ハンス・フランク
テンプレート:政治家 ハンス・ミヒャエル・フランク(Hans Michael Frank, 1900年5月23日 - 1946年10月16日)はドイツの法律家、政治家。国家社会主義ドイツ労働者党司法全国指導者。バイエルン州法相、ポーランド総督を歴任した。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑された。
目次
生涯
前半生
ドイツ帝国領邦バーデン大公国の都市カールスルーエの中流カトリック教徒の家庭に生まれる。父はラインラント=プファルツ出身の弁護士だったが、怪しい仕事を数多く引き受けており、後に汚職のために弁護士資格をはく奪されている[1][2]。母は上バイエルンの農家の出身だった[2]。兄と妹がおり、兄は第一次世界大戦で戦死した[3]。なおフランクの両親は1910年に離婚している。フランクと兄は父に、妹は母親に引き取られた[4]。
バイエルン王国首都ミュンヘンの小学校とギムナジウムを出た後、1916年から1年ほどオーストリア=ハンガリー帝国のプラハの学校で学んだ[4]。第一次世界大戦最後の年1918年にバイエルン王国軍に入隊したが、前線には出ておらず、ミュンヘンに駐在していた。大戦末期、クルト・アイスナーらによるバイエルン革命があり、バイエルン共和国が樹立された。さらに1919年にはエルンスト・トラーら共産主義者による革命が起こされ、バイエルン・レーテ共和国が樹立された。フランクはフランツ・フォン・エップ率いるエップ義勇軍に参加して[1]、レーテ共和国打倒に参加した。レーテ共和国にはソ連から多くのユダヤ人赤化工作員が送り込まれていたため、フランクは反ユダヤ主義思想に正当性を感じるようになったという[5]。
1919年9月から10月頃、ドイツ労働者党党首アントン・ドレクスラーの知遇を得、彼からアドルフ・ヒトラーの演説会に出席することを薦められ、はじめてヒトラーの演説を聞いたという。しかしこの時のヒトラーは疲れ果てた感じで、フランクはあまりいい印象を受けなかったという[6]。しかしドイツ労働者党に入党している[1]。
彼は戦後ミュンヘン大学に入学して法学を学んでいたが、のちにキールのキール大学へ移った。1923年夏に一時キールからミュンヘンへ戻った頃にはナチ党がバイエルン州の一大勢力になっていた[6]。フランクは1923年9月に突撃隊に入隊している[1]。さらに1923年11月のミュンヘン一揆にも参加した。一揆は失敗し、ヒトラーは逮捕された。しかしフランクは逮捕されていない。フランクはこの後ミュンヘンの裁判所で行われたヒトラーの裁判で弁護士を務めている[7]。
1924年にキール大学から法学博士号を得た。父親の法律事務所の手伝いをしていたが、1925年に父親が横領容疑で逮捕され、弁護士資格を失っている(1928年に復権)[2][8]。1926年には司法試験に合格し、ミュンヘンで弁護士として活動した[1]。1925年には貧しい工場労働者の娘でバイエルン州議会でタイピストをしていたブリギッテ・ハープスト(Brigitte Herbst)と結婚した[9][10]。彼女は美人ではあったが、フランクより4歳年上で二人はまったく気が合わなかったという。フランクは彼女と出会ったことを「我が人生最大の過ち」と称している[11]。彼女との間に息子3人、娘2人がいたが、この子供たちの存在だけが唯一の夫婦の接点であったという[12]。そのようなわけでフランクはその時々で複数の愛人を持っていた[13]。
ナチ党の法律家
1926年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党したが、フランクの父がナチ党を嫌っていたため、一時離党した[14]。しかしナチ党員の弁護活動をこなしていくうちに、1928年に再入党し、ナチ党の専属弁護士となった[15][9]。1929年に党法務部長に就任[1]。1930年の国会議員選挙でナチ党から出馬して国会議員に当選。当時30歳で最年少国会議員の一人だった[9][16]。
フランクの回顧録によると、フランクは1930年にアドルフ・ヒトラーの自宅に呼び出され、ヒトラーからヒトラーのユダヤ人疑惑の真偽を確かめるために彼の家系を内密に調査せよと命じられていたという[17]。フランクの調査を簡単にまとめると次のとおりである。「ヒトラーの父方の祖母マリアが父親不明で息子アロイス(ヒトラーの父)を産んだことが疑惑の原因である。マリアはユダヤ人の家にメイドとして仕えており、その家の主人か息子をアロイスの父であると考えると、ヒトラーには四分の一ユダヤ人の血が入っていることになる。一方、マリアの夫となるヨハン・ヒードラーの方を父と考えるとヒトラーにはまったくユダヤ人の血は入っていない事になる。どちらが真の父親か調べる事は不可能であるため、ユダヤ人の血が流れている可能性は否定できない。」[18]。
フランクはこのようなことを述べているが、今日の研究ではヒトラーの父がユダヤ人の血筋であるとする説は否定されている[19]。
ナチ党政権掌握後
ナチ党政権掌握後の1933年にバイエルン州法相に任じられた。法務担当国家弁務官、ドイツ法律アカデミー(de:Akademie für Deutsches Recht)総裁なども兼務した。1934年にはヒトラー内閣の無任所相に任じられた[1]。さらにナチ党の法律問題全国指導者(en)にも列する[16]。
1934年にバイエルン州でエルンスト・レーム以下突撃隊幹部が逮捕された際(長いナイフの夜)には、彼らを裁判にかけることをヒトラーに提案したが、ルドルフ・ヘスによって退けられたという[20]。このようなこともあってか、フランクはヒトラーの側近で固められた権力中枢グループに入っていなかった。彼はしだいに政治的影響力を低下させていった[1]。
ポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦するとフランクは中尉としてドイツ陸軍に入隊している[21]。
ポーランド総督
ポーランドを占領した後、1939年10月10日にヒトラーはフランクをポーランド総督に任命した[22]。
ポーランド戦後のポーランドは、東部をソビエト連邦が支配し、中央部から西部はナチス・ドイツが支配した。ナチス・ドイツの支配地域のうち、西部がドイツ本国の領土に併合され、中央部がポーランド総督府領とされた。総督府領はもともとのポーランド領土全体の四割ほどの面積だった[21]。
フランクはそのポーランド総督府領の統治を任されたわけであるが、一部の権限は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと共有しなければならなかった。ポーランド人を支配するためには親衛隊の持つゲシュタポや強制収容所など弾圧的装置は必要不可欠だった[21]。
フランクはクラクフのヴァーヴェル城(en:Wawel)に入り、そこからポーランド総督府領の統治にあたった。しかしフランクはポーランドを「ヴァンダル(蛮地)」と呼んで軽蔑しきっていた[1]。ポーランドは単なる奴隷労働力供給地であると考えており、そのような土地に知識人や美術品など不要であると考えていた。ポーランド人知識人は親衛隊により抹殺され、ポーランドの貴重な美術品はフランクの城に接収され私物化された[23][22][24]。
総督府領内のユダヤ人をゲットーへ隔離し、さらに親衛隊によるゲットー・ユダヤ人の絶滅収容所への移送を容認していた。1941年12月16日、フランクは次のように演説している。「ユダヤ人は消え去らねばならない。奴らは無用の存在である。(略)奴らの姿を見たら必ず撲滅しなければならない。そうしてこそはじめて帝国全体を安泰に保てるのだ。(略)350万人のユダヤ人を銃殺で始末することは無理であるし、毒殺もできない。しかし、帝国において目下検討中の大々的方法と組み合わせれば、奴らを抹殺してしまえる手段を講じることができる」[24]
フランク自身は酒池肉林の宴会を毎夜のように繰り返した[24]。彼の統治はほとんど専制君主同然であり、党の会計士フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツは彼のことを「フランク国王」と呼んだ[25]。宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスも「フランクは統治(regieren)しているのではない、君臨(herrschen)している」と揶揄した。
フランクは自分がヒトラーだけに責任を負う事、ポーランドは自分の私的な領地である事、何者も自分から命令を受けない限りこの領地ではなにも許されない事を強調した[26]。しかし親衛隊についてはフランクに権限がなかった。ポーランド総督府親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー親衛隊大将を総督府の保安担当次官に任命するなどして何とか親衛隊組織を自らの下に置こうとしたが、すぐにヒムラーと対立を深めた[27]。
ヒムラーはフランクとフランクの妻の汚職容疑を掴んでそれをネタに脅迫してくるようになった。もともと権力闘争向きではないフランクの神経は衰弱の一歩手前までいった[28]。ポーランド内の行く先々で敵意を向けられることに疲れた妻ブリギッテはバイエルン州に帰り、そこへポーランドからの略奪品を送らせるようになった。フランク自身もポーランド総督職を辞職したがるようになり、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥に自分を兵役に戻してほしいと懇願している。カイテルはヒトラーにこれを取り次いでいるが、ヒトラーから「論外だ」の一言で却下されている[29]。
