継続戦争
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 継続戦争 | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 300px ドイツ軍からフィンランド軍に供与されたIII号突撃砲 | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1941年6月25日 - 1944年9月19日 | |
場所:カレリア地峡、東部カレリア | |
結果:ソ連の勝利、テンプレート:仮リンクの成立 休戦協定後、フィンランド軍と在芬ドイツ軍との間にラップランド戦争が勃発。 1947年のパリ平和条約で最終的な講和条件が確定。 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon フィンランド テンプレート:Flagicon ドイツ国 |
テンプレート:SSR1923 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 22px マンネルハイム | 22px キリル・メレツコフ |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | フィンランド軍 530,000 ドイツ軍 220,000 |
900,000-1,500,000 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死・行方不明 58,715 戦傷 158.000 |
戦死・行方不明 200,000 戦傷・戦病 575,000 捕虜 64,000 |
テンプレート:Tnavbar |
継続戦争(けいぞくせんそう、テンプレート:Llang)は、第二次世界大戦中の1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で戦われた戦争である。戦争当事国の一方であるソ連では、この戦争は大祖国戦争(独ソ戦)の一部である。第2次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも呼ばれる。第1次ソ・芬戦争については冬戦争を参照。
戦争の背景と始まり
フィンランドとソビエト連邦の冬戦争は1939年11月30日に始まり、フィンランド軍は奮闘したものの、1940年3月12日のテンプレート:仮リンクにより終結した。フィンランドは独立を維持したものの、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島を租借地とすることを余儀なくされた。冬戦争の際に連合国はフィンランドに介入しようとしたが、援軍をノルウェー、スウェーデンが通さず、連合国もそれ以上の介入はしなかった。ノルウェー、スウェーデンもソ連との関係悪化を防ぐために中立維持を求め、スウェーデンからは義勇兵は送られてきたものの、フィンランドへの公的な支援はなかった。このような各国の態度はフィンランドにとって厳しいものだった。冬戦争後、フィンランドはスウェーデンと同盟を結ぼうとした。だがソ連の横槍が入ったうえ、中立を守ろうとするスウェーデンの「敗北したフィンランド」への対応は冷たいものだった。
バルト三国がソ連領化されるとフィンランド国内では仇敵ソ連に対する脅威感が更に高まった。連合国が当てにならず、北欧諸国も当てにならず、共産圏の脅威が忍び寄るフィンランドは枢軸国ドイツとの関係を深めざるを得なかった。さらなる脅威に対抗するために1940年8月にフィンランドはドイツと密約を結び、領土内にドイツ軍の駐留を認めた。更に貿易の上でもドイツとの関係を深め、ドイツに物資を頼るようになった。しかしながら、このドイツ頼みの姿勢はフィンランドが枢軸国と見られる理由を作ることにほかならなかった。
