ポール・ヴァレリー
テンプレート:Infobox 作家 アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(テンプレート:Lang-fr-short, 1871年10月30日 - 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。
生涯と作品
1871年、地中海沿岸の港町セットに生まれる。母ファニーはトリエステ生まれのイタリア人。ちなみに同年の7月には『失われた時を求めて』の作者マルセル・プルーストが生まれている。1884年、モンペリエに移住。この頃から文学に関心を持ち始め詩を書き始める。1887年3月、父バルテレミー死去。1888年、モンペリエ大学法学部入学。少年時代はポーやボードレール、ランボーの詩に熱中していたようである。1889年頃、ユイスマンスの『さかしま』を耽読し、そこに引用されていたマラルメの未完の詩『エロディヤード』の断片に魅せられる。
1890年5月、モンペリエ大学創立600年記念祝賀で偶然、パリからやってきた詩人ピエール・ルイスと知り合い親交を深める。ルイスはヴァレリーとの文通のなかでマラルメの『エロディヤード』の詩を30行ほどを書き送り、ヴァレリーを感激させる(1890年9月頃)。12月、ルイスを通してアンドレ・ジッドと知り合い、終生その友情関係を結ぶ。またこの頃、マラルメに手紙を書き送り、返事をもらっている。1891年頃、詩作が活発になり、ルイス主宰の同人誌『ラ・コンク』創刊号に『ナルシス語る』を投稿する。同年9月、母と共にパリへ。ユイスマンスとマラルメに会う。
1892年9月から11月、母方の親戚の住むジェノヴァに滞在した。この頃詩人としての才能を疑い、文学的な営みに対して激しい嫌悪を抱くに至ったヴァレリーは次第に文学から遠ざかった。そして片思いの恋慕など、雑多な思考を切り捨て、知性のみを崇拝することを決意した。この決意はジェノバ滞在中の記録的な嵐があった晩と同時期とされる為、「ジェノバの夜」と呼ばれている。そして1894年から『カイエ』と呼ばれる公表を前提としない思索の記録をつづり始め、その量は膨大な量(およそ2万6千ページ)となった。1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表、1896年に小説『テスト氏との夜会』を発表の後、『カイエ』の活動を基軸とした20年に及ぶ文学的沈黙期に入る。
1917年4月、ジッドの勧めにより創作していた『若きパルク』をNRF誌上で発表し、一躍名声を勝ち得る。1922年、『魅惑』発表。1925年、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出される。1937年からはコレージュ・ド・フランスの詩学講座を担当する。数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われ、第三共和政の詩人としてその名を確固たるものしていく。1945年死去。 その死はドゴールの命により戦後フランス第一号の国葬をもって遇せられた。
ジッドの尽力により、1930年から逝去した1945年にかけて、断続的にほぼ毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされたが[1]、受賞はかなわなかった。
モンペリエ大学の法学部出身であり、現在のモンペリエ第3大学(文学部)には彼の名前が冠せられている。ちなみに8歳年上の兄ジュールは同大学法学部教授であり、後に総長となっている。ルノワール、ドガらとの親交もあり、画家ベルト・モリゾの姪が妻ジャニ・ゴビヤールである。
日本での受容
日本では、アルベルト・アインシュタインの相対性理論をいちはやく理解した詩人として知られるようになった。小林秀雄訳「テスト氏」が早くから読まれ、詩は堀口大學が訳し、ヴァレリー自身と書簡のやり取りもしている。
戦前(昭和初期)より佐藤正彰・河盛好蔵・吉田健一等が訳し、創立間もない筑摩書房で『全集』は刊行開始された。一度目は戦局の悪化で、二度目は戦後の出版事情で未完となった。
『ヴァレリー全集』は1960年代に、佐藤正彰・鈴木信太郎等の編集により出版完結、新装版と増補版も刊行した。21世紀に入り清水徹や恒川邦夫等による新訳が刊行された。
なお、堀辰雄の中編小説『風たちぬ』は、冒頭に堀自身が訳した、ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも。“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”」が題名の由来となっている。直訳では(風が起きた、生きてみなければならない)になる。
