藤原百川
藤原 百川(ふじわら の ももかわ、天平4年(732年) - 宝亀10年7月9日(779年8月28日))は、奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男[1]。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。また、神護景雲3年(769年)には新設の河内職大夫にも任ぜられた[2]。
経歴
称徳天皇代にあって、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)以後後退していた藤原氏をその才覚により支え、権力の再興を果たす。神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件においても、道鏡への皇位継承阻止派として藤原永手らともに雄田麻呂の暗躍があったといわれる。そのころの雄田麻呂は、表向きは内豎大輔として称徳天皇・道鏡政権の中枢に参加する一方で、神託事件によって配流された和気清麻呂のために秘かに仕送りを続けるなど、激動する政界において巧みに振舞ってきた。
神護景雲4年(770年)称徳天皇が皇嗣を定めないまま崩御した際、従兄弟の左大臣藤原永手や兄の参議藤原良継とともに、反対する右大臣吉備真備を出し抜くなど、白壁王(のち光仁天皇)擁立に労を取ったとされる。ただし、神託事件から光仁擁立へ至る時期に雄田麻呂が暗躍されたとする記事は『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」以降に見られ『続日本紀』には見られない。そのため、この時期に雄田麻呂が暗躍したとする所説は、後述する桓武立太子の事情が誤って語られたものであるとした河内祥輔の説が現在では広く支持されている。
白壁王立太子後右大弁に任官、光仁天皇即位に伴い正四位下に叙せられ、翌宝亀2年(771年)には大宰帥・参議に任ぜられる等、要務を勤めることとなった。この頃「百川」と改名。光仁天皇の百川に対する信頼は非常に篤く、その腹心として事を委ねられ、内外の政務に関する重要な事項について関知しないものはなかったという[1]。
宝亀3年(772年)井上内親王(称徳天皇の妹)が天皇に対する呪詛疑惑を理由として皇后を廃され、光仁天皇と井上内親王との間の子である他戸親王も連座して廃太子となり、女系としての天武系も途絶することとなる。翌宝亀4年(773年)、建議により皇太子に山部親王(後の桓武天皇)を立てる。これら一連の事件は山部親王の才能を見込んだ百川の暗躍によるものとされている[3][4]。母親が百済渡来人系高野新笠である山部親王にとっては、望外であったと思われ、親王の百川に対する信任はすこぶる篤かった。
宝亀10年(779年)正月従三位に叙せられるが、同年7月山部親王の即位を見ることなく、従三位式部卿兼中衛大将で没。即日従二位の位階を贈られた。延暦2年(783年)贈右大臣[5]。弘仁14年(823年)淳和天皇(母は百川の子・旅子)即位に伴い、天皇の外祖父として正一位・太政大臣を追贈された。
人物
幼少より才能にあふれ度量があった。要職を歴任したが、各官職を勤勉・真面目に勤め上げたという。[1]
百川の生涯を検討した木本好信は、百川の実像を兄・良継を補佐する実務家・官僚タイプであり、政治家として政権を掌握することには向いていなかったのではと推測している。[6]
なお、9-10世紀の平安時代作とされる、御調八幡宮(広島県)所蔵の男神座像はこの藤原百川をモデルにしたものと伝えられており、その木像は現在では手・脚部分が失われてはいるが、胴体部分に厚みがある堂々とした体躯を表し、また顔立ちも目や口の造りの表現、そして口髭・顎髭の筆跡も残っていて写実的であり、往時の威厳ある容貌を示しているとされる。御調八幡宮は、神護景雲3年(769年)道鏡によって備後国(現在の広島県)に配流された和気清麻呂の姉・法均が八幡神を勧請した縁起を持ち、百川は法均の弟・和気清麻呂を支援した伝承がある[7]。
系譜
参考文献
- 瀧浪貞子「藤原永手と藤原百川」(『日本古代宮廷社会の研究』、思文閣出版、1991年)。
- 加納重文「藤原百川」(『女子大国文』111号、1992年)。
- 木本好信「藤原百川」(『藤原式家官人の考察』、高科書店、1998年)。
脚注
テンプレート:Reflist- ↑ 1.0 1.1 1.2 『続日本紀』宝亀10年7月9日条
- ↑ 『大阪府史 第2巻(古代編2)』 1990年、大阪府、386頁。
- ↑ 「大臣(百川)素屬心於桓武天皇。龍潛之日、共結交情。及寶龜天皇踐祚之日、私計為皇太子。于時、庶人他部在儲貳位。公數出奇計、遂廢他部。桓武天皇為太子。致身盡力、服事儲宮。」『公卿輔任』藤原百川傳
- ↑ 北山茂夫『日本の歴史 4 平安京』中公文庫,1973年,7-8頁
- ↑ 『続日本紀』延暦2年2月5日条
- ↑ 木本、1998、P127-128
- ↑ 丸山士郎 「作品解説」『国宝大神社展(特別展共通図録)』(2013年、東京国立博物館・九州国立博物館)、295頁および165頁(写真のキャプション)による。
- ↑ 『尊卑分脈』
- ↑ 『続日本後紀』『公卿補任』