池田忠雄
テンプレート:Otheruseslist テンプレート:基礎情報 武士
池田 忠雄(いけだ ただかつ)は、淡路国洲本藩主、のち備前国岡山藩第2代藩主。鳥取藩池田家宗家2代。
播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)[1]。母は徳川家康の次女・督姫。岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。
生涯
慶長7年(1602年)10月28日、姫路城で生まれる。慶長13年(1608年)、7歳で元服する。家康の孫に当たることから慶長15年(1610年)、9歳で淡路洲本に6万石の所領を与えられたが、父の姫路城に留まり、池田氏重臣が政務にあたった。元和元年(1615年)、岡山藩主である同母兄・忠継が17歳で早世したため、その跡を継いだ。このとき、遺領38万石のうち、忠継が相続した母・良正院の化粧料10万石より同母弟・輝澄(山崎藩3万8,000石)や政綱(赤穂藩3万5,000石)、輝興(平福藩2万5,000石)らにそれぞれ分与したため、忠雄の領地は31万5200石となった。
入封後は岡山城の拡張工事や城下町の整備、新田開発や治水工事に努めたが、寛永7年(1630年)7月11日、寵愛する小姓の渡辺源太夫が藩士・河合又五郎に殺害されるという事件が起こり(鍵屋の辻の決闘)、脱藩した又五郎をかくまった旗本と外様大名の争いに発展した。寛永9年(1632年)、又五郎誅殺を願いつつ、忠雄は31歳の若さで死去した[2]。死因は天然痘だが、毒殺されたという説もある。死後、家督は長男・光仲が継いだが、幼少だったために因幡鳥取に移封された[3]。
墓所は清泰院である。当初岡山県岡山市中区小橋にあったが、1964年(昭和39年)に国道橋建設のために岡山市南区浦安本町に移転した。
政治
備前1国と備中4郡を領した忠雄は、岡山城の城郭の整備、城下町の拡張整備にあたった[4]。
岡山城については、大手門を改築し、高麗門を構えて石垣で枡形をつくり、石垣を南北にまたいで西面する渡櫓門を建て、枡形門をつくった。また、大砲に対する防衛のため、本丸書院の段の北西角に望楼と武器庫を兼ねた月見櫓を新設し、付近に火薬庫と大砲の発射設備である石狭間を設け、防備を固めた。
城下町については、旭川の用水路である西川の開削が代表的で、この西川を城下と農村の境界とした。