蒲池鑑久
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蒲池 鑑久(かまち あきひさ、明応3年(1494年) - 天文12年(1543年))は筑後南部の大名。蒲池治久の子で、蒲池鑑盛(宗雪)の父。武蔵守。
蒲池氏15代、後蒲池6代。曽祖父・繁久の代から代々大友氏当主から偏諱を賜るようになり、鑑久もこれに倣って大友義鑑から1字を賜った。
父・治久の時、柳川城を築城し、蒲池城から蒲池氏の本拠をここに移していた。大友氏に属し、筆頭大名として筑後の城持大名を統率したという。弟の蒲池親広は、山下城を本拠地として分家し、柳川の蒲池本流を下蒲池と呼ぶのに対して、山下の蒲池分流は上蒲池と呼ばれる。この場合の上、下とは、上=東、下=西と方向を指し、柳川は西にあるため本流が下蒲池、山下は東にあるため分流が上蒲池という。
この当時、九州の諸侯には将軍の上洛の折にお供するという慣例があり、永正4年(1508年)5月に父・治久が足利義尹(のちの義稙)にお供したこともあったが、『西国盛衰記』には筑後十五城の筆頭である蒲池鑑貞がこれを怠ったため、天文年間(1532年~1555年、将軍が足利義晴・義藤のころ)に府内に呼び出されて斬られたという記述があり、この鑑貞が鑑久のことではないかとされる。当時は毎年、八朔(8月1日)に筑後守護職大友氏当主の検閲を受け忠誠を誓わされており離反する者は征伐されることになっており、これにならって義鑑の命によって討伐されたものと思われる(上記の没年はちょうど義鑑が肥後守護に補任された年で天文年間内であり、この史実は十分有力視できる)。死後、家督を継いだ嫡男・鑑盛は引き続き大友義鑑・義鎮(宗麟)の二代に亘って臣従した。テンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub