大友義右
大友 義右(おおとも よしすけ、1459年(長禄3年) - 1496年7月7日(明応5年5月27日))は、豊後国の戦国大名。大友氏の第17代当主。
幼名、鷹房丸、五郎。初名、親豊(ちかとよ)、材親(きちか)。通称、中務大輔、修理大夫。従四位下。
生涯
1484年(文明16年)父・大友政親(第16代当主)から家督を譲られ、当主となった。
だが父と対立し、母方の伯父大内政弘のもとへ出奔する。大内による大友家干渉の結果である。文明19年/長享元年(1487年)和解して帰国したが、その2年後肥後にて叔父の日田親胤に謀反を起こされた。これは同じく叔父の大友親治の尽力によって鎮圧したが、親豊方は父政親の差金であるとして再び対立が始まる。明応2年(1493年)、将軍職をめぐる足利義材・義澄 の対立においては、従弟・大内義興に従ったのであろうか、親豊は進んで義材に臣従することを申し出、義材の一字から材親、ついで義右と改名。この後、父子対立は激化してゆく。
1494年、政親に加担した筑後詰郡代の田原親宗(田原親述の父)に府内へ侵攻されてしまう(これは義右自身が国宗を敗走させた)。
このように治世が不安定な中、義右は明応5年4月ごろから病を得、翌5月死亡した。法名は傅芳成親大智寺。大分市大智寺に葬られたと伝えられているが墓は現存しない。病死と思われるが、「対立していた父政親に毒殺された」という噂が流れたことが、近衛政家の日記に残っている。家督は父が再度継いだ後にその弟(義右の叔父)である親治が継いだ。
偏諱を与えられた人物
材親時代(?)
※前述した通り、義右が材親を名乗っていた期間はほんのわずかであるため、義右の父・政親から賜っている可能性が高いが、材親を名乗っていた期間や以下に示す人物の元服の時期が不明であるため、一応掲載した。
義右時代