大豊泰昭
テンプレート:Infobox baseball player 大豊 泰昭(たいほう やすあき、本名:陳 大豊(チェン・ダーフォン:Chen Ta-Feng)、1963年11月15日 - )は、台湾南投県埔里鎮出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。左投げ左打ち。
元プロ野球選手の大順将弘(陳大順)は弟。宝塚歌劇団のひろ香祐は長女。
目次
経歴
プロ入り前
東峰中では台湾大会で優勝し、華興高では世界大会で優勝。王貞治に憧れて日本行きを希望するが、20歳にならないと出国できないため、卒業後に2年間母校でコーチを務めた。
愛知県新城市在住の新聞販売店主が大豊の引受人となって、1984年に名古屋商科大学へ入学。愛知大学野球リーグ通算96試合出場、343打数120安打、打率.350、24本塁打、94打点。敢闘賞2回、ベストナイン4回受賞。通算24本塁打はリーグ記録である。全日本代表にも2回選出された。卒業後は、日本人選手扱いとして日本プロ野球(NPB)入りするため[1]、中日ドラゴンズの球団職員として1年間在籍(当時の背番号は95番。支配下登録されていないので正式に登録されたものではない)。
中日時代
1988年のNPBドラフト2位で中日と選手契約。王の持つNPBシーズン最多本塁打記録55本を目標として背番号を55とした。
プロ1年目のテンプレート:Byは一軍と二軍を行き来しながらも14本塁打を記録。2年目のテンプレート:Byは20本塁打を放った。テンプレート:Byの秋季キャンプで臨時コーチの張本勲に勧められ、一本足打法を始める[2]。テンプレート:Byには25本塁打を放つと、テンプレート:Byには38本塁打、107打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得。また、同年は対広島東洋カープ戦で18本塁打を記録し、年間カード別最多本塁打の日本記録を樹立。テンプレート:Byは開幕から驚異的なペースで本塁打を量産し続けたが、最終的に巨人の松井秀喜と同じ38本塁打に終わり、チームメイトの山崎武司に1本及ばず松井とともに本塁打王を逃した。
テンプレート:By、本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに移ったこともあり、12本塁打に終わる。監督の星野仙一が広いナゴヤドームに対応して機動力重視の野球を目指したことから、テンプレート:Byに矢野輝弘とともに関川浩一・久慈照嘉とのトレードで阪神タイガースに移籍[3]。
阪神時代
テンプレート:Byの前半戦は5本塁打で前年同様に苦しんだが、後半戦は調子を取り戻し16本塁打を放つ活躍をした。テンプレート:Byには規定打席不足ながら26試合連続安打を放つなど、打率.341、18本塁打の活躍。さらに代打でシーズン歴代2位となる6本塁打を放つなど、代打での勝負強さも発揮した。テンプレート:Byには4月8日の広島市民球場での試合において、紀藤真琴から第1打席で通算250本塁打、続く第2打席で通算1000本安打を達成した。このシーズンは最終的に23本塁打を記録したものの、打率.241は前年と比べて大きく急落。おかげで同年オフの契約更改で大幅ダウンされる一因になってしまい、「規約違反の30%ダウンに納得がいかない」と自ら自由契約を申し入れて、阪神を退団した(実際は大豊の年俸が1億円を超えていたため、30%減俸は規約違反ではない)。
中日復帰
テンプレート:Byに中日に復帰したが、背番号55は既に紀藤真琴が着けていたため、背番号60に変更。同年には台湾代表としてIBAFワールドカップに出場した。テンプレート:By、開幕一軍スタートだったが出場は27試合にとどまった。オフに戦力外通告を受けて現役続行を希望したが、獲得球団はなく現役を引退。テンプレート:By3月23日、ナゴヤドームでの横浜ベイスターズとのオープン戦で引退セレモニーが行われた。
中日ドラゴンズ時代の応援歌は『勇者ライディーン』のテーマであったが、のちに変更。
引退後
引退後、中日球団のアジア地区担当スカウト兼少年野球指導担当を経て、2004年10月、名古屋市中区に中華料理店「大豊飯店」を開業。店の経営の傍ら、中京ローカル番組にゲスト出演するほか、東海地方を中心に各地へ野球教室や講演活動を行っている。
中日球団のアジア地区担当スカウトとして、台湾から陳偉殷(チェン・ウェイン)をテンプレート:Byに中日入団へ導いた。現在の肩書きは「中日球団台湾地域情報提供員」。
プロ野球マスターズリーグの名古屋80D'sersに、2005年度と2006年度の2シーズン参加した(ポジション登録は内野手、背番号は55[4])。参加当時、中日が1996年まで使用したヘルメット(筆記体の「D」が入ったもの)を着用していた[5]。
