロレスの誇りと、自信と、夢。プロレスファンよ胸を張れ! そして、しかと見届けよ!」とファンの前で叫んだことからも、近年のプロレス界の凋落ぶりを感じているプロレスファンに対して、改めてプロレスの素晴らしさを訴えようとしていること、プロレスに対しての誇りと自信を強く持ち合わせていることがわかる。同様の田中リングアナならではの前口上は2005年のG1 CLIMAXの開催時にもみられた。

これらの有名な前口上は、PlayStation 2用プロレスゲームソフト「キングオブコロシアム」にも裏技として収録されており、シングルマッチで蝶野正洋と小橋建太、あるいは蝶野正洋と三沢光晴の試合を組むと、試合前の選手のコールの前に実際の会場でのものと同じ前口上を聞くことができる。

しかし彼の新日本プロレスへの強い愛情ゆえからか、新日本至上主義的な思想を感じさせるような盲信振りや、他団体に属する選手・団体そのものを根拠も無く否定することも多く、かつて日本向けのWCWの番組で解説を務めた際には、WCWの選手を貶したり(新日本に出場している選手は除く、また有線放送であるにもかかわらず「わたしは大仁田厚が大嫌いですから」と暴走したのも有名)、番組に関係ない新日本の布教に努めたこともあり、NOAHの仲田龍リングアナからも苦言を呈されている。

リングアナ以外にも、新日本プロレス在籍時にはウェブサイト・パンフレット・週刊ゴングで移動中や試合の無いときの選手達のことを書いたコラム「旅日記」を掲載し、毎年「旅日記」1年分をまとめたものも出版されていた。

2005年5月からは執行役員も務めたが、2006年2月19日の両国大会を最後に新日本プロレスを去った。

フリー転向後最初のリングとなったDDTでは観客から「ケロさん、過去の発言を一言でいいから謝ってください。インディファン一同」と横断幕まで張られた。また、高木三四郎とリングの内外で壮絶な舌戦を繰り広げ、ヒートを買った。その後も元新日レスラーのみを集めたユニット「ケロ軍団」を率いてDDTの興行を盛り上げている。

その後藤波辰爾らと共に団体「無我ワールド・プロレスリング」の一員として活動したが西村退団などのトラブル時に無我を退社し、2008年以降フリーである。

そのリングアナとしての技量はプロレス以外からも高く評価されており、新日本プロレス退団後は色々な団体やシュートボクシング興業でもリングアナを務めている。

2009年7月から芸名(プロレスでいうリングネーム)を、本名・田中(タナカ)秀和から「田中ケロ」に改名。

2012年3月4日、新日本プロレス「NJPW 40th anniversary 旗揚げ記念日」では、IWGPヘビー級選手権の特別リングアナを務めた。

2012年11月5日、ももいろクローバーZのライブ「ももクロ男祭り2012-Dynamism-」に出演。

2013年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会で武藤敬司大谷晋二郎(当初は橋本大地の予定だったが怪我のため変更)vsテンコジのリングアナウンサーを務めた。

その他

  • 10年以上前にCDも出している。新日本プロレスのサウンドトラックで、各選手のテーマ曲と同時に選手のコールが収録されている。
  • 普段はスーツやボタンスーツで登場するが、大会場(ドーム大会)では貴族風の衣装(オーダーメイド)で登場する。
  • 2006年12月にアメブロでブログを始めた。
  • エル・カネックからは「プト」と呼ばれていた。これはスペイン語で「オカマ」の意味。若い頃は女の子のような顔立ちだったためにカネックはそう呼んでいた。
  • かつてはハッスルを否定していたが、近年は容認するようになり、ついにはハッスルでもリングアナを務めるようになった。初めてコールを行ったのがタイガー・ジェット・シン vs. RGであった。
  • アントニオ猪木の娘であり、現在サイモン・ケリー猪木の夫人である猪木寛子がミュージカル「アニー」に出演が決まり、マスコミに顔を出した当時、顔立ち&髪型が良く似ていたため、プロレス専門誌のベタ記事で「実は猪木の隠し子?」と書かれたことがある。
  • 1990年2月に行われた新日本の東京ドーム大会で、選手紹介のうちの身長・体重の部分を、ヤード・ポンド法の「○○ポンド」から国際単位系の「○○センチ・○○キロ」という形にして、初めてコールした。いまや他のプロレス団体や総合格闘技の大会でも採用されているこの形だが、最初に導入したのは田中である。そのように変えた理由を田中は「ポンドと言っても、誰も分からないでしょ」と、あるテレビ雑誌で答えていた。
  • 新日本プロレス時代は、試合開始・終了を告げる「ゴング」を鳴らす担当も務めていた。試合序盤でもフォールの体勢に入ると木槌をすばやく手に持ち、いつでも鳴らせるように構えている場面がTVに映し出されており、高速でリズムよく鳴らしていた。また、週刊プロレスの記事には「良いタイミングで小気味良く、聞いている側に気持ちよさを与えるゴング音」と高い評価をされていた(その記事には「どこかの団体のゴング音は試合終了からしばらくたって中途半端に鳴らすから気持ちが悪い」ともライターに書かれている。おそらく、当時の全日本プロレスでのことを指している)。但し、田中が文化放送のラジオ番組にレギュラー出演していた頃に語った内容によると、「あまりにもジャストタイミングで鳴らそうと心がけすぎて、カウント2で鳴らしてしまい試合を終わらせてしまったことがある」とのこと。ミスも何度かあった模様。

著書

  • ケロのモノを投げないでください(シャピオ, 1985年1月)
  • プロレス最強軍団のお通りだい ケロの新日本プロレス旅日記(三一書房, 1989年12月)
  • ケロの新日本プロレス奇行 リングアナウンサーから見た素顔のプロレスラー(三一書房, 1991年4月)
  • ケロのプロレス千夜一夜 新日本プロレス旅日記・特別付録〈海外篇〉(三一書房, 1991年3月)
  • リングの外も危険がいっぱい(三一書房, 1992年4月)
  • ケロのプロレス青春旅日記(三一書房, 1992年11月)
  • ケロのプロレスらぶ・すとおりい 新日本プロレス旅日記(三一書房, 1993年4月)
  • ケロのやっぱりプロレス大好き 新日本プロレス旅日記(三一書房, 1994年3月)
  • ケロと菊水丸の笑撃プロレス塾 「おはようプロレス」活字版(ラジオ大阪編成局編 三一書房, 1994年11月)
  • ケロのスーパープロレス天国 新日本プロレス旅日記(三一書房, 1995年4月)
  • ケロの闘魂プロレス徹底抗戦 新日本プロレス旅日記(三一書房, 1996年4月)
  • ケロのプロレス(秘)一発勝負 新日本プロレス旅日記(三一書房, 1997年4月)
  • ケロの必笑プロレス講座 新日本プロレス旅日記(三一書房, 1998年4月)
  • ケロの燃えろ!闘強導夢(三一書房, 1999年6月)
  • ケロの爆笑プロレス大問題(三一書房, 1999年9月)
  • ケロの世紀末プロレス必笑作戦(三一書房, 2000年7月)
  • ケロのいきなりヒーロー伝説(三一書房, 2001年4月)
  • ケロのプロレス構造改革(三一書房, 2002年7月)
  • ケロの一触即発プロレス笑戦(三一書房, 2003年6月)
  • ケロのおいらはリングアナだ間違いない!?(三一書房, 2004年5月)
  • ケロの新日本プロレス奇行ファイナル(三一書房, 2005年8月)

脚注

  1. 顔がカエルに似ていることから名づけたられたと言われており、本人曰く「子供の頃からの渾名」。ただし、永源遙が新日時代に名づけたという説もある。

外部リンク