リスト・リュティ
リスト・リュティ Risto Ryti | |||||
ファイル:Risto Ryti.png |
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任期 | 1940年12月19日 – 1944年8月4日 | ||||
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任期 | 1940年3月27日 – 12月19日 | ||||
元首 | キュオスティ・カッリオ | ||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:FIN1809、フイッティネン | ||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:Flagicon フィンランド、ヘルシンキ |
政党 | 国民進歩党 | 配偶者 | ゲルダ・パウラ・セルラチウス |
リスト・ヘイッキ・リュティ(テンプレート:Lang-fi, 1889年2月3日 - 1956年10月25日)は、20世紀のフィンランドの政治家。フィンランド銀行総裁や首相、大統領を歴任した。第二次世界大戦後、戦争犯罪人として告発され、禁錮10年の判決を受けたが、まもなく釈放された。フィンランド人に尊敬の念をもたれ、その死は国葬を持って送られた。フィンランドで最も偉大な人物ランキングはマンネルヘイムに続いて第2位。
生涯
初期の経歴
ロイマーで農場を営む両親の元、7人の子供のうちの1人として生まれる。家業は農業だったものの、リュティ自身は子供の頃から本の虫で、あまり家業には親しまなかった。1906年にヘルシンキ大学に入学し、法律を学ぶ。
1909年に卒業後はラウマで弁護士として働くようになる。そのうち、実業家のアルフレッド・コルデリン(Alfred Kordelin)の弁護士となり、2人は親しい友人になっていく。働きながらも勉強を続け、1914年の春にオックスフォード大学に入学し海上法を学ぼうとするが、すぐに第一次世界大戦が勃発し、フィンランドに戻ることを余儀なくされる。1916年にゲルダ・パウラ・セルラチウス(Gerda Paula Serlachius)と結婚。
政治家として
1940年3月、ソビエト連邦が起こした冬戦争(第1次ソ・芬戦争、ソ・フィン戦争とも)がモスクワ協定により終結したものの、これはフィンランドにとって非常に不利な内容であり、ソ連との緊張関係は継続していた。そのため、1940年8月、リュティはドイツと密約を結び、領土内にドイツ軍の駐留を認めた。1941年6月22日にドイツがバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦を開戦すると、当初は中立を表明したが、フィンランド領内からソ連を攻撃したドイツ軍に対し、ソ連がフィンランドの空爆を行ったため、6月26日にはソ連に対して宣戦布告し、継続戦争(第2次ソ・芬戦争)の幕が開いた。この開戦宣言は、実質的な同盟国であるナチス・ドイツの参戦要請に応えたわけではないことを強調したものだったが、同年12月にイギリスはフィンランドに宣戦布告し、アメリカ合衆国は国交を断絶した。フィンランド軍も初めは勝ち進んだものの、1943年にドイツ軍がスターリングラードの戦いで敗北し、1944年6月にはソ連の再攻勢が開始され、1944年7月には1940年の国境線まで後退した。ナチスに与したフィンランドはすでに国際社会からの同情も失っており、これらによって、リュティは辞職した。 リュティは自らが辞職する前に当時軍の最高司令官であったマンネルヘイムにドイツとの密約はすべてフィンランドの大統領としてではなくリスト・リュティという一個人の名前で署名したこと、それによって「親独路線はリュティ個人の方針。だから責任はリュティ個人にある」と自分一人に戦争責任を転嫁できることをマンネルヘイムに伝え、グスタフ・マンネルヘイムに全てを託して大統領の座を譲った。
そして、マンネルヘイム新政権はリュティのプラン通り、「親独路線はリュティ個人の方針。だから責任はリュティ個人にある」と戦争責任をリュティに転嫁した形をとった。
その後
戦後、リュティは戦時中ナチスに加担したとして戦争犯罪人として訴追され、1946年に禁錮10年の判決を受けた。 しかしその後健康を害し1949年に釈放され、以後は政界に復帰することなく隠遁生活を送ることになる。 1956年に死去。その死にはソ連の猛烈な反対にもかかわらず国葬が行われた。
関連図書
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