2009年3月、急性骨髄性白血病を患い入院。闘病生活の末に同年8月に退院したものの、2010年3月に再発。実妹からの骨髄移植を受け、同年9月上旬に退院した[6][7]。 2011年3月26日に「大豊飯店」を閉店し、5月25日に岐阜県海津市のお千代保稲荷参道内に「大豊ちゃん」として移転オープンしている[8][9]。2012年大豊飯店時代の顧客女性と再婚した。
人物
右足
9歳のときに裸足でターザンのまねをして着地した際に、たまたま地面に転がっていた釘が右足の裏に刺さってしまう。当時の大豊の実家周辺では医療レベルが低かったため満足な治療が受けられず、その後度々傷跡が膿むようになった。名商大1年のときに完全な治療を受けることができたが、本人曰く「9歳の時からずっと、その部分をかばっていたため、そこだけ筋肉がつかなかった」とのことで、右足裏はその後も大豊の弱点となり、足の踏み込みが十分にできないなどの問題を抱え続けることとなった[10]。
アメリカ人審判帰国の発端
1997年6月5日、対横浜戦(長良川球場)の打席で、アメリカ人審判のマイク・ディミュロが下したストライク判定に、大豊は「ホワイ、ストライク?」と言いながらストライクゾーンから外れているのではないか、というジェスチャーを行った。この言動をディミュロは「審判に対する暴言」とし、退場を命じる。なお上記の大豊の行動には布石があり、この打席でディミュロは再三にわたり打者不利ともとれる判定を下していた。これを不服とした監督の星野仙一およびコーチらがベンチから飛び出し、ディミュロを集団で取り囲みながら猛抗議を行う大騒動に発展。その後、ディミュロは集団的な威圧的行為により「身の危険を感じた」と辞職、帰国している。
この事件により、審判の権威についての議論が湧き起こった。さらには、この騒動から間もない同年7月3日の試合終了後、観客の「台湾へ帰れ!」のヤジに激高してフェンスの金網にバットを投げつけ、3日間の謹慎処分を受ける。当時のセントラル・リーグ会長であった川島廣守は「ファンの方も挑発的、侮辱的なヤジは控えてもらいたい」と声明の中で触れている。
私生活
1990年に元女優(古荘弘子)と結婚し、妻との間に2女をもうけた。長女は宝塚歌劇団95期生星組男役ひろ香祐(ひろか・ゆう)。2007年3月、宝塚音楽学校に合格したひろ香のコメントで、古荘が2005年12月に他界していたことが明らかになった。後の2009年に大豊は中日新聞、東京スポーツで『雪で高速道路の大渋滞に遭い、そこで心筋梗塞の発作を起こした』と妻の突然の死を語っている。ひろ香は2009年3月に宝塚音楽学校を95期生45人中2番の成績で卒業[11]。同年4月、宝塚デビューを果たした。
1999年9月21日に発生した台湾大地震の復興支援活動として、募金やチャリティーゲームに出場するなどの活動を行った。
引退後に開業した大豊飯店では大豊自ら積極的に接客し、野球談義に花を咲かせている。長者町繊維街にある店のビル正面には、中日時代の一本足打法の全身像が掲げられていた。2011年5月に移転開業した「大豊ちゃん」でも自ら店頭に立ち、屋外で名物の棒餃子を焼く姿が見られる。一本足打法の全身像も縮小されたものの、引き続き店舗正面に掲げられている。
プレースタイル
一本足打法
王貞治へのリスペクトから、一本足打法にこだわりを見せていたが、それ故にバッティングを壊すことも多く、阪神在籍時の1999年に監督の野村克也のアドバイスにより、一本足打法からすり足打法に変更した。ただし、本人が後に語ったところによると、打法の変更は「一本足打法では試合で使ってもらえないため、試合に出るためのやむを得ない選択だった」とのことで、本当は一本足打法を貫きたかったという[12]。
守備
入団当初は一塁手に落合博満がいたため左翼手での出場が多かったが、落合の移籍後は一塁手のレギュラーとなった。外野の守備は不得手だったが、一塁守備は上手く、柔らかい足腰を生かして開脚しながらきわどいタイミングの送球を捕球することにも長けていた。古田敦也は、「実際に見た一塁手のうちで最も守備が巧かった」とも評している。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 中日 | 101 | 353 | 309 | 37 | 72 | 18 | 0 | 14 | 132 | 36 | 2 | 3 | 4 | 1 | 36 | 0 | 3 | 86 | 9 | .233 | .318 | .427 | .745 |
テンプレート:By2 | 105 | 291 | 259 | 34 | 71 | 13 | 0 | 20 | 144 | 48 | 2 | 0 | 6 | 2 | 23 | 3 | 1 | 63 | 5 | .274 | .333 | .556 | .889 | |
