赤軍パルチザン
赤軍パルチザンとは、ソビエト連邦がモスクワ放送などで指揮した、共産主義のゲリラ部隊。ナチス・ドイツとの戦争中に結成されたのが起源とされている。
概要
赤軍をモデルとして作られたパルチザンはソ連政府の統制および指揮を受け、ドイツ軍の後方、特に道路や線路など輸送機関の破壊を最大の目的としていた。
1941年7月29日、人民委員会議と共産党が発した指令の内部でパルチザン活動に関する概略が述べられた。当初のパルチザン部隊は赤軍兵士および破壊大隊、地方の共産党員、コムソモール、ソビエト活動家によって構成され、ソ連当局の資料によると1941年夏の時点ですでに231個の「派遣隊」が活動しており、同年の終わりまでに437個が編成され7200人以上が従軍した。
ベラルーシ
ベラルーシには深い森林や沼沢地が多く、モスクワに繋がる道路や線路が集中しているためソ連政府はパルチザン活動が重要になると考え、「種子部隊」を派遣してバルバロッサ作戦の際に取り残された赤軍兵士と合流させ、後方のかく乱を行ったが、戦線がさらに遠のくと支援が得にくくなり、1942年3月まで大規模な支援は得られなかった。
赤軍のラジオ放送は同年四月まで届かず、地元の人々の支持を得られなかったために活動は困難なものとなった。モスクワの戦いでソ連軍が勝利するとパルチザン兵の士気は高まったが、冬季大反攻が経過するまでベラルーシそしてドイツ占領地域全体におけるパルチザン運動に転機は訪れなかった。
1942年春、独ソ戦1年目の経験から派遣隊は旅団に統合され始めた。部隊の調整や増強、再編、補給路の設立が行われてパルチザンの戦闘能力を高め、年末までに鉄道に対するサボタージュによりエンジン数百台、車両数千両が破壊された。この年、地域行政に対するテロ活動が目立ち、結果として住民のうち一部ではあったが反パルチザン部隊に加わったものもいた。同年11月にはパルチザンの兵力は4万7千人に達していた。
1943年1月の時点でパルチザン兵士5万6千人中ベラルーシ西部で活動していたのは1万1千人で、東部の人数より地元住民1万人につき3.5人少なかった。
ロシア
ブリャンスク方面では、パルチザンはドイツ軍の後方で広大な領域を支配していた。1942年の夏には面積1万4千平方キロメートル、人口20万人を掌握していた。ロシアのドイツ軍占領地ではアレクセイ・フョードロフ、アレクサンドル・サブロフらに率いられた6万人のパルチザンが活動し、ベルゴロド州、オリョール州、クルスク州、ノヴゴロド州、レニングラード州、プスコフ州、スモレンスク州などの地域で活発に動いた。このうちオリョールとスモレンスクのパルチザンはドミトリー・ニコラエヴィッチ・メドヴェージェフに指揮されていた。
1943年に赤軍がロシア西部とウクライナ北東部の解放に着手すると、フョードロフ、サブロフ、メドヴェージェフらは独軍占領下のウクライナ中部・西部に移動してパルチザン活動を続けるよう命令された。