主な著作(邦訳)
- 『天使』 初期詩集。主な作品は、(鈴木信太郎訳『ヴァレリー詩集』 岩波文庫)に収録。
- 『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』(1895年)。 (山田九朗訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』 岩波文庫)
- 『ムッシュー・テスト』(1896年)、(清水徹訳、岩波文庫、2004年)。唯一の連作小説集で、最初の訳書は、小林秀雄訳『テスト氏』(1932年)
- 『方法論的制覇』 ドイツ評論ほか、文明批評。
- 『若きパルク La Jeune Parque』(1917年)
- 『海辺の墓地』(『魅惑 Charme』に所収。1922年)
- 『精神の危機』 ヨーロッパ文明評論。(恒川邦夫訳 『精神の危機 他15篇』 岩波文庫、2010年)
- 『ヴァリエテ Ⅰ~Ⅴ』 (1924~44年)、ヴァレリーの代表作で評論集[4]
※Ⅰが最初期の訳書。中島健蔵・佐藤正彰訳、Ⅱは寺田透・安士正夫訳(各白水社)。- 代表作の新訳は、『ヴァレリー・セレクション』(東宏治・松田浩則編訳、平凡社ライブラリー(上下)、2005年) に収録。
- 『ドガ ダンス デッサン』 (清水徹訳 筑摩書房、2006年)[5]
- 『エウパリノス』 (1921年)、プラトンの対話形式を用いた、建築、音楽評論。
(清水徹訳 『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』 岩波文庫、2008年) - 『我がファウスト』 戯曲で最晩年の作品
全集・作品集
- 『ヴァレリー全集』(全12巻・補巻2、筑摩書房、新版1977-79年[6])
- 『ヴァレリー全集 カイエ篇』(全9巻、筑摩書房、1980-83年)-※年代順ではなく、テーマ別集成で抜粋版。
- 『ジッド=ヴァレリー往復書簡』(第1巻 1890-1896年/第2巻 1897-1942年、二宮正之編訳、筑摩書房、1986年)
- 『ヴァレリー集成』(全6巻、筑摩書房、2011年2月~2012年7月) -テーマ別集成での新訳。
Ⅰ テスト氏と<物語> 恒川邦夫 編訳
Ⅱ <夢>の幾何学 塚本昌則 編訳
Ⅲ <詩学>の探究 田上竜也・森本淳生 編訳
Ⅳ 精神の<哲学> 山田広昭 編訳
Ⅴ <芸術>の肖像 今井勉・中村俊直 編訳
Ⅵ <友愛>と対話 恒川邦夫・松田浩則 編訳
参考文献
- ドニ・ベルトレ、松田浩則訳 『ポール・ヴァレリー 1871-1945』 法政大学出版局・叢書ウニベルシタス 2008年
- 清水徹 『ヴァレリーの肖像』 筑摩書房 2004年
- 清水徹 『ヴァレリー 知性と感性の相克』 岩波新書 2010年
- 塚越敏 『リルケとヴァレリー』 青土社 1994年
- ロイス・デイヴィス・ヴァインズ 『ポオとヴァレリー 明晰の魔・詩学』 山本常正訳、国書刊行会 2002年
- ロビンソン・ヴァレリー編 『科学者たちのポール・ヴァレリー』 紀伊国屋書店 1996年
- 恒川邦夫・塚本昌則 訳・解説 『ポール・ヴァレリー[アガート]訳・注解・論考』 筑摩書房 1994年、遺稿の論考
- 恒川邦夫 訳・解説 『純粋および応用アナーキー原理』 筑摩叢書 1986年 、※1936-38年の遺稿集
- 田上竜也・森本淳生編訳 『未完のヴァレリー 草稿と解説』 平凡社 2004年、文学的沈黙期の遺稿集
関連項目
脚注
- ↑ Nomination Database The Nomination Database for the Nobel Prize in Literature, 1901-1950
- ↑ 旧訳は『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(筑摩叢書、1975年)。訳者は菅野昭正、佐藤正彰、清水徹、村松剛。
- ↑ 他に中井久夫・松田浩則共訳で、ヴァレリー最晩年の詩集『コロナ/コロニラ』(みすず書房、2010年)がある。
- ↑ 「ヴァリエテ」全訳版は、人文書院全2巻、1966年(限定1800部)。また「ヴァリエテ Ⅴ」が、『私の見るところ』(筑摩叢書、1966年)、佐藤正彰・寺田透訳。
- ↑ 旧訳版は、吉田健一訳 『ドガに就て』 筑摩書房、1977年。
- ↑ 他に初版「全集」は1967年より数年で完結。補巻を増補し装丁を変え、1970年前半と後半に刊行。