テンプレート:By2 | 121 | 461 | 396 | 50 | 112 | 23 | 1 | 26 | 215 | 72 | 2 | 3 | 3 | 2 | 53 | 7 | 7 | 84 | 13 | .283 | .376 | .543 | .918 | |
テンプレート:By2 | 81 | 280 | 251 | 24 | 67 | 18 | 1 | 11 | 120 | 39 | 0 | 2 | 0 | 0 | 27 | 3 | 2 | 52 | 7 | .267 | .343 | .478 | .821 | |
テンプレート:By2 | 117 | 437 | 367 | 53 | 95 | 14 | 0 | 25 | 184 | 59 | 0 | 1 | 0 | 1 | 66 | 6 | 3 | 117 | 4 | .259 | .375 | .501 | .877 | |
テンプレート:By2 | 130 | 560 | 477 | 83 | 148 | 24 | 2 | 38 | 290 | 107 | 1 | 2 | 0 | 9 | 71 | 10 | 3 | 97 | 6 | .310 | .396 | .608 | 1.004 | |
テンプレート:By2 | 106 | 444 | 389 | 49 | 95 | 14 | 1 | 24 | 183 | 65 | 1 | 0 | 0 | 1 | 51 | 3 | 3 | 81 | 7 | .244 | .336 | .470 | .806 | |
テンプレート:By2 | 129 | 537 | 462 | 69 | 136 | 19 | 1 | 38 | 271 | 89 | 3 | 1 | 4 | 2 | 68 | 8 | 1 | 106 | 10 | .294 | .385 | .587 | .971 | |
テンプレート:By2 | 95 | 341 | 296 | 33 | 71 | 12 | 0 | 12 | 119 | 35 | 0 | 1 | 2 | 2 | 38 | 2 | 3 | 78 | 5 | .240 | .330 | .402 | .732 | |
テンプレート:By2 | 阪神 | 99 | 346 | 307 | 41 | 71 | 17 | 0 | 21 | 151 | 61 | 0 | 0 | 1 | 2 | 34 | 1 | 2 | 94 | 5 | .231 | .310 | .492 | .802 |
テンプレート:By2 | 78 | 181 | 164 | 20 | 56 | 13 | 0 | 18 | 123 | 39 | 0 | 2 | 0 | 0 | 16 | 2 | 1 | 56 | 5 | .341 | .403 | .750 | 1.153 | |
テンプレート:By2 | 97 | 337 | 303 | 38 | 73 | 9 | 2 | 23 | 155 | 54 | 4 | 1 | 0 | 3 | 26 | 3 | 5 | 93 | 2 | .241 | .309 | .512 | .820 | |
テンプレート:By2 | 中日 | 38 | 77 | 70 | 6 | 12 | 4 | 0 | 3 | 25 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 1 | 0 | 34 | 1 | .171 | .234 | .357 | .591 |
テンプレート:By2 | 27 | 54 | 47 | 7 | 10 | 2 | 0 | 4 | 24 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 16 | 1 | .213 | .315 | .511 | .825 | |
通算:14年 | 1324 | 4699 | 4097 | 544 | 1089 | 200 | 8 | 277 | 2136 | 722 | 15 | 16 | 20 | 26 | 522 | 49 | 34 | 1057 | 80 | .266 | .352 | .521 | .873 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- ベストナイン:1回 (一塁手:1994年)
- 月間MVP:3回 (1994年6月、1994年9月、1996年5月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1994年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1994年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1989年4月9日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(ナゴヤ球場)、5番・左翼手として先発出場