1942年6月にドイツ本国へ戻った際、フランクはドイツ法律学会で「ドイツは法治主義を取り戻さねばなりません。いやしくも文明国ならば、親衛隊とゲシュタポが行うような根拠のない逮捕と適正な手続きを経ない投獄を許してはならないのです」と発言した。これにびっくりしたヒトラーはただちにフランクを招集し、フランクにポーランド以外で演説する事を禁止した。またポーランドでの演説も党の方針に沿うようにと命じられた[30]。またナチ党法務部長、法律学会会長、法務担当国家弁務官などの役職を取り上げられた。ただしポーランド総督には在任した[24]。
この後、ハンス・フランクはまったく抵抗の意思を見せずにポーランド総督の職務を淡々とこなした。徴収したポーランド人労働者は労働力配置総監フリッツ・ザウケルのもとへ、ユダヤ人はヒムラーのもとへそれぞれ送りだした。ほとんどのユダヤ人がアウシュヴィッツ強制収容所へ送られることになるのを彼は知っていた[30]。
他のナチ党幹部の例にもれず、戦況の悪化とともに趣味の世界へ引きこもるようになった。彼はピアノを弾いたり、「コロンブスに仕えた給仕」という題の小説を書いたりして現実から逃避していた[31]。
ニュルンベルク裁判
1945年1月、ソ連軍がポーランドに迫ってくると彼はレンブラント、ダ・ヴィンチ、ルーベンスなどの美術品を持って専用列車で脱出する。1945年5月4日、バイエルンでアメリカ軍によって逮捕され、ミーズバッハの刑務所に送られたが、アメリカ軍第7軍第36歩兵部隊に所属する兵士達にリンチにあった(刑務所の入り口に入ろうとする彼を2列に並んだアメリカ兵が暴行を加え、倒れると無理やり立たせて先に進ませ、また暴行する)。このアメリカ兵たちはダッハウ強制収容所を通過してきた兵士たちでフランクが「クラコウのユダヤ人虐殺者」と呼ばれているのを聞き、義憤に駆られて行った暴行だった[2]。5月6日に獄中でナイフで自殺を図ったが失敗している。
開廷前にアメリカ軍心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によるとフランクの知能指数は130であった[32][33]。フランクは拘禁中にカトリックの信仰に深く依存するようになった[24][16]。
ニュルンベルク裁判においては、「自分の恐るべき罪」を認め、自分に不利な証拠(ポーランド総督当時の執務日記)を法廷に提供し、法廷を「神意に基づく世界の法廷」と称え「ヒトラーの罪、ドイツの罪」と主張した。一方で「自分は絶えず孤立している無力者」で「行ったことに影響力はなかった」、「親衛隊を抑えようとしていた」などという抗弁も使っていた。最後には事実を捻じ曲げて数千人の人々が自分のおかげで命を救われたなどと言い出した[34]。
1946年10月1日に被告全員に判決が下った。まず他の被告人達と一緒に判決文が読み上げられた。フランクの判決文は「ポーランドへの犯罪的行為は警察が主体であったが、フランクが自発的かつ十分自覚できる協力者であったことは明白」「フランクが総督になった時、ポーランドには250万人のユダヤ人がいたが、彼が去った時、その数は10万人にまで減っていた」として、彼を「戦争犯罪」と「人道に対する罪」で有罪とした[35][36]。
その後、個別に言い渡される量刑の判決に移り、フランクは夢遊病患者のようにフラフラしながら入って来て被告席にどさりと腰かけた。彼の受けた判決は絞首刑だった。絞首刑判決を聞いたフランクは神に祈るような仕草をしている[37]。
フランクは死刑判決に不満を抱いてはいなかった[38]。助命嘆願書も提出することを望まなかった[39]。
10月16日に他の死刑囚たちとともに絞首刑が執行された。最期の言葉は「拘留中、私に与えられました好意ある全ての取り扱いに感謝いたします。神よ。願わくば、私を慈悲深く迎えて下さらんことを!」だった[40]。回想録である『死に直面して』(未邦訳)を遺している。
1987年に息子ニクラスは長年の調査や回想に基づいて父親の生涯を綴った評伝『Der Vater (父)』を出版したが、父親がポーランドで行った犯罪行為を赤裸々に描いて話題となった。
関連作品
- ジェラルド・L・ポスナー 『ヒトラーの子供たち』 ほるぷ出版。
- ナチ幹部の子供たちのインタビューであり、その中にハンス・フランクの子供たちも含まれている。
- Niklas Frank: Der Vater – Eine Abrechnung, mit einem Vorwort von Ralph Giordano. Bertelsmann Verlag, München 1987, ISBN 3-570-02352-4
