ルイス・ロペス (1964年生の内野手)
ルイス・アントニオ・ロペス(Luis Antonio Lopez , 1964年9月1日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身の元プロ野球選手(内野手)。
経歴
現役時代
ラファイエット高校から、1983年のMLBドラフト2巡目でロサンゼルス・ドジャースに入団。1990年9月14日、メジャーデビューを果たす。
1991年、クリーブランド・インディアンスに移籍。メジャー再昇格を果たす。
1994年にアトランタ・ブレーブスに移籍するも、1995年にはインディアンズに復帰した。1992年以降は、メジャー昇格は出来なかった。
1996年に広島東洋カープに入団。同年の春季キャンプではスイングの軌道が安定せず打球も飛ばず、しかも走力もなかった。シーズンでの活躍を不安視されたが、山本一義チーフ兼打撃コーチがスイングを矯正したところ、打撃が開眼。
1996年から2年連続で打点王、1997年には最多安打のタイトルを獲得するなど活躍した。好機で勝負強く、しぶとい打撃でチームに活力を与えた。また「タイトルや個人成績よりも、僕はチームが勝つために仕事をしているんだ」と常々語るなど、チームプレーに徹する姿勢も好感を呼び「広島史上最強の外国人選手」とも称された。
しかし、1997年オフに契約更改交渉がこじれ決裂。翌1998年、出場停止処分となっていた主砲の小久保裕紀に代わる選手を探していた福岡ダイエーホークスへ移籍した。3割近い打率を残すなどの活躍をしたが、小久保の復帰もあって1年で退団。
1999年から2000年の途中まで、アメリカの独立リーグのアトランティックリーグに加盟しているサマセット・パトリオッツでプレーした。
2000年のシーズン途中、長打力不足に悩む広島の再オファーを受けて3年ぶりに復帰。93試合で打率.313、20本塁打、88打点、翌2001年も138試合で打率.308、32本塁打、100打点をマークするなど再び主力打者として活躍した。
2002年シーズン前のキャンプで、ロペスはシーズンの目標を問う取材に対し「打率.350、56本塁打、160打点」という数字を掲げた。
しかし、同年は前田智徳とのトラブル(後述)もあり、4月7日まで.417だった打率は、モチベーションの低下から急降下し、シーズン途中で退団した。
2003年と2004年は、再びサマセット・パトリオッツでプレーした。
引退後
2006年、東北楽天ゴールデンイーグルスの駐米スカウトに就任。2010年は楽天の二軍打撃コーチを務めた。
2012年より横浜DeNAベイスターズ国際担当スカウト。
人物
- 2002年4月6日の対中日ドラゴンズ2回戦(広島市民球場)の8回裏、二塁に前田智徳を置いた場面で、ロペスは中前打を放った。しかし前田は三塁で止まり、加点できなかった。ロペスはこれに憤慨。適時打で本塁生還後、ダッグアウト裏で前田に「どうして本塁に走らなかったんだ」などと激しく詰め寄り、つかみかかる騒ぎを起こした。
ロペスの年俸には打撃成績に応じた出来高が支払われる契約が含まれていたことが背景にあったとも言われている。一方の前田はアキレス腱などの故障歴があるなど足に不安を抱えているため、無理な走塁はできない状態であった(しかもこの日は小雨が降っていてグラウンド状態が悪く、前田は普段以上に足を気遣いながらのプレーを余儀なくされていた)。
4月7日、球団フロントと山本浩二監督による事情聴取に応じたロペスは「打点が欲しかったからやったわけじゃないんだ」と釈明した。しかし、事態を重く見た球団はロペスの出場選手登録を抹消、10日間の謹慎を科した上で二軍の練習参加も禁じる厳罰を下した。前田とは、話し合いの機会を持って和解している。また、この件について前田は「言い訳したくない」とあまり口にしない。
- 2002年8月27日の読売ジャイアンツ戦(広島市民球場)で、満塁の場面で走者一掃(3打点)のシングルヒットを放ったことがある(通常、走者一掃のヒットは長打である)。これはロペスが鈍足だということもあるが、他のランナーの走塁が光ったとも言える。
- 非常に陽気な性格ではあるのだが、乱闘などの激高する場面が多く見られた。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | LAD | 6 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
テンプレート:By2 | CLE | 35 | 89 | 82 | 7 | 18 | 4 | 1 | 0 | 24 | 7 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4 | 1 | 1 | 7 | 0 | .220 | .261 | .293 | .554 |
テンプレート:By2 | 広島 | 130 | 545 | 503 | 66 | 157 | 29 | 1 | 25 | 263 | 109 | 2 | 1 | 0 | 4 | 34 | 0 | 4 | 48 | 23 | .312 | .358 | .523 | .881 |
テンプレート:By2 | 134 | 580 | 532 | 80 | 170 | 27 | 0 | 30 | 297 | 112 | 0 | 0 | 0 | 6 | 36 | 1 | 6 | 58 | 15 | .320 | .366 | .558 | .924 | |
テンプレート:By2 | ダイエー | 134 | 527 | 480 | 58 | 141 | 35 | 0 | 17 | 227 | 68 | 1 | 3 | 1 | 5 | 34 | 2 | 7 | 34 | 14 | .294 | .346 | .473 | .819 |
テンプレート:By2 | 広島 | 93 | 377 | 351 | 43 | 110 | 10 | 0 | 20 | 180 | 88 | 0 | 0 | 0 | 6 | 16 | 0 | 4 | 37 | 12 | .313 | .345 | .513 | .858 |
テンプレート:By2 | 138 | 561 | 493 | 53 | 152 | 21 | 0 | 32 | 269 | 100 | 0 | 2 | 3 | 7 | 51 | 4 | 7 | 35 | 22 | .308 | .376 | .546 | .922 | |
テンプレート:By2 | 80 | 276 | 265 | 12 | 65 | 11 | 1 | 5 | 93 | 33 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 1 | 2 | 23 | 8 | .245 | .264 | .351 | .615 | |
MLB:2年 | 41 | 95 | 88 | 7 | 18 | 4 | 1 | 0 | 24 | 7 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4 | 1 | 1 | 9 | 0 | .205 | .245 | .273 | .517 | |
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NPB:6年 | 709 | 2866 | 2624 | 312 | 795 | 133 | 2 | 129 | 1329 | 510 | 3 | 6 | 4 | 31 | 177 | 8 | 30 | 235 | 94 | .303 | .350 | .506 | .856 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:1996年4月5日、対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民球場)、6番・一塁手として先発出場
- 初打席・初安打:同上、2回裏に今中慎二から
- 初打点:同上、7回裏に今中慎二から中前適時打
- 初盗塁:1996年4月9日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、9回表に二盗(投手:佐々木主浩、捕手:谷繁元信)
- 初本塁打:1996年4月13日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回表に湯舟敏郎から左越決勝ソロ
- 100本塁打:2001年5月9日、対読売ジャイアンツ8回戦(広島市民球場)、2回裏に鄭珉哲から左越ソロ ※史上212人目
背番号
- 12 (1990年)
- 22 (1991年)
- 2 (1996年 - 1997年)
- 44 (1998年)
- 33 (2000年 - 2002年)
- 79 (2010年)