1941年6月22日ドイツがソ連攻撃を開始すると、フィンランドは当初中立を表明した。しかし、フィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ軍に対し、ソ連はフィンランド領内で空爆を行ったため、6月26日フィンランドはソ連に対して宣戦を布告した。フィンランドはドイツとは同盟関係にないことを再三強調し、この戦争は冬戦争の継続であるとした。このため、この戦争はフィンランドで継続戦争と呼ばれている。しかし、連合国はこのような主張を認めず、同年12月、イギリスはフィンランドを枢軸国とみて宣戦布告し、フィンランドに同情的であったアメリカ合衆国も国交を断絶、フィンランドの第二次対ソ戦が始まった。
経過
1941年7月、戦争が始まるとフィンランド軍はカレリア方面に攻勢を行った。準備の整わないソ連軍を相手にフィンランド軍は快進撃を続け、冬戦争で奪われた領土を再占領して行った。8月末には冬戦争前の国境線まで到達し、12月にはレニングラード近郊まで進出し、激しい戦いが行われていたハンコ半島からもソ連軍は撤退した。しかし、ドイツ軍のモスクワ攻略作戦での失敗もあって1941年末には戦線が膠着。もとより冬戦争前の領土以外に対する領土的野心が少なかったフィンランド軍はさらなる進攻は行わずにドイツ軍の作戦支援を行い、カレリア一帯に塹壕と防衛線を築きながら防御体制に入った。
1943年、ドイツ軍がスターリングラードの戦いで敗北すると、フィンランド首脳部は枢軸国不利と見て戦争からできるだけ早く離脱し、ソ連との講和を結ぶことを考え始めた。1943年にはリスト・リュティが大統領に再任され、内閣は早期の講和に向かって動き始めたが、その試みはすぐに打ち破られた。フィンランドはドイツに対し、自国が継戦困難であり早期にソ連と分離講和をしたい、と伺いを立てたが、ドイツから猛反発を食らい、ドイツからの食品などの必要物資の補給を止められてしまった。ドイツに物資を頼っていたフィンランドは物資不足に陥り、戦争を継続することをドイツ側に伝え、許しを請い、ようやく物資の輸入を再開してもらった。
しかし、その後も枢軸国の不利は変わらず、フィンランドは戦争離脱を模索し続けた。1944年1月にソ連がレニングラード包囲戦でドイツの包囲を打ち破ると、フィンランドは2月にソ連に講和を持ちかけた。しかし、ソ連がフィンランドに出した講和条件は厳しいものだった。講和条件にはフィンランドは独力でフィンランド在留のドイツ軍を駆逐すること、という条件があった。この条件は当時のフィンランド情勢から考えると到底受け入れることのできない物であった。フィンランドより先に連合国と講和し、枢軸を脱落したイタリアやハンガリーは講和し枢軸国を脱落した後すぐにドイツ軍が国土を再占領するという事態が起こっていた。講和を受け入れれば、フィンランドは駐留ドイツ軍を駆逐するどころか全面戦争になり、ドイツに占領されるというイタリア、ハンガリーの二の舞になりかねなかったのである。
フィンランドはやむなく講和交渉を打ち切り、ソ連との戦闘に備えた。カレリア地峡に前もって備えていた防衛線以外にも防塞の建築を始めた。6月9日に連合軍のノルマンディー上陸作戦と呼応してソ連の再攻勢が開始された。ソ連軍はレニングラード方面軍、カレリア方面軍がこの攻勢に参加し、フィンランドはほぼ全軍を使ってこの攻撃に対抗した。フィンランドはカレリア地峡に作った主防衛線、VT防衛線で抵抗したものの、冬戦争当時とは比べ物にならないほど戦争慣れしており、圧倒的な攻撃力で攻め込むソ連軍の攻撃を前に後退を続け、ソ連の攻勢再開から半月を持たずにフィンランド第二の都市ヴィボルグが陥落し、フィンランド軍は6月21日には第三の防衛線VKT線まで後退した。
フィンランドはドイツに援軍を求めた。大統領であるリュティは「フィンランドはドイツと共に断固最期まで交戦する」と宣言してまで援軍を確保した。更に東カレリアで防衛を行っていた軍からも一部兵力を引き抜き、カレリア地峡方面に総兵力の半数以上をつぎ込んだ。さらにドイツからの援軍、支援物資も到着し常に不足していた対戦車兵器もドイツから供与された。6月21日、ソ連軍はフィンランド軍の壊滅、フィンランド本国への到達を目標にVKT線に攻撃を始めた。フィンランド軍はVKT防衛線で強固な抵抗を続け、タリ=イハンタラの戦いは非常に膨大な流血を伴う戦いとなった。この地域は機甲師団の通れる範囲が非常に狭かったため、ソ連軍はその兵力の多くをほんの10km程度の区画に集め、突破を図った。フィンランド軍は波状攻撃を続けるソ連軍に必死に抵抗。ソ連部隊に損害を与えながら少しずつ戦線を下げていった。6月27日から30日にかけてのソ連軍の攻勢で突破を許しそうになったが、7月1日には援軍や対戦車兵器が前線に続々と到着し、ソ連軍に反撃した。一区画に多くの兵力を集めていたソ連軍は大打撃を受け、一部の部隊は壊滅、ソ連軍の進撃の足は止まった。
その後もソ連軍はフィンランドの防衛線を突破しようと試みたが、フィンランド軍はソ連軍に勝利を重ね、地峡の突破は許さなかった。この後、兵力の薄くなった東カレリアに向け、ソ連軍カレリア方面軍が攻勢を開始した。しかし、こちらも遅延防御を続けるフィンランド軍に徐々に勢力をそがれ、フィンランド軍が築いていた防衛線近くまで下がり、そこまで到達するとそれ以上の進軍が難しくなった。また、イロマンツィの戦いではモッティ戦術でソ連軍を壊滅させ、継戦能力がまだあることを見せた。
このようにフィンランド軍はソ連軍の侵攻を止めることに成功した。しかし、圧倒的な兵力差・物量差のためフィンランドは戦線を押し戻すことは不可能であり、ぐずぐず戦争が長引けば敗北は必至であった。一方ソ連は緒戦でのフィンランド軍の執拗な抵抗を見て、たいした資源もないフィンランドに多数の兵力を貼り付けて征服することの無意味さを思い知った。さらに、連合国はノルマンディー上陸作戦を成功させヨーロッパを東進する構えを見せていた。ソ連としては対枢軸国戦争後のヨーロッパでの勢力圏拡大の為に、フィンランド方面を攻めるより、東欧諸国へ攻撃を行うほうが理に適っていた。さらにソ連は対ドイツ戦線のバグラチオン作戦のためにドイツ戦線に戦力を集中させており、7月9日以降はフィンランドへの攻勢の主力となっていた戦車部隊からエストニア方面に兵力を引き抜いていった。このため、ソ連側から更なる攻勢は行えなかった。この状況下で戦争は膠着し始める。戦線の膠着が始まるとフィンランド政府は再度戦争終結のため、ソ連との講和交渉を再開した。また、ソ連もフィンランドが降伏するのであれば和平に応じる姿勢に変わり始めた。
ユダヤ人への対応
戦時中、フィンランド軍の中にはユダヤ人も存在し、また新たにフィンランド国内へ逃げ込んで来るユダヤ人亡命者も数多くいた。フィンランドはそうしたユダヤ人達に対してフィンランド国籍を与え、ドイツへの引き渡しを拒否し、彼らを保護した。 当然そのような行動はドイツとの関係悪化を招き、戦争を早期に抜け出せない要因の一つともなったのであるが、ユダヤ人に対し寛容との評価は国際的にはあまりなく、テンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-fi)にも見られる非ユダヤ人のみの組織構成の姿勢はファシスト的であると考えられている。
戦争の終結・その後
フィンランドは戦争からの離脱をのぞんでいたが、ソ連の和平条件は横暴を極めてとうてい飲めるものではなく、またソ連と交渉を行うたびにドイツから経済封鎖(特に食糧品輸入の停止)を受けた。そしてドイツからの援助を受けるためにリュティ大統領が個人名義で行った「ドイツと共に断固最期まで交戦する」という宣言のために、リュティ政権下ではソ連との講和に臨むことができなかった。このため、講和に先立ってリュティは大統領を辞し、軍の最高司令長官であったマンネルヘイム将軍に大統領の座を譲り渡した。フィンランドは政権交代が行われ親独政権ではなくなったことを強調。親独的であったのは前大統領のリュティだけであるとして、講和交渉を行った(戦後、リュティはナチスに与した戦争犯罪人として裁かれたが短期間で釈放され、その死は国葬で称えられた)。