参考文献
- ウェルナー・マーザー著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』西義之訳、TBSブリタニカ、1979年
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(上) 』、原書房、1996年、ISBN 978-4562028641
- ジョゼフ・E・パーシコ著 白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判(下) 』、原書房、1996年、ISBN 978-4562028658
- ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』、1997年、柏書房、ISBN 978-4760115167
- 阿部良男著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、2001年、柏書房、ISBN 978-4760120581
- ロベルト・S・ヴィストリヒ著、滝川義人訳、『ナチス時代ドイツ人名事典』、2002年、東洋書林、ISBN 978-4887215733
- レオン・ゴールデンソーン著、ロバート・ジェラトリー編、小林等・浅岡政子・高橋早苗訳『ニュルンベルク・インタビュー 下』(河井書房新書、2005年)ISBN 978-4309224411
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:ニュルンベルク裁判被告人- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 ヴィストリヒ、226頁
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 パーシコ上巻、34頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、27頁
- ↑ 4.0 4.1 ゴールデンソーン下巻、50頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、31頁
- ↑ 6.0 6.1 ゴールデンソーン下巻、32頁
- ↑ 阿部良男、109頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、49頁
- ↑ 9.0 9.1 9.2 パーシコ上巻、35頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、23頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、37頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、24頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、40頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、33頁
- ↑ ゴールデンソーン下巻、34頁
- ↑ 16.0 16.1 16.2 マーザー、332頁
- ↑ パーシコ上巻、175頁
- ↑ パーシコ下巻、177頁
- ↑ 阿部良男、10頁
- ↑ パーシコ上巻、260頁
- ↑ 21.0 21.1 21.2 パーシコ上巻、36頁
- ↑ 22.0 22.1 阿部良男、441頁
- ↑ このため同じく美術品狩りを行ったヘルマン・ゲーリングと競合関係にあった。またフランクは芸術・文化の愛好家で、ピアノ演奏やオペラ鑑賞を好み、ニーチェの哲学に通じ、リヒャルト・シュトラウス、ゲアハルト・ハウプトマン、エリーザベト・シュヴァルツコップ、ヴィニフレート・ヴァーグナー、ハンス・プフィッツナーなどの芸術家を後援した。
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 ヴィストリヒ、227頁
- ↑ ヒルバーグ、151頁
- ↑ ヒルバーグ、153頁
- ↑ ヒルバーグ、157頁
- ↑ パーシコ上巻、39頁
- ↑ パーシコ上巻、40頁
- ↑ 30.0 30.1 パーシコ上巻、41頁
- ↑ パーシコ上巻、42頁
- ↑ パーシコ上巻、166頁
- ↑ マーザー、487頁
- ↑ マーザー、336頁
- ↑ パーシコ下巻、271頁
- ↑ マーザー、337頁
- ↑ パーシコ下巻、279頁
- ↑ パーシコ下巻、287頁
- ↑ マーザー、383頁
- ↑ マーザー、393頁