桂春団治 (2代目)
2代目 桂 春団治(2だいめ かつら はるだんじ、1894年8月5日 - 1953年2月25日)は、落語家(上方噺家)。本名: 河合 浅治郎。出囃子は「野崎」。名は、旧字体で「春團治」とも表記する。
目次
人物
身長160センチメートルに対し腹周り150センチメートルという愛嬌ある体格で、師匠・初代桂春團治ゆずりの爆笑型の本格的な滑稽噺を演じ、初代をしのぐ人気を誇った。人物描写を細部にわたって施した独特の話芸は、テンプレート:誰範囲2。東京の8代目桂文楽は「関西の名人」と称え、6代目笑福亭松鶴は青年時代に陶酔し、いくつかの演目を受け継いだ。
大阪・朝日放送ラジオの開局記念特別番組『春團治十三夜』のために、放送日の数か月前に録音されたとされるテープ音源は、落語のライブ(会場にマイクを設置し、観客の反応を同時に収録する)形式の音源としては、東西を通じて現存が確認できる最古のもの[1][2]である。
3代目桂春団治は彼の実子である。
来歴
落語家になるまで
一説にはテンプレート:要出典範囲とされるが、夫人の河本寿栄が著書で「2代目自身の思い出話」と断りを入れて記したところによると、彼の実父は赤壁周庵の血を引くという大阪・難波の病院院長のひとり息子で、実家の反対を押し切って、自宅に出入りしていた鳶職の棟梁の娘と結婚したが、2代目が生まれる直前に日清戦争で戦病死したという[3]。母親はのちに実家の奉公人と再婚したが、その義父は放蕩の果てに失踪。母親も15歳の時に死去して家業は廃れたという[3]。
浅治郎は3人の弟を抱え、足袋屋(上述の寿栄による回想録では酒樽・醤油樽の「呑み口」=蛇口造りの職人)に奉公に出たものの、小さい頃からの芸好きが高じ、旅芝居の一座に加わったり、素人落語をやったりした。その後大阪俄および喜劇の佐賀家圓助の一座に入門して「佐賀家圓蝶」を名乗り、俄や軽口を演じた[3]。
落語界入りと名跡襲名
圓蝶が落語家になった経緯にはふたつの説がある。ひとつは彼のいた一座によく客演し、懇意になっていた初代春團治門下の桂我團治(のちの2代目三遊亭百生)に、彼が「本当は落語家になりたかった」と心境をうちあけた結果、初代春團治の紹介を受けたというもの。もうひとつは大阪・新世界の劇場での出演を見ていた初代春團治が才能に目をつけ、直接スカウトしたというものである。
1920年入門。前座名は圓蝶の一字を取り、桂春蝶(初代。のちの代と異なり、「しゅんちょう」ではなく「はるちょう」と読む)。1921年6月には、福々しい容貌から師・初代春團治によって桂福團治と改名される(初代)。この時すでに笑福亭福團治がいたため、桂福團治が所属する吉本興行部における大看板・4代目笑福亭松鶴が抗議しているが、初代春團治はそれを突っぱね、そのまま名乗らせた。
1934年11月、初代春團治の死後間もなく、「人気もあるし、先代に一番芸風が似ている」という吉本せいの薦めにより、2代目の名跡を襲名した。その際に初代の所有していた「赤い人力車」をも引き継いだとされる(背もたれから足元にかけて赤い座布団を敷いた、あるいは泥除け部分のみ赤く塗ったものだったとの言い伝えもある)。
襲名に際し、初代が吉本に対して残した多額の借金も相続したとされるが、夫人の寿栄は、のちにこの伝説を訂正している[3]。2代目が吉本興行部の後身・吉本興業に「師匠がそうしたように、全国を巡業して回りたい」と申し出たところ、経営する寄席での出演が減少することをよしとしない吉本が、「期限を切ってならともかく、巡業中心で、その合間に寄席に出るというのは専属契約解除に等しい」と認めず、そこではじめて初代の借金を持ち出し、巡業阻止をはかったものだという。この吉本との確執は裁判沙汰となり、2代目は長らく、京阪神・東京・名古屋・静岡など大都市圏の寄席や劇場に「桂春團治」の名で出演することができなくなった。
晩年
やがて、吉本との訴訟が一段落し、京阪神の寄席に復帰。ミナミの戎橋松竹や京都・新京極の富貴亭などに多く出演したが、1950年、映画『旗本退屈男捕物控』前後編の撮影中に胸の痛みを訴えて倒れ、心臓弁膜症と診断された。これ以後、入退院を繰り返しながら寄席・放送・映画の仕事をこなした。
