安部英
安部 英(あべ たけし、1916年5月15日 - 2005年4月25日)は、日本の医師。元帝京大学副学長。
人物
山口県長門市の網元の家に生まれる。旧制大津中学校(現・山口県立大津高等学校)、旧制山口高等学校(現・山口大学)首席卒業を経て、1941年東京帝国大学(現・東京大学)医学部卒。1951年医学博士(東京大学)。論文の題は「プロトロンビンに関する研究」[1]。
海軍軍医大尉として従軍し、その後1946年東京大学医学部第一内科助手、コーネル大学留学等を経て、1964年東京大学医学部第一内科講師。1971年に帝京大学に招聘され医学部教授に就任、1980年から1987年まで帝京大学医学部長、のち帝京大学名誉教授。1987年から1996年まで帝京大学副学長。1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。
薬害エイズ事件
テンプレート:Seealso 血友病治療の権威として知られ、1983年に設置された厚生省エイズ研究班の班長を務めた。研究班における安部の態度には曲折があり、当初は非加熱製剤の全面的使用禁止を含めた強固な対策の必要性を主張していた[2]が、様々な圧力とのやりとりの中で軟化し、結果的には一部の反対を押し切って非加熱製剤の使用継続を決定。その後、1985年の5月から6月にかけて、帝京大学医学部附属病院(診療を担当した第一内科の責任者が安部)において、血友病の男性患者が非加熱製剤を投与された。その男性はHIVに感染し、1991年12月にエイズで死亡したとされる。
1990年代に入って薬害エイズ事件が明らかになるにつれて、血友病治療の権威としての非加熱製剤の使用に関する責任が注目された。TVの取材等に対して当初は冷静な受け答えをしていたが、やがて認知症を患い、激昂してくると感情を堪えきれないようになり取材者に対して攻撃的な風貌・物腰・話しぶりをするようになっていった。
1996年8月、任意の事情聴取で容疑を否認したため、捜査機関は在宅での捜査では立証が困難だと判断され、80歳ながら業務上過失致死容疑で逮捕される。9月に業務上過失致死罪で起訴された。なお、安部の容疑は自らが担当した患者にHIVに汚染された非加熱製剤を投与して死亡させたことであり、HIVに汚染された非加熱製剤を流通させたことではない。
2001年の一審では検察の懲役3年の求刑に対し、無罪判決が言い渡された。判決文ではギャロ博士やモンタニエ博士らの世界の研究者が公式見解は事件当時の1985年はHIVの性質やその抗体陽性の意味に不明点が多々存在しており明確な危険性の認識が浸透していたとはいえないこと、代替治療法としてのクリオ製剤には治療に様々な支障があったこと、安部医師を告発した元医師の供述は事件当時の1985年前後に非加熱製剤とHIVの関連を予期する発言や論文が見られない点や非加熱製剤とHIVの関連を予期する供述には当時の専門家の認識から突出している点から検察官に迎合した疑いを払拭し難く信用性に欠ける不自然な供述であることなどがあげられた[3]。安部を極悪人扱いしていたメディアからは一審無罪判決を予想外と報道することが多かったが、医療関係者や法曹関係者の一部には無罪判決となるのはやむをえないとする意見もあった。
無罪判決に検察が控訴したが、心臓疾患や認知症を発症したため公判停止となり、2005年4月25日に88歳で死去した。
弁護側は安部の逮捕・起訴について処罰感情を煽るマスメディアとそれに迎合した検察側の行き過ぎた行為であったと主張している[4]。
ジャーナリストの櫻井よしこが「安部元副学長が製薬会社、ミドリ十字のために加熱製剤の治験開始を遅らせた」などと記述したことについて、安部が損害賠償などを求めた民事訴訟では、一審は記事内容に真実性があるとして安部の全面敗訴、二審は記事内容を真実ではなく真実相当性がないとして安部の逆転勝訴、最高裁は記事内容を真実ではないとした上で真実相当性があったとして安部の逆転敗訴となった[5]。また、加熱製剤の治験の時期などに関する記事で毎日新聞とサンデー毎日に損害賠償を請求した民事訴訟でも、一、二審、最高裁共に安部側が敗訴となった[6]。
一方、新潮社が週刊新潮の記事で「大量殺人の容疑者」などと記述したことに関する民事の損害賠償請求裁判では、一、二審、最高裁共に安部側の勝訴となり、300万円の支払いが新潮社側に命じられた[7]。
薬害エイズ事件の公判中、傍聴人であった右翼団体所属の少年に裁判所構内で殴り倒されたことがあり[8]、この加害少年は暴行罪で逮捕・起訴され有罪確定となった[9]。またフリージャーナリストの櫻井よしこが、自身がキャスターを務めていた『NNNきょうの出来事』で安部を自宅から外出先に向かう場面で突撃取材した際には、安部自身、認知症から冷静な判断が出来ない状態にあり、感情を抑えきれず激昂してカメラマンに食ってかかり、京王井の頭線新代田駅構内ベンチにおいて蹴りを入れる様子が録画され同番組で放映された。
家族(遺族)側からの希望により、「通夜」・「葬儀」・「告別式」、および「学会葬」などは行わず、家族・身内だけでの密葬で済ませた後に死亡を公表した。
家族
妻は高橋雄豺(元香川県知事、読売新聞社副社長)の三女[10]。
関連項目
脚注
- ↑ 博士論文書誌データベース
- ↑ 昭和58年6月18日 読売新聞
- ↑ 朝日新聞 2001年03月28日 夕刊 特設A 「薬害エイズ事件安部被告判決理由<要旨>」
- ↑ 武藤春光、弘中惇一郎・編著 安部英医師「薬害エイズ」事件の真実 誤った責任追及の構図 ISBN 978-4-87798-386-4(現代人文社、2008年)
- ↑ 朝日新聞 2005年06月16日 夕刊 1社会 「桜井よしこ氏逆転勝訴 最高裁「表現、違法性ない」 薬害エイズ名誉棄損訴訟」
- ↑ 朝日新聞 2005年06月22日 朝刊 3社会 「毎日新聞社、勝訴が確定 薬害エイズ名誉棄損 最高裁」
- ↑ 朝日新聞 2005年06月16日 夕刊 1社会 「新潮社、敗訴 一、二審判決確定 薬害エイズ名誉棄損訴訟」
- ↑ 朝日新聞 1998年03月04日 朝刊 2社 「安部英前副学長、傍聴人に殴られけが エイズ公判」
- ↑ 朝日新聞 1998年09月02日 朝刊 3社 「「殴って薬害エイズ被害者が喜ぶか」 安部英被告襲った少年に実刑」
- ↑ 秦郁彦・編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)