ソ連が講和交渉の中で提示した条件には2月の講和条件と同じくドイツ軍との決別、フィンランド領内からのドイツ軍の排除が盛り込まれていた。しかし、交渉によってそれを行うための若干の猶予が認められた。そのほか、賠償金3億ドル相当の支払い、国境線を冬戦争後のものに戻すこと、フィンランド湾の要衝ポルッカラをソ連の租借地とすること、軍備の制限、戦争犯罪人の処罰、全体主義的団体の解体、第二次大戦終結までの間の飛行場や港湾の使用許可などが求められ、フィンランドはこの条件で講和を飲んだ。フィンランドとソ連の間で1944年9月19日にテンプレート:仮リンクが調印され、その24時間後に完全に戦闘を停止した。
フィンランドは一時はカレリアとサッラの旧領を回復したが、ソ連軍の反攻によって奪還され、北極海に面するペツァモ地方も失った。継続戦争への参戦によってフィンランドは第二次世界大戦の枢軸国側であったとされ、現在でも日本やドイツ等と一緒に国際連合の敵国条項に含まれうるとの解釈が可能である。皮肉にも、ソ連の侵略から国土を守るために『敵(ソビエト連邦)の敵(ナチスドイツ)は味方』の理屈で、枢軸国の一員としてナチスドイツと手を組んだフィンランドが敗戦国となり、逆にアメリカとイギリスが『敵(ナチスドイツ)の敵(ソビエト連邦)は味方』の理屈で、侵略行為で国連から追放されたソ連と連合国として手を組み、連合国が戦勝国となったおかげでソ連が国連の常任理事国になり、フィンランドから賠償金を取るという、理不尽な戦争であった。ただしフィンランドは冷戦後も米英とも友好関係であった。ポーランドを侵略したドイツ・ソ連のうちドイツが敗戦国となった事でドイツによる侵略は国連で議論されたが、戦勝国となった事によりソ連による侵略は国連で議論される事なくポーランドは共産主義陣営の一員となった。
ソ連との休戦と同時に条件であった駐留ドイツ軍をフィンランドから排除するためにラップランド戦争が戦われた。継続戦争で共に戦った兵士たちであったためドイツ軍はフィンランド軍と戦闘をほとんど行わず穏便に撤退したが、フィンランドの降伏に激怒したヒトラーはフィンランド湾の島々に強襲上陸を敢行。この後もたいした戦闘は無かったが、とろとろ退却を続けるドイツ軍を早期に排除するためフィンランドはドイツ軍を攻撃。さらにラップランドのドイツ軍が戦闘をほとんどしていないことを知って怒ったヒトラーの命令によって、ドイツ軍はラップランド地方で焦土作戦を行い、ラップランドは壊滅に近い被害を受けた。
フィンランドは継続戦争で冬戦争以上の多大な犠牲を払った。しかし、フィンランド軍は奮闘し、圧倒的な戦力差を誇っていたソ連軍はフィンランドの3倍以上という大損害を受けた。
フィンランドが国際社会に復帰するのは1947年の連合国21ヶ国に対する講和条約、パリ平和条約の調印後になる。戦後、東欧では親ソ共産主義政権の樹立やソ連軍の進駐、そして時に武力侵攻が行われた。フィンランドでは東欧のようなことは無かったものの、ソ連の強い影響下におかれて事実上東側陣営の一員とみなされた。また、ソ連との対立を避けるためにあえて「ソ連有事の際には敵国に協力することなく、独立国としてソ連の支援下で戦う」という覚書まで提出し、さらにパーシキヴィ路線と呼ばれるソ連との友好的外交を行い、マスコミは自主規制を敷いてソ連の侵略への批判はタブーとなった。これにより、「非共産国でありながらソ連に宥和的姿勢を示す」ことは正式な政治用語でフィンランド化と言われるようになった。
フィンランドは戦時の徹底抗戦路線と戦後の従属外交路線を冷徹に使い分け、1956年にはポルッカラ租借地も返還され、一応独立と平和を保つことに成功した。反面、ソ連は莫大な損害を受けつつもポルッカラ以外の戦前要求していた領土は確保し、かつフィンランドを敵対国から従属国に変えるという領土的・外交的勝利は一応達成した。
関連文献
- 中山雅洋『北欧空戦史』〈文庫版航空戦記シリーズ 13〉(朝日ソノラマ、1982年)
- 中山雅洋『北欧空戦史』(学研M文庫、2007年) ISBN 978-4-05-901208-5
- 梅本弘『流血の夏』(大日本絵画、1999年):日本語で読める「継続戦争」の戦記としては最もまとまっていると思しき物。特に最後の年の夏季攻勢について詳述されている。
- 植村英一『グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの白い将軍』(荒地出版社、1992年)
関連項目