1951年、大阪・中之島の朝日会館スタジオにおいて、前述の『春團治十三夜』のための録音を行った。本放送は同年11月13日から翌年にかけ、毎週土曜夜9時に行われた。
1953年1月20日、戎橋松竹での「病気全快出演特別興行」千秋楽の夜席で、観客からのリクエストに応えての『祝いのし』を演じている最中に気分が悪くなり噺を中断。見台をつかみながら「今晩のところは身体の調子が悪くて、もう噺がやれません。今夜のところは春団治に祝儀をやったと思し召して、どうぞ次回、お開き直しをいただきまして、今夜はこれにて幕といたしたく」と口上を述べて、観客に中断を謝罪。緞帳が下り切るとともに倒れ込み、「舞台で倒れるのは縁起が悪い」との古くからの幕内での戒めを守った[3]。そのまま回復することなく同年の2月25日に死去した。59歳没。
葬儀は「戎橋松竹葬」として四天王寺本坊で盛大に行われた。1953年3月17日付毎日新聞学藝欄において、谷崎潤一郎は「大阪落語は終わった」と書き、その死を惜しんだ。吉田留三郎は「二代目はむしろ一切を集めて老熟大成する型であった。今しばらく天が寿命をかせばと惜しまれる」と書いた。
主な得意ネタ
弟子
実子の3代目が入門する前には桂團治(桂春治)、桂春楽、漫才に転じた桂春雨(1964年生まれの同名の噺家とは別人。リンク参照)がいた。
落語以外の活動
映画
エピソード
- 3代目春団治の弟子テンプレート:誰によると、「腹回りがあるので大きく見えたが、実際は3代目よりも身長は低い」とのこと。
- 俄師時代に、若手時代の浪曲師・2代目広沢虎造と懇意になった。
- 戦前は南森町交差点の一角に小さな飲み屋を経営。寄席が終わると店に行き、自ら魚をさばいて、客にふるまった。のち宝塚市清荒神に住まいを移した時にも、そこでお茶屋「春團治茶屋」を開いた。
- 出囃子「野崎」については以下のエピソードがある。
- 初代春團治も主に「野崎」で出たことで知られたが、高座によってはたびたび、本人の気分次第で別の曲に変えて出ていた。2代目はこれを快く思わず、「春団治の出囃子は『野崎』でなければならない」と定めたという。したがって、3代目も「野崎」で出ている。
- 8代目桂文楽は「野崎」を気に入り、2代目に対し「自分の出囃子にしたい」と懇願した。2代目は、東京でのみ使用することと、2代目が東上した際に使用を控えることを条件に、これを許可した。
- 手塚治虫は漫画家としてデビューする前の1945年頃、2代目が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した。ポスターは宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている。親交を重ねるうち、2代目は手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めた[3][4]。
- 還暦を過ぎたら春団治の名を譲って剃髪し、桂笑翁を名乗ってさらに芸風を変えると言っていたという。
主な音源
CD
- ビクター落語 上方篇 二代目 桂春團治ライブ十番(日本伝統文化振興財団、2011年10月)- 上記の『春團治十三夜』のうち10席をCD化したもの。
脚注
テンプレート:Reflist- ↑ じゃぽ音っと作品情報:二代目桂春團治ライブ十番 日本伝統文化振興財団
- ↑ 寄席や劇場の中継放送は戦前から存在した(2代目自身も、襲名披露公演は大阪放送局で中継された)が、観客を入れた落語の会場を「録音」するために不可欠な、長時間の音声を明瞭に記録・再生する技術はオープンリール式磁気テープが発明された1950年代まで存在しなかった。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 二代目さん 二代目桂春団治の芸と人(河本寿栄著、小佐田定雄編、青蛙房、2002年2月)
- ↑ 「漫画家手塚治虫」の原点は春團治のポスターにあった! ミニコミ誌「月刊・お好み書き」2003年4月号 - 河本寿栄へのインタビューを含む。