- 初打席・初三振:同上、1回裏に斉藤明夫から
- 初安打:同上、7回裏に斉藤明夫からソロ
- 初本塁打・初打点:1989年4月22日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、5回表に北別府学から
- 節目の記録
- 100本塁打:1994年4月29日、対広島東洋カープ4回戦(長良川球場)、4回裏に川口和久から右越ソロ ※史上177人目
- 150本塁打:1995年8月22日、対阪神タイガース17回戦(阪急西宮球場)、6回表に藪恵壹から左越ソロ ※史上101人目
- 200本塁打:1997年5月11日、対広島東洋カープ8回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に佐々岡真司から中越逆転決勝3ラン ※史上67人目
- 1000試合出場:1998年4月22日、対横浜ベイスターズ5回戦(阪神甲子園球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上342人目
- 250本塁打:2000年4月8日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、2回表に紀藤真琴から右越先制ソロ ※史上39人目
- 1000本安打:同上、4回表に紀藤真琴から右前安打 ※史上199人目
- 1000三振:2000年9月17日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、6回表に佐々岡真司から ※史上27人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1991年、1994年、1996年)
- 26試合連続安打(1999年8月24日 - 10月1日)
- 5試合連続本塁打(1996年4月11日 - 4月16日)
背番号
- 55 (1989年 - 2000年)
- 60 (2001年 - 2002年)
関連情報
著書
- 『大豊 - 王貞治に憧れて日本にやってきた裸足の台湾野球少年』(ソフトバンクパブリッシング、2004年発行、240頁)ISBN 4797329122
連載
- 大豊泰昭・八転び七起き(2008年頃、東京スポーツ)
脚注
関連項目
- 台湾の人物一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 兄弟スポーツ選手一覧
- おれたちゃドラゴンズ(中日を題材とした漫画作品。登場選手第1号が大豊だった)
- アジア・オセアニア出身の日本プロ野球外国人選手一覧
外部リンク
- 大豊.com(大豊泰昭公式ホームページ)
- グローバルドリーム 元中日ドラゴンズ 大豊泰昭さん
- ↑ 外国人枠 (日本プロ野球)も参照。
- ↑ 【2月26日】1993年(平5) 大豊泰昭、直伝の一本足&広角打法で場外弾! - 『スポニチアネックス』内「日めくりプロ野球」2009年2月配信記事
- ↑ 『ハードプレイ・ハード 勝利への道』(文藝春秋、2000年)P84。星野は著書の中で「このトレードは、両球団にとって非常によい結果をもたらしたと思う」と記している。
- ↑ 2006年度の名古屋80D'sers内野手リスト - プロ野球マスターズリーグ公式サイト内(インターネットアーカイブ2007年6月3日付保存キャッシュより)
- ↑ 2007年当時、プロ野球マスターズリーグ公式サイトトップページに掲載されていたバナー - ※バナー中央に大豊(胸番号55の左打者)の写真が掲載(インターネットアーカイブ2007年6月13日付保存キャッシュより)。
- ↑ 2010年9月22日付中日新聞朝刊34面(社会欄) 『竜が舞う 2010秋 チェン快投 闘病の力』
- ↑ 2010年11月18日付日刊スポーツコラム 『元中日、阪神・大豊泰昭「大豊飯店」/引退後記』
- ↑ 大豊飯店 錦店閉店と新店舗「大豊ちゃん」オープンのお知らせ|大豊泰昭オフィシャルサイト
- ↑ 新店舗「大豊ちゃん」5/25にお千代保稲荷の参道にオープンのお知らせ|大豊泰昭オフィシャルサイト
- ↑ 東京スポーツ・2008年12月4日付 3面「大豊泰昭・八転び七起き」第18回
- ↑ 大豊氏長女 宝塚音楽学校次席で卒業 - デイリースポーツオンライン 芸能・社会 2009年3月3日付
- ↑ 東京スポーツ・2008年2月11日付「大豊泰昭・八転び七起き」